サンティアゴ巡礼の道

サンティアゴ巡礼の道


はじめに

今年(2005年)8月初めの暑い盛りに、北スペインのサンティアゴ巡礼のツアに参加しました。一行は6名(うち、女性4名)で、全行程のツア・リーダー(ガイド)はジョセフィーナ(愛称、ジョシー)という女性で、マウンティンガイド兼ドライバーは若い男性、ロマンです。
このツアは、実際には巡礼の道を辿るだけでなく、ピレネーとカンタブリアの山群へのトレッキングを組み合わせた欲張ったものでしたが、ここでは巡礼の道についてだけ述べます。 トレッキングの方は「山行雑感その2」に掲載しました。

**********
「地の果てとされていたガリシア(スペイン北西部)で9世紀初め、キリスト12使徒の一人、聖ヤコブ(スペイン語ではサンティアゴ)の墓が発見されました。この墓の発見でこの地がキリスト教の聖地となり、ローマやエルサレムと同様、世界各地から多くの人が、星降る道、銀河の道を歩み、サンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かいました。(スペイン政府発行の案内書より)」
**********

世界各地からの道はフランスに入り、ピレネーの峠に集まります。したがって、一般には、巡礼の道はピレネーから始まるとされています。
世界遺産にも登録されているこの巡礼の道を、私たちはピレネー山脈ソンボルト峠の南、ハカから始めました。

[ホームページへ]


1.ハカからナバラへ(08/01)
2.ナバラからブルゴスへ(08/02)
3.レオンからビラフランカ・デル・ビエルゾへ(08/04)
4.ビラフランカ・デル・ビエルゾからサンティアゴへ(08/05)
5.サンティアゴ・デ・コンポステーラで(08/06)


1.ハカからナバラへ(08/01)

今日から巡礼の道を行くスケジュールですが、午前中はスペイン・フランス国境のピレネー稜線上を少し歩いてみたいという私たちの希望を入れて、ロマンが案内してくれることになりました。これについては、「山行雑感その2」をごらん下さい。

さて、いよいよ巡礼の道が始まるのですが、いきなり道を少し外れて、車でサンジュアン・デ・ペニャを訪ねました。サンティアゴ巡礼とは直接関係ないとのことですが、写真でごらんのように、高い岸壁の下に押し込むようにして建てられた特異な建築です。「ペニャ」という語は、岩という意味だそうです。
なんでも最初はイスラムの迫害を受けた兄弟がここに逃れてきて隠遁の生活を送り、のちに修道院として使われたとのことです。

午前中のトレッキングはみぞれと雷のため早めに切り上げて降りてきたので、私たちは昼食として用意したパックランチはそのままで、これを食べる場所がありません。
近くのサンタクルス・デ・セロスという寒村のバー(レストランよりも簡易で安く、長時間営業している食堂)に頼みましたが、停電のため(雷のせいか)入れてくれません。仕方なく、道端でサンドウィッチを頬張る羽目になってしまいました。でも、やっぱり何か飲みたいということで、またバーに行ったら、うまい具合に電気が通じたので、カフェオーレを注文しました。大変美味しく、1ユーロと安いものでした。

再び車に乗って、パンプロ―ナまで走ります。今回は、巡礼の道を辿るとはいってもほとんど車で、ところどころを短時間歩くだけの、"巡礼"ともいえない横着なもので、大きな荷物を背負ってもくもくと歩く巡礼者に申し訳のないことです。
パンプロ―ナは、例の有名な牛追い祭りの街です。祭りは7月ですからもう終わっていましたが、その牛追いの順路に従って街中を散策しましたが、この道が意外に狭い。しかも急角度で曲がるところがいくつもある。これだから、牛追いもさぞかしスリルのあることだろうと想像したことでした。

巡礼路のウカールという村まで車で行き、そこからいよいよ歩き始めました。もう、午後6時ですが、まだまだ太陽は高い。それに、これより早い時間には暑くて、日陰のない道をとても歩くような気分になりません。

写真にあるような青地に帆立貝を示す黄色の線の入った標識が要所要所に立てられており、巡礼者をサンテァゴへと導いてくれます。四国遍路の「へんろ道保存協力会」の、赤いシールのようなものですね。いろんな形式のものがあり、街中などでは帆立貝を彫りこんだ敷石もあり、黄色のペンキで描いた矢印、また道の真中に石を敷き詰めた矢印もあります。
この帆立貝の標識に、進行方向を示す矢印が入っているものもありますが、貝印だけのものも多い。「貝印だけでは進行方向が分からないではないか」というと、ジョシーは「線が集まる方向が進行方向。全部の線が集まったところがサンティアゴだ」という。
なるほど、と思って標識に出会うたびに注意していましたが、そうでない場合も多い。私たちの結論は、ジョシーの説明は間違いだということになりました。







