私の戦後史
- はじめに
私の尊敬する人物の一人、加藤周一はその自伝の「あとがき」に、次のように書いている。(『羊の歌』および『続羊の歌』、ともに岩波新書 1968)
いま俄かに半生を顧みて想い出を綴る気になったのは、必ずしも懐旧の情がやみ難かったからではない。私の一身のいくらか現代日本人の平均にちかいことに思い到ったからである。
中肉中背、富まず、貧ならず。言語と知識は、半ば和風に半ば洋風をつき混ぜ、宗教は神仏いずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。芸術は大いにこれをたのしむが、みずから画筆に親しみ、奏楽に興ずるには到らない。――こうした日本人が成りたったのは、どういう条件のもとにおいてであったか。私は例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。「知の巨人」と呼ばれる加藤周一が平均的日本人であるわけがない。平均的というなら私こそ平均的日本人だ。
「中肉中背、富まず、貧ならず。(言語と)知識は、半ば和風に半ば洋風をつき混ぜ、宗教は神仏いずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。・・・・・」
この限りにおいては、それらについて、ことの深浅を問わなければ、私も全く加藤周一と軌を一にする。その考え方・見方は、私のものと同じである。
しかし、私は加藤周一ほどの才能も知識もなく、そして何よりも彼ほどの意欲と勤勉さをもたないし、思想は浅薄である。だからこそ、どうしてこういう平均的日本人が成り立ったかを語るには、加藤周一より私の方が有資格である。
それをみるには、やはり思春期、青春期を語るべきであろうと私は思った。つまり、私の12歳から22歳までをここに綴ってみようと思う。それはちょうど、終戦の昭和20年(1945)から、経済白書が「もはや戦後ではない」と書いた昭和31年(1956)までの戦後期に相当する。私の小学校――当時は国民学校といった――6年生から大学卒業までの期間である。
なお、ここに綴ったのは私の記憶と断片的な日記・メモなどに基づいてはいるが、私の記憶違いもあるだろうし、事実そのままというわけではない。むしろフィクションとしてお読みください。(2010/01/04記)
この期間の主要な出来事は、次の文献によって確認した。
下川耿史・家庭総合研究会編『増補 昭和・平成家庭史年表1926〜2000』河出書房新社 2001。
ホームページへ戻る