山行雑感(その5)
- ごあいさつ
「山行雑感(その4)」に続き、2012年05月以降の山行について、このページに掲載します。それ以前については「山行雑感」および「同(その2)」、「同(その3)」、「同(その4)」をご覧ください。
次がいつ掲載されるかは、私の山行次第です。
21.神島88ヶ所巡りU(2012/05/01)
22.コーカサスの奥地を訪ねて(2012/07/07〜09)
23.神島88ヶ所巡りV(結願)(2013/04/03)
24.石見銀山ウォーク(2013/11/03)
25.霧雨の伊吹山(2014/06/28)
26.軍艦島クルーズ(2015/12/20)
27.アンナプルナ展望の旅U(2020/02/27)
28.紅葉のアルペンルート(2020/10/13)
- 21.神島八十八ヶ所巡りU(2012/05/01)
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かねがね心にかけていた神島88ヶ所巡りに出かけました。3年ぶりで心躍るものがあります。前回は、通例の出発点である厄除神島大師堂から始めて、76金倉寺→73→74→(と、続けて)・・・外浦の26金剛頂寺までお参りしたのでした(前回の巡拝については、こちらをご覧ください)。
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したがって、今回はこの26金剛頂寺から始めます。9:20、神島外浦港を後にし(右写真の、対岸に見えるドームはカブトガニ博物館)、幹線道路の県道を右折して、住宅地の中を山に向かって進みます。途中、子烏神社というかわいいお社がありました。ちゃんと石柱の向こうに建っています。
天気は薄曇りになってきて、歩くには好都合と見えましたが、湿度が高く、汗かきの私には少々つらいものがあります。
住宅地が切れるころ、山麓に27神峯寺があります。お四国の神峯寺に2順目にお参りしたとき腰を痛め、雨の中をやっとの思いで歩いているところを、通りがかった車の人が親切にも「乗せてあげよう」というのをお断りして、歩き続けた依怙地な私を思い出していました。
左手に神島外浦港とその先の笠岡諸島を眼下に、山麓を等高線沿った形で進みます。曇り空ですが、ある程度見通しはきき、快適です。快晴だと、瀬戸大橋も見えるとのことですが、今日は見えません。
31竹林寺は、日光寺というお寺の中にあります。前回、ここの前庭で昼食をとったのでした。ここに万葉集挽歌 調使首(つきのおみのおびと)の歌を刻んだ石碑がありました。
万葉集挽歌(調使首)の石碑・・・・・・かしこきや 神のわたりの しき波の寄する 浜辺に 高山を へだてに おきて 浦うちを 枕に巻きて うらもなく 伏したる君は おもちちが 愛子にもあらむ 若草の 妻もあるらむ 家問へど 家道もいはず 名を問へど 名だにいはず 誰が言を いたはしとかも とゐ波の かしこき海を 直わたりけむ
浜辺の水たまりに枕を巻いて、行き倒れた人だろうか。家を尋ねても家路を言わない、名を尋ねても名前を言わない。誰かが言った、彼が不憫でならない。この恐ろしい海をまっすぐにわたってきたのだろうか。
「歌に詠むことにより異郷に果てた人の魂を鎮めることは、自己の旅の安全を祈ることでもあった」(坂本信幸)といいます。
ここまで、ちょうど1時間。歩行距離約2キロ。殊勝にも般若心経を唱えながらお参りしていましたが、途中から止めてしまっていました。
32禅師峯寺から種間寺を過ぎると、道の左側に十夜ヶ橋大師堂がありました。本場とは順序が違いますが、立派なお堂でたくさんの布団をかけた大師様が横になっていらっしゃいました。
十夜ヶ橋大師堂 横たわる弘法大師清滝寺、青竜寺、岩本寺を経て38金剛福寺に至る道は、本場のお四国と同じく寺間の距離が長く作られています(37岩本寺〜38金剛福寺間は神島88ヶ所中最長距離で、1,750mある)。
海岸に出、波を音を聞きながら波打ち際を歩くのはとても気持ちのいいものだと聞いていたので、楽しみにしていたのですが、青竜寺を出て桜並木のトンネルを通り、海岸に出たところで、工事中のため浜辺は通れません。民家の庭先から山側へ引き返し、本来の山中遍路道を、左手に海岸を見下ろしながら歩いていきました。
遍路道から笠岡諸島を望む 山中の遍路道計画では、この海岸のビューポイントのどこかで昼食を、と思っていたのですが、それもかないません。38金剛福寺に到着したときは、ちょうど正午を知らせるサイレンが下の街から聞こえてくるところでした。
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ご存じ、本場の金剛福寺は足摺岬にありますね。ここもまた比高100mはあろうかという崖の上にあります。見晴らしのよさそうな場所は崖のすぐ上、その草原で虫に悩まされながら昼食をとりました。でも、展望は絶景でした(右写真は、金剛福寺から崖下を見下ろしたものです)。
ここまで歩行距離約6.5キロ。12:50出発。
