昭和20〜21年(国民学校6年生)
- 国民学校6年生
8月15日以後、私はどのようにして過ごしたのか。
校庭を畑にしてサツマイモやカボチャを作ったりしていた記憶はあるが、勉強についてはあまり記憶がない。
ひとつだけ、恥ずかしい記憶がある。休憩時間の教室で賭博をやったのだ。私を含め男の子何人かが車座になって、1銭だか10銭だかお金を賭けて花札をやった。周りを男の子たちが壁になって取り囲み、女の子を近づけないようにする――私たちの学年は、男子20名・女子40名の1クラスだった――。
そんなことをしたって、何かあればいいつけてやろうと虎視眈々と狙っている女の子の眼をごまかせるわけがない。たちまち、担任に通報されてしまった。
直ちに賭博をやっていた者は、職員室に呼び出され、土下座させられた。担任の尋問は、一人ひとり順番に行われ、最後に私のところにやってきた。
「教室で花札をやることは悪いことだと知っていたのか」
「知っていました」
「じゃ、なぜやった。皆を止めようとはしなかったのか。君は級長だろ」
「・・・・」
君は級長だろう、おまえは長男だろう、男だろう、何か事あるごとに学校の内であれ外であれ、こういって大人たちから叱られた。
担任にスリッパで頭を何回も殴られた。優等生であった私だけたたかれる強さと回数が少ないことに気付きながら――殴られながら、そんなことによく気がつくものだ――、「ごめんなさい」と謝り続けた。
家に帰ってからが辛かった。同じ郡内で小学教師を務める父は、当然ながら私の担任と顔見知りである。父に「教師の息子がこんな悪いことをするとは。お父さんはもう学校を辞めなければならないかもしれない」ときつく説教されて、改めて事の重大さに気付くのだった。
夜も更けてから、庭に出て、凍るような冷たい月に向かって「もう二度とこのようなことをしません」と誓ったことだった。と同時に、なぜ父は「教師を辞めなければならない」などと自分のことを言うのだろう、悪いことをしたのは僕なのに、との思いは心の底に残った。
年が改まり、昭和21年となった。
国民学校初等科卒業の年である。そして、中学受験が控えている。中学校は旧制で、私は電車――ローカル線には珍しくその当時から電化されていた――で4駅、約10分離れた県立府中中学校を受験した。電車で30分ほど反対方向に行くと、福山市内に旧藩校であり備後地区随一の名門校、県立誠之館中学校があったが、そちらではなく近くの府中中学に受験した。
学校では受験生全員が集められ、担任が模擬面接をやってくれた。お決まりの質問「尊敬する人物は?」にどう答えるか。戦中であれば迷うことはない。代表的な答えは「楠木正成です」と答えればよかった。
時は戦後間もなくである。楠木正成や東郷元帥、乃木将軍、ましてや東条英機大将というわけにはいかない。もっと別の人を挙げなければならない、それを担任は教えたかったのだろう。
そういう、かつての英雄はもはや通用しない、ということは子供たちにも分かっているが、さて、ではだれをあげたらよいか。戦後の混乱時に、そのような質問をされても子供たちも困惑するばかりである。
「父です」と答えた子がいた。「その答えはなかなかよろしい、それを他の人も使っていいぞ」ということになった。
私は考えに考えて、「明治天皇です」と答えた。
「ほう、なぜかね」
「明治維新を成し遂げた天皇陛下だからです」
「うん、なかなかいい答えだ。これも使える」と担任先生。
では、私は心底、明治天皇を尊敬していたのか。明治天皇について、どれだけのことを知っていたのか、明治維新という大きな体制転換に明治天皇はどれほどの役割を果たしたのか、そんなことは全く知らないまま、私は面接官の期待に応えるにはこの答えがいい、と直感したのだった。どう振る舞えば好ましいと思ってもらえるか、それがすでに一つの行動基準になってしまっている。
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