昭和20〜21年(国民学校6年生)
- 終戦
昭和20年(1945)8月15日、私は数え年13歳、満年齢でいえば12歳の国民学校6年生である。
それは、焼けつくように暑い日だった。
一歳年下の従兄弟と2人で、大川の土手に出てウサギの餌にする草を刈り、竹で編んだ背負い籠に入れ、昼食の時間も過ぎてしまったと急いで帰ってくると、家の縁側に祖父母、母、それに近所の人たち何人かが、普段とはちょっと違う顔つきで座っていた。座敷の床の間でラジオが鳴っていた。
「日本が戦争に負けたんだ」と、誰かがそういった。
「負けたって?」
その瞬間、私は何を考えたのだろうか。
家のなかには入らなかったように思う。あるいは、ウサギに餌の草をやりに行ったのか。
ウサギは、農作業棟の軒先にミカン箱のような箱に金網を張ってウサギ小屋にして、その中で飼っている。箱はいくつもあって、茶色のウサギもいたが、ほとんどは白ウサギである。いつも数匹いたが、子供を産むとどんどん増えていった。
当時、ウサギは貴重な蛋白源だった。
日本が負けた、といってもそれがどういう意味をもつのか、よくわからなかった。日本が戦に負けたということは分かる。けれども、じゃ何がどう変わるのか、私はどうなるのか。
「撃ちてしやまむ」といったって、「ニミッツ、マッカーサー・・・」といったって、子供心には戦争など想像しようもなかった。
でも、少国民としては、もう少し大きくなったら陸士(陸軍士官学校)か海兵(海軍兵学校)へ進学してすぐれた軍人になる、といったようなことは、大人たちからそう教えられ、自分でも口にしてはいた。戦争に負けたのなら、もうそういう道はなくなるのだろうか。では、どうする?そんなことは考えても分かるはずもなかった。
それに先立つ昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争――大東亜戦争といった――が始まってから、毎月8日は大詔奉戴日として全校児童が校庭に集まり、校長が恭しく教育勅語を奉読した。児童は頭を低く垂れ、謹んでこれを聞いているはずだが、たいていは上目使いで一部始終を見ている。この時間が、実に長く感じられ、退屈でたまらない。貧血で倒れたりする子が出ることもある。
「ギョメイ、ギョジ」が聞こえると、ホッとして解放された気分になる。6年生になってもまだ、「ギョメイ、ギョジ(御名御璽)」というのは「ハイ、お終い」ということだと思っていた。「直れ」の号令がかかって、はじめて頭をあげる。あちこちでハナをすすりあげる音が聞こえた。
この教育勅語の奉読は、終戦とともになくなったとばかり思っていたが、文部省が教育勅語の奉読と神聖的取扱いを行わないこととしたのは、昭和21年とのことだから、戦後もしばらくは続けていたのかもしれない。
戦時中の生活は、私の場合、それほど苦しいものではなかった。戦災に遭うわけでもなく、家族離れ離れで暮らす苦痛もなかった。父は応召もなく小学校教師を続けており、祖父母も健在で母とともに農業に従事していたから、食うものに困ることもなかった。
藤田家は代々大工の棟梁としてこの地域で働いてきた家系だった。江戸時代から近くのスサノオ神社の本殿・拝殿の建築・再建を手掛けており、また村の大庄屋・信岡家の屋敷(登録有形文化財)を建てたというのが曾祖父の自慢だったということを叔父から聞いたことがある(未確認)。
祖父は、理由は分からないが、その大工という職を継がず、農業者になった。かなりの田畑を持ち、何人かの小作人を抱えていたらしいが、戦後の農地改革でいわゆる三反百姓となった。
田舎に住む子供の私にとって、戦争は遠い世界のことだった。でも、時々空襲警報が鳴り、ロッキードやグラマンの機影は、学校の帰り道などで何回も見た。
8月6日には広島に新型爆弾(原爆)が投下され、広島市街は全滅したというニュースは聞いていたが、同じ広島県でも広島市から遠く離れた県東部の田舎に住む私の親戚・知人で被害にあった人はいなかった。
後年、東京に出てから、郷里はどこかとよく聞かれたが、そのとき「広島です」と答えると、必ずといっていいほど「原爆はどうだった?」と聞かれる。説明するのが面倒くさくなってきて、「広島県です」と答えることにした。そうすると、今度は「ほう、なかなか正確に答えるのだね」といわれる。これには参った。
山口県の人が、山口市であろうと下関市であろうと、岩国市の人であろうと、「山口です」といえば、それで大概の場合は済んでしまうだろう。広島県出身者に限って、原爆との関係を説明しなければならず、結構、面倒である。
8月8日の福山空襲のことはよく覚えている。庭に作った防空壕に逃れたことも覚えている。東の空が赤く染まっていた。この空襲で福山市の80%は焼土と化し、国宝福山城天守閣も焼け落ちた。
「ドスン」と大きな音を聞いた翌朝、畑に出てみたら大きな穴が開いていた。焼夷弾が落ちたそうだ。福山空襲の米軍機が余った焼夷弾を捨てて行ったのだと説明してくれる人がいた。
そんなわけで、田舎者の小学生には、この戦争は生活の刺激ではあっても苦しみではなかった。だから、敗戦の報を聞いてもピンとこなかったのかもしれない。
国民学校――当時、小学校はこう呼ばれた――の体育館に陸軍用の衣料が大量に保管されていた。毛布やコートそのほか、当時としてはめったに手に入らないような衣料である。
それを持ち出している、という噂が流れてきた。ひどい人はトラックで乗り付けてそれに積み込んで持ち出しているとか。それを聞いて、村の人たちは我先にと学校に向かい、持てるだけの衣料を抱えて持ち帰っていた。我が家でも軍人の着る防寒用の厚いコートを1着持ち帰った。
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