ここから海岸を離れて山中に入ります。いよいよ土佐と別れて伊予国・延光寺をめざします。感じは本場そっくりです。
坂を下りると、晴れやかに開けた草原に出ました。「神島なびっくランド」という遊園地で、ミニ・ゴルフを楽しむ若い人たちで溢れています。ここは定期バスも通わない、神島のなかでも僻地と思われるところですが、若い人たちはみなマイカーで遊びに来るのでしょう。
また上り坂に差し掛かります。この神島八十八ヶ所の順路は結構、アップアンドダウンが激しい。それほど長く登ったり下ったりはしないのですが、何しろ下ったと思うとすぐ登りに差し掛かる。結構、疲れます。
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このあたり、竹林が続き、至る所にタケノコが顔を出しています。それも1本や2本ではない、何十本と、芽がでたばかりのものから、すでに竹になろうとしているものまで。誰も採ろうとしないのでしょうか。
40観自在寺を過ぎると、瀬戸内側へ出ます。御手洗池の向こう、白砂青松の海岸が美しい。その昔、神武天皇が御手を洗われたという御手洗池。近くに御崎神社があり、このあたり歴史を感じさせるところです。
41龍光寺から番号順に50繁多寺まで、海岸から山よりの遍路道を行きますが、札所が次から次へと近距離で出てきます。案内の標識もよく整備されており、迷うことはほとんどありません。3年前は、これほど案内標識は整備されてなかったように思います。
45岩屋寺はどんなところに設けてあるのかと、期待半分でしたが、当たり前の場所にありました。
御手洗池 45岩屋寺山を下り、51石手寺に差し掛かろうとする海辺に、立派なヨットを何艘も見かけ、いささか驚きました。どうやら、ヨットの造船所らしい。意外なものを見た思いでした。はるか対岸にはJFE福山の大製鉄所を望むことができます。
ヨット造船所 JFE福山製鉄所を望む石手寺を出たとき、時刻ははや14:20。帰りのバスは、確か寺間排水機場BSを15時半頃のはずですから、それに間に合わせる必要があります。何しろバス便は一日に数本しかありませんから、予定のバスを逃すわけにいきません。
と言いながら、52円明寺への道を迷ってしまいました。道で工事用の車を修理している人に聞きましたが、土地の人ではないので良くわからないとのこと、でも何とかたどり着きました。57栄福寺で、今回は打ち止めにしました。
ここからバス停へどう行ったらよいかわかりません。あちこち歩き回っているとき、幸いにも手押し車を押している老婦人を見つけたので、急いで近づきバス停までの道を聞きました。なんと、私の感覚が南北逆になっていました。栄福寺の北にあるバス停を、南の方ばかりを探していたのでした。この錯覚はどうして生まれたのでしょうか。めったにないことなので、歳のせいかと少々不安になりました。
今回の総歩行距離約11キロ。歩行時間5時間50分(昼食時間40分含め)。
残りは、秋紅葉の頃お参りしようと思います。
- 22.コーカサスの奥地を訪ねて(2012/07/07〜09)
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2012年6月末から7月始めにかけて、コーカサス3国に旅行してきました。
旅行会社の案内書によると
古代の巨石建築文明、ローマ帝国に先立つ世界で初めてのキリスト教国家の成立など、悠久の歴史と文化、さらには5000m級の峻険な山々が聳える大自然が広がります。
そしてその中に溶け込むようにしてあるのが、世界遺産の村落メスティアです。
15日間という長い旅でしたが、ここでは、グルジアのメスティアからさらに山地を分け入って秘境ウシュグリ村へ、山岳展望を主とする部分について述べます。
07/07(土) (前日、前々日に続き、今日も)快晴、暑い。
昼間の気温は30℃を超えるだろうという予報です。
スキーリゾートとして有名なバクリアニからズグディディまではバスで行きます。ズグディディという町は、すぐ西隣がグルジアからの独立を主張する「アブハジア自治共和国」で、その周辺は日本外務省が「退避勧告」を出しているそのギリギリの境に沿って、さらに北上します。
ここで昼食をとったのち、四輪駆動車に乗り換えます。三菱自動車製のデリカです。1台に4〜5名ずつ分乗し、エングリ川渓谷を遡りますが、道は次第に悪路の様相を呈してきます。
まるきり未舗装というわけではありませんが、維持管理がほとんどなされないためか、いたるところ穴ぼこだらけです。それらを巧みに避けながら、ドライバーは時速10キロ程度の低速で運転してくれますが、揺れること揺れること。
道々、左方に大コーカサス山脈あるいはその前山とみられる峰々がちらりちらりと見えてきます。3000m級の雪山です。
「あの山はなんというのか」とガイドに聞いても
「名前はない」との答え。
3000mを超える山に名前がないはずがない、日本だったら300mの山でも名前があるよ、「君が名前を知らないだけだろう」と言いたいのですが、彼女は山岳ガイドではないので、それ以上追及しても仕方がありません。