刈り取った麦畑の連なる広い平原のなかを行きます。このあたり、巡礼路は舗装してありませんから、歩くたびに白い(本当に白くて、目の細かい)砂埃が舞い上がります。靴もズボンも真っ白です。

しばらく行くと、遠く葦原の向こうにサンタマリア・デ・エウナテ教会が見えてきます。
この教会は八角形という特異な形をしており、周りをアーチにかたどられた回廊によって囲まれています。エウナテとは、百の門という意味だそうで、この回廊のアーチや建物の入口など、数えていけばその数が百に達するのでしょう。

今日の歩きはここまでです。歩行距離、僅かに4.5キロに過ぎません。私たちはここで待っていてくれた車に乗り、ナバラを経て、今日の宿泊予定のユソ僧院に着きました。

2.ナバラからブルゴスへ(08/02)

ユソ修道院はサン・ミラン・デ・コゴラという村にあり、巡礼道から少し外れたところです。私たちが宿泊したのはこの修道院が経営するホテルで、立派なものでした。夕食は近くのレストランで摂りました。

このユソ修道院から少し山を登ったところにスソ僧院という洞窟のなかの遺跡があります。ユソ修道院とともに世界遺産に登録されています。
このスソ僧院は洞窟を刳りぬいたものですが、中に入ると、本当に広い。いくつかの部屋に仕切られています。6世紀以来、多くの修行者や隠者によって拡張され使われてきたもので、石棺なども残っています。ロマネスク様式にアラブの様式が混じり、誠に不思議な構築物です。
ユソ修道院の裏で、朝食の合間をぬってスケッチしたので、ご笑覧に供します。

ユソ修道院裏


コゴラから少し離れたシルエニャのいう村からサント・ドミンゴ・デ・カルザダまで、刈り取った麦畑の大平原のなかの道を歩きます。埃っぽい道で日陰ひとつありません。

多くの巡礼者が歩いています。野宿する態勢でしょうか、大きな荷物にマットを背負った若者が多い。ほとんどの人が、男も女も半ズボンにティシャツです。なかには水着の人もいます。われわれ日本人だけが長ズボンに長袖シャツですから、嫌でも目立ちます。
結構みんな歩くのが早い。挨拶もまた面白い。スペイン語、フランス語、ドイツ語、なかには日本語で「コンニチハ」と挨拶してくれる人もいます。
サント・ドミンゴ・デ・カルザダの町が下の方に見えてきました。

この町で、巡礼者のためのパラドールの中を見せてもらいました。写真でご覧になるように、まるで"野戦病院"のようです。宿泊は無料ですが、巡礼者はそれぞれ応分の寄付をするようです。
巡礼の道の道標もそうですが、こうした巡礼者用の施設もよく整っているように見受けられました。





巡礼路そのものが、国道などの車道と同じところを通っていても、はっきりと分離されていることが多く、日本の場合と違うように思いました。四国遍路の国道55号線のことなどが思い出されます。
カルザダの町からブルゴスまでは車を利用しましたが、この間の巡礼路はほぼ国道に沿っています。でも、巡礼路ははっきりと国道と分離されており、間に緑地帯を設けてあるところもあり、大部分は舗装してありません。これは、歩く人にとって大変ありがたいことです。四国遍路で、歩き遍路が足を痛める大きな原因の一つが舗装道路を歩かざるを得ないところにあるからです。

歩いている巡礼者が実に多い。自転車の巡礼者もいます。この夏の期間、巡礼者にとっては厳しい季節だと思いますが、休暇がとりやすいので多いのかどうか、本当に多くの巡礼者を見かけます。直感的ですが、四国の春遍路の10倍以上にのぼるのではないでしょうか。

ブルゴスの大聖堂、修道院ともに大変立派なものですが、私たちは時間の関係で外観だけ我慢し、先を急がざるを得ませんでした。
というのは、この日、巡礼路から外れて北に向かい、ピコス・デ・エウロパのトレッキングに移らなければならないからです。そして2日後、再びレオンに帰って巡礼路を辿る予定です。したがって、私たちの「巡礼の道」は、ブルゴスからレオンまでは空白となります。

3.レオンからビラフランカ・デル・ビエルゾへ(08/04)

