昭和21〜24年(中学時代)
- 最後の旧制中学生
昭和21年(1946)4月、私は中学生になった。
白線の入った帽子をかぶって、電車に乗って通学する自分が誇らしかった。学校では庭球部に入った。テニスコートは中庭にあったが、草取りをしたりローラーをかけたりして、部員全員でコートを整備して、それから練習が始まるが、1年生はラケットで球を打つなんてことはなかなかやらせてもらえない。球拾い専門である。
なんだかばかばかしくて、あまり熱心に活動しなかったように思う。でも退部はしなかった。後のことになるが、高校に入ってからも庭球は続けていたから、やろうという気は失せてはいなかったのだろう。
入学したのは旧制中学校だから――新制中学校ができるのは、翌22年である――、1年生から5年生までいる。入学したばかりの1年生の目から見れば、4〜5年生ともなると、もう立派な大人だ。通学路などで上級生に出会ったら、必ずこちらから敬礼する慣わしがまだ残っていた。
入学間もないころである。私たちは1年何組だったか、休憩時間に教室でわいわいドスンドスンと騒いでいた。突然、下の教室から――木造2階建ての校舎で、2階は私たち1年生の教室、1階は5年生の教室だった――5年生何人かが私たちの教室に入ってきた。
「おまえら、何を騒いでいる。全員席に着け」と大音声。
私たちは途端にシュンとなり、大急ぎで自分の席に着く。
「今から仕置きをする。全員目をつぶれ」
前の方から「バシン、バシン」と、平手打ちの音が近づいてくる。きっと一人ひとり頬を打たれているのだ、と覚悟した。でも、私は怖いもの見たさに、うっすらと目を開けて見た。
なんと、5年生は自分の両手を打ち合わせながら、こちらに近づいてきているのだった! 安心して自分の番が来るのを待った。
その当時から「いじめ」はあったと思うが、私は少年時代、いじめられたこともいじめたこともない、と信じている。そういう経験が記憶に全くないからだ――記憶がないという者に限って、いじめ側にまわっていたのだという説もある――。体は大きい方だったし、それに元来が群れるのが嫌いな性格だった。
1年生の時だったか、クラスに落第生が1人いた。当時は落第という制度が生きており、成績不良の者は進級できず、原級に留め置かれる。つまり、1学年下の生徒と同じクラスになる。そういう生徒は大概、ボス風を吹かせて、いじめやいたずらを主導する。
自習時間のことである。そのボスがある生徒の画用紙だかノートだかひったくって取り上げてしまった。取られた方は泣きべそをかいているばかりで何も言えない。その前のいきさつは知らないが、その様子を後ろの方の席で見ていた私に突然、怒りがこみあげてきた。
「何をする。人の物をとっていいのか」と私。
「あいつには要らないから、おれが貰ったんだ。文句あるのか」とボス。
「・・・・・・」
情けないことに、私はちょっとひるんでしまった。
「昼休みに図工室へ来い。決着つけようぜ」
そのころ、図工室は使われていなかった。窓ガラスは破れ、床には図画工作用の器材が雑然と放置されていた。
私は昼休みの弁当もろくにのどを通らなかった。ものすごく緊張していたと思う。でも、図工室に向かった。ボスは取り巻きを2、3人引き連れて待っていた。彼らが立会人ということらしい。
「さあ、かかって来い」とボス。
私はやみくもに腕を2、3回振りまわして、ふと見ると、相手は床に倒れている。私にはどこも痛いところはない。ということは、この決闘は私の勝ちということになった。
それ以来、彼は私の言うことは何でも聞いてくれるようになった。といって、私が代わってボスになったわけではない。ボス風を吹かすなんて、私にできることではない。それ以降今日まで、唯一の特別な例外を除いて、私は殴り合いの喧嘩をしたことはない。
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