コーカサスの”名も無き山” レンジェリ村の塔のある家途中、レンジェリという村ではじめて塔のある建物に遭遇しました。
今日の目的地、メスティアは海抜1500mの高原の小さな町ですが、こうした塔のある建物の集まった集落として有名で、世界遺産に登録されています。
写真をご覧ください。その特異な風景に驚異を抱かれることでしょう。夜間はライトアップしています。
メスティアの塔のある家々 ライトアップされた塔たち宿泊は村を見下ろす高台にあるホテル・テトゥヌルディで、その名前になっているテトゥヌルディ山(H4858m)が東真正面に見えます。夜9時過ぎてもまだその美しい姿を夜空にくっきりと見せていました。
写真は次の日の夕方に撮ったものです。
テトゥヌルディ山(H4858m)07/08(日) 朝快晴、のち昼過ぎから雨、時に雷雨激しく降る。夕方止む。
今日はここメスティアからさらに辺境の地、ロシア国境に近く、コーカサス山中のウシュグリ村を訪ねます。
四駆に分乗して悪路を何時間も走る(ウシュグリ村まで45キロほどを4時間かけて走る)のはつらいものがありますが、シハラ山(グルジア最高峰 H5068m)の展望を期待して我慢に我慢です。
途中、ウシュバ山(H4695m)が見えてきたので、急遽、カメラ・ストップです。
ウシュバ山(H4695m) "名も知らぬ木"越しの”名も無き山”ウシュバ山は見事な双耳峰ですが、写真では右側の峰にわずかに雲がかかっていて、残念です。右写真は、ガイドの言うところの”名も無き山”で、手前の赤く見えるのは花ではなく、葉なのです。何という木なのでしょうか。名を聞いても忘れてしまいました。
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ウシュグリ村を遠望できるところまで来ました。ここウシュグリ村は海抜2100〜2200mにあり、人の居住地としてはヨーロッパ最高所とのことです。
ここで写真タイムとしていたところ、シハラ山が見えてきたとのことで、大急ぎで展望の丘へと急行しました。
左右の峰々は見えますが、肝心のシハラ山頂上だけが雲に隠れています。
しばらく待てばあがるかなと期待を込めて待っていましたが、あがる気配がなく、あきらめて、近くの地元の家族経営のレストランへ昼食に向かいました。
シハラ山(H5068m) 同じくシハラ山昼食を終えようとする頃、突如、空はかき曇り、雷がピカッ、ドロドロバシン!、雨はザーザー、しかも雹まじりです。
山の天気は変わりやすいといいますが、午前中の快晴がウソのようです。まさに、ウシュグリ村は山の中、と実感しました。
雨が少しおさまってきたので、村にある小さな博物館に行くことにしました。
なんと、先ほどの雷のため停電しており、内部は真っ暗。博物館といっても石積みの塔のなかで、窓はほとんどありません。停電では仕方ありません。あきらめて、メスティアに引き返すことにしました。またあの悪路を四駆で4時間。
07/09(月) 曇り、一時晴れ、雨、蒸し暑い。
午前中は、ここメスティアにあるマルギアニ家の博物館を訪ねました。
13世紀に建てられた民家で、ここで一家30人ほどが暮らしていたとのことですが、現在は博物館となっています。椅子やベッド、キチンがすべて一間の中にあり、家畜も同居です。
ここの塔に登りました。5階まで急な梯子を上ったその展望は素晴らしかった。
塔の窓から村を見下ろす 塔の窓から山々を遠望するこのような塔が民家に付設されているのは何のためか。
渡邊義孝氏の説明を聞いてみましょう。
バルカン、コーカサス、西アジアの山岳地帯を中心に存在した血の掟「血讐」は、その目的に沿う建築物を残している。北部アルバニア、コソボに点在する方形の住宅クーラがそうであり、このグルジア西部の塔の家もその一つだ。この建物の起源は中世後期にまでさかのぼるという。
対立する一族からの攻撃を避けて男性たちが立て篭もるタワーは、主に石灰岩の荒い板状の石を積んで作られている。高さは20〜25mにも達し、最下層からは入れず、外部のはしごを伝って2階の小さな入口から中に入る。そこから上階へは急な梯子をたどっていくが、各階にはまともな窓はなく、銃眼のような穴がうがたれている。午後、バスの待つズグディディへ四駆に分乗して帰りました。
ここでは、15日間の旅程のうち、メスティアを中心とする上スワネティ地方の山岳展望の部分のみ書きました。
その他も含め、旅の間の拙いスケッチはこちらでご覧ください。
- 23.神島八十八ヶ所巡りV(結願)(2013/04/03)
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約1年ぶりに、ようやく神島八十八ヶ所巡りに出かけることができました。
この度は昨年までに残していた札所すべてにお参り結願とし、さらに白石島の開隆寺奥の院までお参りする積りです。