トレッキング中、宿泊した山上のホテルからレオンまで長い道程を車で移動します。いささか疲れて、ついウトウトとしてしまいました。

レオンは大きな都市で、立派な大聖堂があります。なかに入ってみれば、大きなステンドグラスがとても美しい。

昼食を摂ることにしましたが、どのレストランも屋外のテラスは空いているのですが、屋内はいっぱいです。この暑さでは、さすがのヨーロッパ人も日に当たりながら食事という考えはないようです。私たちはジョシーの必死の折衝でうまく1軒のレストランの屋内席を確保しました。
ここのマスターの接客がユニークというか、最高というか、パンを切ること、ハムを切ること、そして配膳すること、すべて猛スピードで乱暴極まりないように見えて、実はまったく理にかなっており、その行動はまさに芸術的ともいえるもので、私たちはここのタパス・ランチを大いに楽しむことができました。
そして、あまりゆっくりする暇もなく、アストルガに移動しました。

アストルガでは、ガウディの司祭館とロス・カミノス巡礼資料館を訪ねました。
この巡礼資料館はその収集資料の豊富さにおいても、また建築の素晴らしさにおいても(ガウディの設計)注目に値するものだと思います。四国遍路の場合、ここまで集中的かつ体系的に資料が収集展示されている例はないのではないでしょうか。

次に、カストリロ・デ・ロス・ポルバザーレスという小さな村を訪ねました。

橋を渡って一歩村に入ると、その特異な雰囲気が訪れる人を圧倒します。住居から教会、道路舗装まであらゆる構築物が石で構成されている中世さながらの村で、現在も人々が住んでいます。外来者は車で入村することは禁じられています。橋のたもとの駐車場に車を置いて、村内を散策することはできます。
写真の、教会の塔の上にコウノトリが巣を作っているのがお分かりでしょうか。

このあたりから、巡礼路を歩き始める予定でしたが、何しろこの暑さです。マドリッドでは、最高気温44度という話が伝わってきているくらいですから、歩く距離を短縮しようということになりました。
マンジャリンという村まで車で行き、ここから歩き始めます。ゆるやかな起伏のある巡礼路、両脇は低潅木が続き、いまは茶褐色一色ですが、春6月ともなれば、ローズマリーやラベンダーの花盛りで、それはそれは美しいそうです。そんな道を歩くのはさぞかし楽しいに違いないと、フーフー汗をかきながら歩くことです。

途中、若い女性の二人連れを追い越しました。中欧の人らしいのですが、ピレネーからずーっと歩いているそうです。ひとりは右下肢にテーピングしています。2人ともものすごく大きな荷物を背負っています。
「何キロぐらいか」と聞いたら、「20キロ位ある」というので驚きました。何か口に入れるものをくれ、というので私たちの連れの一人がホテルのカウンターから持ち出した飴をあげると、大変喜んでいました。

エル・アセボの村に着きました。早速、バーに飛び込んで、コークを注文。その美味しかったこと。僅かに、1ユーロでした。
節約するのだったら、水呑み場で水を呑むことができます。このエル・アセボのような巡礼路の村には、必ずといっていいほど冷たい水の出る水呑み場があります。そこで、水を補給したり、顔を洗ったりすることができます。

元気を出して、更にリエゴ・デ・アンブロスまで歩きます。マンジャリンからここまで、約8キロの歩行行程でした。
私たちを待っていてくれた車に乗り、ビラフランカ・デル・ピエルゾのパラドールに入り、今日一日が終わりました。

4.ビラフランカ・デル・ビエルゾからサンティアゴへ(08/05)

ビラフランカ・デル・ビエルゾの街をしばらく散策したのち、車でラス・ヘレリアスまで行き、ここからセブレイロ峠を目指して歩き始めます。
この間の8.5キロはいままで歩いた巡礼路とは違い、山中をセブレイロ峠(標高1,400m)まで、標高差700mを登らねばなりません。

このあたりに来ると、巡礼者も非常に増えるように感じます。この人たちに混じってひたすら登っていきます。途中で、カメラの電池交換と生理的欲求のため立ち止まり、T氏と共にグループから遅れてしまいました。
これではならじと、どうせ九十九折の登り坂のはずだからとT氏と共にショートカットしようと決し、獣道のような踏み跡を直登しましたが、上がっても上がっても道に出ません。諦めて、もと来た道に戻ることにしました。そして分かったことは、その個所はまったく九十九折になっていないということです。大汗をかいて、エナ(ジョシーの9歳の娘さん)に大笑いされました。