神島入口にある77道隆寺から逆打ちで前回打ち止めした57栄福寺まで歩きます。これで全札所88ヶ所をすべて巡り、結願となります。
その後、白石島港まで船で渡るため、県道433号線を神島外浦港まで縦断します。
参考までに、神島88ヶ所全図を掲載しておきます。この地図は、神島協議会編『神島八十八カ所ガイドブック』2012発行 より借用しました。
なお、霊場順拝は通常、地図右上の神島大橋すぐ下の懺悔庵から時計回りに巡ります。今回は逆打ちですから、ここから反時計回りに歩きます。
神島霊場及寺社地図9時過ぎ、77道隆寺から県道の方を歩き、大池際から72曼荼羅寺へ。
道端の桜も山の桜も満開です。天気は晴れたり曇ったりで、歩くには快適ですが、風が少々強い。気分よく、民家の間を抜け遍路道を71弥谷寺へと向かいます。
72曼荼羅寺 満開の桜70本山寺、67大興寺を過ぎたころから急登の坂が始まります。階段もしっかりとよく整備されていますが、何しろ急坂。健気に咲くミツバツツジを愛でながら、登って行く坂の上に66雲辺寺があります。
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標高127m、神島88ヶ所中の最高所です。
本場、四国88ヶ所でも雲辺寺が最高所ですが、ここもそれに似せて作られています。ただし、すぐ後に訪れる横峰寺は、本場と違って平地にありました。
10:15着。この雲辺寺のお堂は立派なものです。多くのお堂は切妻か方形の簡単なものですが、このお堂は違います。入口もきちんと葺かれており、彫刻の横木の上に「雲邊寺」と書かれた額があります。
ご本尊は黄金に輝く千手観音です。黄金の本尊は他の札所では見た記憶がありません。しっかりとお賽銭をあげてきました。
66雲辺寺 雲辺寺本尊下りがまた一段と難所です。先日来、左ひざを痛めている私としては一層の難場でした。下りきったところが69観音寺、ここからほぼ等高線に沿った形で68、65、64、63と、山腹をトラバースする感じで進みますが、63吉祥寺を過ぎたあたりで迷ってしまいました。
遍路道の道標はよく整備されているのですが、何しろ今回は逆打ちなので、道標の指示を見るにも想像力を働かせねばなりません。順打ちの場合、メインの道路から脇道に入る時必ずといっていいほど、道標があり、その指示に従えばいいのですが、脇道からの出口にはほとんど道標はありません。逆打ちの時、この出口が入口になるわけですから、そこにかなりの想像力が必要というわけです。
というわけで、いきなり60横峰寺に出てしまいました。62宝寿寺をスキップしたことになります。一寺でも飛ばすのは気分よくありませんから、ここから道標に従って引き返し、少し下ったところ地蔵庵の隣にある62番に無事お参りすることができました。
横峰寺から少し進んだ頃、時刻も11:30となったので、いろんな花木の花の咲き乱れる、どなたかの樹園のなかで昼食をとりました。写真中央の脚立がちょっとじゃまですね。
60横峰寺 昼食をとったところ12:15、昼食を済ませ、61、59と地図上の等高線に沿って一旦奥に入り込み、谷川を横断してまた里へ向けて59国分寺にお参りした後、またまた道に迷ってしまいました。
今日の打ち止め、結願の57栄福寺へいきなり出そうになりました。このままでは58仙遊寺をスキップしたことになります。迷った挙句やっと58番を見つけることができました。
57栄福寺で結願です。ここまでの歩行距離は地図上では5.6キロしかありませんが、歩数計は、13,500歩を示しています。道を迷ったり、山坂を登ったり下ったりしたから、歩数が増えたのでしょう。
これで、神島88ヶ所すべてお参りを済ませました。結願です。
これから白石島の奥の院にお参りします。
それには、ここから県道433号線に沿って南下し、以前にお参りした35清滝寺のところから東へ外浦港まで歩きます。
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歩きながら船会社に「船は就航しているかどうか」聞きました。風がやや強いので心配だったのです。船は出ているとのことで、その出航時刻に合わせるようにゆっくりと、周囲の山々に咲き誇る山桜を満喫しつつ歩いて行きました。約3.5キロ。
笠岡港14:15出航の旅客船は昨年就航したばかりの新造船、神島外港14:35、高島を経て、白石島港に着いたのが、14:50。
短い船旅を楽しむ間もなく、下船して、民家の間の狭い路地を縫うようにして開隆寺へ向かいます。港町特有の板壁の家々は古いつくりですが、立派な大きな家ばかりです。
行く先に大きな鳥居が見えます。「え!? 神社なの? お寺じゃないの?」と、驚いて鳥居の先を見透かすと、ありました!「開隆寺」と大書した石柱が見えました。開隆寺は鳥居の奥にあるのです。
もちろん、この鳥居は四社明神社の鳥居ですが、神社そのものは参道から脇に入ったところにあり、参道の先は大きな開隆寺の境内です。
神島88ヶ所の奥の院は、この開隆寺の大師堂で、一番奥にあります。
このお堂がスゴイ! 花崗岩の巨石の下に作られており、この岩の大きさに驚かずにはいられません。今にも崩れかかるかと思われるほどです。
開隆寺大師堂(神島霊場奥の院)同じ道を白石島港まで引き返しまた。往復約40分でした。
白石島港15:55発の旅客船は来るとき乗った船と同じで、笠岡港まで直行。笠岡着16:20、これで3ヶ年をかけた神島88所巡りは無事満願となりました。
- 24.石見銀山ウォーク(2013/11/02)
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世界遺産に登録されている石見銀山遺跡のウォーキング・ツアーに参加しました。
石見銀山遺跡は、「街並み地区」と「銀山地区」、「石銀(いしがね)地区」の3地区に分かれますが、今回は街並み地区は完全にスキップし、銀山地区と石銀地区の約8キロを歩きました。
総員41名の大人数。2班に分かれ、それぞれにガイドが付きました。
スタート地点は大森の街並みが切れるあたりの広場、「石見銀山公園」です。ここは標高131m。準備体操ののち、11:00、「龍源寺間歩(まぶ)」へ向って出発です。
石見銀山公園(スタート地点)緩やかな登り道、右側には蔵泉寺口番所跡、大森小学校(全校児童数21人とのこと)、豊栄神社などが点々と続き、左側は小さなせせらぎの川が流れ下っています。
途中、左の脇道に入り、「下河原吹屋跡」、その後「清水谷精錬所跡」を見学しました。
下河原吹屋跡 清水谷精錬所跡「吹屋跡」は江戸期の「灰吹法」という精錬法によった精錬遺跡ですが、清水谷精錬所は明治期に精錬を行っていた跡で、鉱石は少し上の山腹にある選鉱場で選別されたのち、この精錬所に運ばれ、銀が取り出されました。その建物の石垣が残っていて、見事です。
ここからもと来た道に戻り、今度は遊歩道を登っていきます。
龍源寺間歩への登り道 龍源寺間歩の坑口間もなく、「龍源寺間歩」の坑口が見えてきました。坑口は真新しい木材で組み上げられているのが、いささか残念です。もう少し古めかしい方が趣があって、よかったのに、と思うことです。
銀山公園のスタート地点から2.3キロとのことですが、脇道に入ったりしているからもう少し余計に歩いているでしょう。ここの標高は230mほどですから、これまで標高差100mほど登ったことになります。
入場料(¥400)を払って坑道に入っていきます。
人一人が背をかがめてやっと通れる広さです。でも、足元はしっかり舗装してあって心配はなく、頭にさえ気を付けていればよろしい。
「間歩」とは坑道の意味で、この間歩から左右いたるところに銀鉱脈を追って掘り進んだ「ひ押し坑」とよばれる小さな坑道をみることができます。ここから鉱石を掘り出したのです。案内書によると、「横幅2尺、高さ4尺を、1日5交代で、10日間で10尺掘ったと伝えられる」とあります。
龍源寺間歩ひ押し坑坑木で支柱を施す必要もないほどの固い岩盤ですから、これだけ掘り進むにも大変な労力であったろうと容易に想像することができます。
坑内は一方通行で、別の坑口に出ました。
すぐ近くの「佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)」で休憩ののち、ここを13:00に出発。
いよいよ、仙ノ山(標高537m)山頂近くの「石銀(いしがね)集落跡」へ向けて山登りです。九十九折の急登で、文字通り九十九回も折り返したかと思うほどです。周囲の竹藪のなか、随所に住居跡と思われる段々が上の方まで続いています。
途中、「米カミ岩」というところで(あと、600mとありました)休憩しましたが、同行者のなかにはここまでやっとの思い、という人もいました。
でも、しばらく行くと仙ノ山頂上を巻くようにつけられた道に入り、やっと勾配がゆるやかになり、その先に山中とは思えない広場が広がっているのが見えます。「石銀集落跡」です。
石銀集落跡への道 石銀集落跡の一部 銀山1号間歩仙ノ山の鞍部に広がる「石銀集落跡」に着いたときは、14:00をだいぶまわっていました。ここの標高は、約490mほどですから、龍源寺間歩から標高差260mほどを登ったことになります。相当にしんどいアルバイトでした。
しかし、距離的には案内地図上で1.1キロとのことです。
今まで息を切らせて登ってきた急坂の上にこのように広場が広がっているとは想像もしていませんでした。露頭掘りの跡、選鉱場・精錬所跡、住居跡などが広がっています。「石銀千軒」と謳われた鉱山都市がこの山上にあったのです。ガイドのいう”日本のマチュピチュ”は、いささか大げさですが。
石見銀山の採掘は、ここの露天掘りから始まり、次第に山麓へ、地下採掘へ、と進んでいったとのことです。石見銀山には600を超す間歩があるといわれ、発見されたものにはすべて番号が振ってありますが、ここにその第1号があります。
ガイドの懇切な説明の後、これから本谷を下っていきます。15:00出発。