広い見晴らしのよい牧場に出ました。一休みすることになりましたが、ここでなんと、私は右腕を何かかぶれの木に触れたのか、かぶれて真っ赤に腫れ上がり、痛くてたまりません。ジョシーとエナが、これまた何かの葉っぱを摘んできて、「これがよく効く」といって、かぶれた個所に擦り込んでくれました。大分痛みが引いてきて助かりました。
でも、翌日も何か紙が張り付いたような違和感は取れませんでした。私は田舎に住んでいて、草刈や草取りは年中やっていますが、めったにかぶれたことはないのに、やはり外来種には弱い体質なのでしょうか。

12:30、待望のセブレイロ峠に着きました。ひろびろとした展望のきく素晴らしい場所です。巡礼者だけでなく、多くの人たちの憩いの場となっているようです。
ここのレストランで飲んだビールの美味かったこと、そしてトルティーヤ(トウモロコシの粉で作るパンケーキ)に先日、レオンの市場で買った無花果とビーフジャーキーを載せて食べましたが、これも美味かった。

このレストランは、麦わら屋根の丸い建物で、写真では左側にその一部が写っていますが、基本的には右側に全景が写っている家と同じで、この地方のローマ時代以前からの住居の形式を伝えているということです。

峠からサンティアゴまであと、150キロです。数百キロ、人によっては1,000キロを超す距離を歩いてきてこの峠に立った時の巡礼者の感激は、私のような者にも容易に想像できます。おそらく、さまざまな思いがその心のうちを去来するに相違ありません。

峠から下る途中の牧場で車を止め、みんなでエナの演奏するギターを聞きました。健気に弾くエナは、とってもかわいく見えました。

午後5時、遂にサンティアゴ・デ・コンポステーラに着きました。
歩き巡礼者が市内に入る正規の入口であるポルタ・ド・カミーニョの手前で車を降り、大聖堂に向かって巡礼路を歩いていきました(ちょっと、インチキっぽくて恥ずかしい)。

大聖堂は、これまで写真でしばしば見ていましたが、実際に見る大聖堂はまことに荘厳で、一段と迫力があります。ジョシーが、一行の記念写真をとってくれました。





大聖堂の前に広場(プラーザ・ド・オブラドイロ)があり、その中心に巡礼路の終点というか基準というか、そのマークが埋め込まれています。
写真でご覧になるのが、それです。写真には一人の女性が写っていますが、彼女は巡礼者で、手に持って示しているのは"パスポート"とよばれ、これまで経てきた巡礼路の要所要所で押してもらったスタンプ集です。これについてはすぐあとに説明します。

市内のレストランで夕食をした帰り、午後10:30頃、この広場でサンティアゴ大学の学生たちが大層な衣装で(ちゃんとした名前があるのでしょうが)、陽気な音楽を奏で歌い、観客と共に踊り、見物している大勢の観光客からお金を募っていました。

5.サンティアゴ・デ・コンポステーラで(08/06)

午前中、サンティアゴ市内を、広場とその周辺について公認ガイドから説明を受けました。その後、午後1:40の飛行機で、マドリッドへ向かいました。

最後に、いわゆる"パスポート"と巡礼案内記・地図について説明します。私たちを案内してくれたジョシーから聞いた話で、自分で確かめたわけではないので、誤りがあるかもしれません。 "パスポート”は、写真に見るように、1ページがタテ13センチXヨコ9センチくらいの大きさで折畳式になっています。





表紙に Credencial del Peregrino と書いてあり、中を開くと、最初の黄色のページに Camino de Santiagoとあり、発行者のスタンプが押してあります。その下に所持者のサインをします。誰でもが発行できるわけではないようですが、私たちの場合は、ジョシーがハカで入手してくれました。
2ページ目から、巡礼路に沿った教会などで日付を書いて、その位置にスタンプを押してもらいます。教会だけでなく、ホテルやレストランでも押してくれるところがあります。スタンプを押す個所は、数えてみたら 80 ありました。

この"パスポート”によって、サンティアゴ直近の100キロを歩いたことが証明できれば、サンティアゴで証明書がもらえます。たまたま、そこを通りかかったときもらっていた人がいたので、写真に撮らせてもらいました。自転車の場合は、200キロとのことです。

立派な巡礼案内書が発行されています。写真に見られるのはその一つで、詳細な地図が附属しています。地図は、ほぼ1日行程分づつ別葉になっていて、持ち歩くに便利です。
この案内書は360ページもあり、上質の紙に印刷され、ハードカバーですから、かなりの重さがありますが、説明は実に詳細です。私はこれをサンティアゴの書店で買い求めたので、実際に使うことはありませんでした。その書店には、スペイン語、フランス語、英語版がありました。写真は英語版です。
表紙に写る銅像は、セブレイロ峠に建っているもので、古典的な巡礼者の姿を表わしています。




ホームページへ戻る

このページのトップへ戻る