この道、どこまでも続く竹藪の中、これがまたすごい。登り道もひどかったが、それ以上に、この下り道は大小の石ころがゴロゴロして歩きにくく、雨が降れば水が川となって流れ下るであろうような道です。これなら登山靴の方がよっぽどよかったと思ったことでした。
ガイドの説明によると、世界遺産に登録されてからは、この自然にむやみに人工的な手を加えることは禁じられているそうです。急坂に金属製のパイプで作った手すりが設けられていましたが、これなども世界遺産の本部から叱られたそうです。
間もなく、「本間歩」、そして「釜屋間歩」が目の前に現れてきました。
釜屋間歩(左側) 釜屋間歩(右側)釜屋間歩は本当に凄い! もとは竹藪に埋もれていたそうですが、竹を切り払って土をどけてみると、写真のような遺跡が現れたとのことです。階段や広いテラスなど、この固い岩盤をどうやって掘ったかと思うほどで、まことに壮大なものです。
さらに大小の石ころの転がる歩きにくい急坂を下って行くと、石見銀山最大といわれる「大久保間歩」に到着します。坑内の坑道も復元されているそうですが、現在は非公開です。
大久保間歩坑口 原田駐車場への道坂道も緩やかになり、やっと本谷口に到着しました。ここは標高230mですから、石銀集落跡からおおよそ標高差260mを下ったことになります。距離的には、地図上で1.3キロです。
ここでウォーキングは終わりかと思ったら、さらに舗装道路を原田駐車場まで歩かねばなりませんでした。原田駐車場に着いたのが、16:30。
休憩時間や間歩・遺跡見学時間を含めて、5時間半のウォーキングでした。紅葉にはまだ早いようでしたが、天候に恵まれ、最高の時を過ごすことができました。
- 25.霧雨の伊吹山(2014/06/28)
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念願の伊吹山登山のツアーに参加してきました。
“念願の”というのは、東海道新幹線でその山麓を通るたびに、その山容の巨大さに圧倒され、いつかは登ってみたいと長年想っていた山だからです。
また、「びわ湖百八霊場巡り」でしばしば仰ぎ見た山でもあり、さらに、中里介山の『大菩薩峠』の終巻近くなって出てくる山でもあります。(といっても、『大菩薩峠』はいまだに完読していません。)
私にとって、いろんな意味で憧れの山でした。
早朝起き出し、福山駅前でツアーバスに乗り込み、出発したのが午前7:30。
バスは山陽道をひた走り、最後は九十九折の長い長い伊吹山ドライブウェイを登って、頂上駐車場に着いた時は、もう昼過ぎの12:30でした。
この「伊吹山ドライブウェイ」の入り口の料金所ではETCは使えず、また「営業時間 8時〜20時」となっており、道路の営業時間とは何?と、その意味が理解できませんでしたが、「このドライブウェイは株式会社所有の道だ」という説明を聞いて納得したことでした。
道中、天気が怪しくなってきていましたが、到着したときは間違いなく本降りとなっていました。
伊吹山西コース登山口 霧雨のなかの登山者早速、雨具を上下とも装着、完全武装で登山道入口に向かいます。
入口に情報が掲げてあります。「山頂 霧雨 気温20℃ 風速8m」とあります。いささかガッカリですが、梅雨時ではあるし、それを承知でこのツアーに参加したのですから、誰に文句を言うわけにもいきません。
この駐車場の標高が1260m、9合目に相当する高さです。だから、頂上の1377mまで僅かに標高差100m余りを登るに過ぎません。“登山”というもおこがましい。
登山道は、西、中央、東と3コースあります。断っておきますが、これらはいずれも“登山道”であって、遊歩道ではありません、ちゃんと「登山道」と標識にあります。
道は石ころがゴロゴロして歩きにくい。私はウォーキング・シューズでしたが、これは失敗でした。登山靴で来るべきだったのです。登山者のなかには、さすがにハイヒールの人はいませんでしたが、街中で履く短靴、あるいは運動靴の人はたくさんいました。
西コース登山道私たちは西コースを登りました。距離約1000m、時間40分と案内地図にあります。
展望のきかない霧雨のなかを、足元の花を求めて登っていきますが、花には季節が早すぎ、ほとんど見ることができません。
僅かに一輪、二輪と咲いている花があれば、直ちにカメラを向けるのは私だけではありません。
一輪二輪と咲く高山の花13:15 山頂到着。大きな日本武尊像があります。売店などもあり、観光地のスポットと変わるところはありません。
伊吹山山頂ソフトクリームなど食べて、帰りは中央コースを下りました。距離500mというから、距離が短いだけに急坂です。
雨は降ったりやんだりですが、ガスはますます濃くなってきます。時に、5m先も見えないほどになります。
霧の頂上駐車場14:30 バスに乗り込み、来た道をひたすら帰路につき、20:30 には自宅近くのバス停に着きました。
往復12時間を費やして、現地伊吹山滞在は僅かに2時間。これを登山というのでしょうか。
霧雨で展望ゼロ、花もほとんどなし、の伊吹山でしたが、とにもかくにも頂上を踏めたのですから、後期高齢者の仲間入りをしてすでに数年が経つ私としては、この“山行”に不満はありません。
- 26.軍艦島クルーズ(2015/12/20)
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ここは「山行雑感」のページですが、今回は山は山でも、炭山(炭鉱)という“ヤマ”についてのお話です。
軍艦島というのは、長崎港外の南西約19キロの沖合に位置する端島のことです。
ここに、かつて端島炭坑という海底炭鉱があり、年産30万トンを超える出炭量を誇ったこともありましたが、昭和49年(1974)に閉山しました。東西160m、南北480m、周囲1,200m、面積63,000u の小さいこの島に、最盛期、炭鉱従業員とその家族 5,000人を超える人たちが居住していました。
この稠密な人口密度は、高層集合住宅の、隙間のない密集によって初めて可能でした。このため、海上からみた端島はあたかも軍艦の如く見え、軍艦島とよばれるようになりました。 現に、戦時中、アメリカの潜水艦が日本の軍艦と見間違って魚雷を撃ち込んだという伝説があるくらいです。
現在は無人島ですが、今年(2015)、「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
海上から望む端島 端島の平面図(上右の「端島の平面図」は、軍艦島クルーズ・パンフレット(軍艦島資料館・高島石炭資料館作成)から転載しました)
2015年12月、どんよりとした曇り空の下、長崎港から軍艦島クルーズに参加しました。参加に当たっては、「見学区域以外に立ち入らない、雨天の場合は合羽着用のこと(傘は使用禁止)、酒類は持ち込まない」など、注意事項を守りますという誓約書を予め提出しています。
朝9:00 長崎港出港。30分後には早くも軍艦島に到着しました。
島は全周、高さ数メートルを超すコンクリートの護岸壁に覆われており、東岸壁にあるドルフィン桟橋が唯一つの上陸場所です。海がシケの時は、船は接岸できず、上陸することができません。
地図にある南部の赤線の道と小さな広場だけが、立ち入りが許可された区域です。
コンクリートの護岸壁 桟橋から上陸端島に上陸しました。
私にとって、実に60年振りに足を踏み入れた端島です。学生時代、ここに企業実習生として1週間ほど滞在しました。
当時、昭和30年(1955)のことですが、ここは三菱鉱業(株)高島鉱業所端島坑として操業しており、人口は5,000人を超えていたと思いますが、この廃墟のすさまじさに圧倒され、しばし絶句。
総合事務所跡 第2立坑巻上機室跡(右) 選炭機工場跡上左写真の、崩れかけた赤煉瓦の建物は、総合事務所跡です。中央写真は、第2立坑巻上機室で、地下600メートルの坑底から石炭(採炭現場はさらに400メートル下がる)を巻き上げていました。
写真に見える白い塔は、閉山後建てられた灯台です。端島坑操業中は、この島全体があたかも不夜城の如く輝き、航行する船舶にとって灯台は必要でありませんでした。
昭和30年当時、私は、技術者として働いていた大学先輩方に坑内外で実習指導を受けました。坑内採炭現場は45度を超える急傾斜層にあり、木柱支柱につかまりながらの困難な作業が行われていました。
また、ドレッジとよばれる海上での作業も経験しました。船に乗って海底の岩石のサンプルを採取する作業で、「ヤマ(炭鉱)に来て、船に乗るとは」と、大変面白く感じたことを思い出しました。
島の西側には従業員用の中高層のアパートが建ち並び、なかには日本最古といわれる7階建て鉄筋コンクリート造りの高層アパートもありました(下左写真)。
住民はここで生活するわけですから、商店から映画館・パチンコホール、病院なども揃っており、また神社やお寺もあり、もちろん小中学校もありました(下右写真の遠景)。プール、テニスコートもありました。
高層アパート跡 端島小中学校跡(遠景)巻上機がひっきりなしに石炭・人・材料を巻き上げ、巻き下ろし、ベルトコンベアがうなりをあげて石炭を運搬する活発な生産活動、人々の窮屈ではあっても何か楽しげな生活、子供たちのはち切れそうな騒めきの声、そうした時代を知る私としては、この廃墟を目の当たりにして、ある種耐えがたいほどの思いを抑えることができませんでした。
さまざまな技術を結集してきた人間の営みが、このような崩れ落ちた姿で目の前に存在する、ということが信じられない程です。でも、これは事実なのです。
1時間ほど見学した後、再びクルーズ船に乗船して、長崎港に帰着したのは、11:30 でした。
軍艦島については、詳しくはこちらをご覧下さい。このほか多くのサイトがありますので、検索してみて下さい。
- 27.アンナプルナ展望の旅U(2020/02/27)
(画像をクリックすると、拡大します)
「アンナプルナ展望の旅U」と題したのは、11年前(2009年)の旅に続いて2回目だからです。19年前(2001年)のトレッキングも加えれば、このアンナプルナ山群の周辺を訪れるのは、実に3回目ということになります。
「そんなにネパールが好きなのか」とよく聞かれますが、「好きです」。カトマンズやポカラの町など、家の前から道端までゴミだらけで、乾期にはほこりがもうもう。しかも道路は車で渋滞するなかをバイクがスルスルと曲芸のようにすり抜けていく。それも1台や2台ではない、時には何十台というバイクが通り抜けていく。でも、不思議なことにぶつかったり、口論になったりするのを、今回は一度も見かけませんでした。
ネパールの人たちの優しさが好きです。そして、何より美しく壮麗な、とてつもなく高い山々が大好きです。
9日間の、観光も兼ねたツアー参加の旅でしたが、快晴で山岳展望とウオーキングが楽しめたのは、実質的には2日間だけでした。他の日は雨にこそ降られませんでしたが、曇っていて展望は全くききませんでした。
そこで、ここではその2日間のことだけを書くことにします。
宿泊するホテルはポカラのレイクサイドから車で30分、ホテル・アンナプルナ・ビューといって標高1400mにあり、マチャプチャレ(標高6997m)を、ほぼ23キロの距離を隔てて、真正面に見ることのできる、展望に勝れたホテルとの触れ込みです。そこに三連泊しました。
2月8日(曇り)
日の出 6:53 の情報のもとに、朝6時過ぎからホテル屋上に出るも、曇天で眺望は全くきかず。
諦めきれず,待つことしばし、マチャプチャレとアンナプルナ南峰の頂上が僅かに頭を出したと思ったら、またすぐ雲に隠れてしまいました。残念です。
この日は午前中、車で30分ほど離れたノーダラの丘をハイキングの予定です。
9:45 登り口に到着、長い階段を上って尾根道に出ます。そこが丘の展望台です。その頃から雷が鳴り始め、ちょっと心配な天気模様ですが、間もなく雷も止み、雨が降ることはありませんでした。でも、山々は厚い雲に覆われて、全く見えません。
丘の上からハイキングコースに入ります。、道はダラダラと下る尾根道で、木漏れ日の散歩道といった感じです。左側谷底には終始、集落が小さく見えています。薪を運ぶ地元の人たちに出会ったり、道端の名も知らぬ黄色や紫の花を愛でたり、1時間半ほどの快適なウオーキングを楽しみました。
午後は、ホテルからすぐ向かいにみえるサランコットの丘の展望台まで長い階段を上っていきましたが、この天候です、何も眺望はききません。
前回(2009/11/23)、早朝、ヘッドランプをつけて登り、朝日と山々のモルゲンロートをたっぷり堪能した同じ丘なのに、です。
残念でした。ただ眼下にポカラの市街地を一望することは出来ました。
2月9日(晴れ、のち曇り)
朝から快晴、ホテルの屋上からアンナプルナ山群の展望をたっぷり楽しむことが出来ました。
朝焼けのマチャプチャレ(H6997)
アンナプルナ南峰と西に満月 朝焼けのアンナプルナ連峰正面にアンナプルナ前山ともいうべきマチャプチャレ、すぐ右奥がアンナプルナV峰(標高7555m)、右にアンナプルナW峰(7525)、U峰(7939)をみることが出来ます。
マチャプチャレから左へ、アンナプルナT峰(8091),南峰(7219)が見え、更にずーっと左、西の方向に満月が輝いています。
それは、それは、荘厳ともいうべき素晴らしい眺めです。このためにだけ、多くの時間と費用をかけてここまでやってきました。
ホテルの心づくしのコーヒーを頂きながら、飽きることなく眺めていたことでした。
朝食後、8:30 四駆に乗ってゴルカ族の村ダンプスに向かいます。ゴルカ族とは、世界最強の傭兵といわれる戦闘集団を生み出した山岳民族です。
四駆でなければ近づけない悪路をさんざん揺られながら、途中、山岳ビューポイントで休憩ののち、1時間ほどでダンプスに着きました。標高1650mの高所で、昨日のノーダラの丘の対岸にあり、アンナプルナ山群にやや近づいた位置にあります。マチャプチャレまでおおよそ19キロの距離にあり、眼前に鮮やかに、その雄姿を望むことができます。
ダンプス近傍からのマチャプチャレ アンナプルナ連峰と私たち両側板石積みの狭い道を通ってダンプスの村落に入ると、石積みの住居がいくつも見られ、その住居の上、あるいはその間からアンナプルナの峰々をくっきりと望むことが出来ます。
何か懐かしい思いにとらわれるのはなぜでしょうか。失われてしまった日本の田舎の風景を連想するからでしょうか。
でも、この集落のなかに museum の標識の建物があったり、大きな土産物屋があったり、かなり観光化している印象でした。
ダンプス村の一隅 ダンプス村ミュージアム1時間ほど滞在し、名残を惜しみながらホテルに帰りました。
ダンプス村から望むアンナプルナ午後は、ホテルの部屋から眼前のマチャプチャレなど山岳スケッチに専念する積もりが、つれなくも、山は次第に雲に覆われ、スケッチも叶わなくなってしまいました。
このツアーでは山岳展望のほか、古都バクタプル(カトマンズとポカラの中間にある)やカトマンズで著名な寺院や旧王宮を訪れました。
2015年にカトマンズ周辺を襲ったM7.8の大地震のため、多くの寺院が倒壊あるいは損傷を受け、あちこちで修復中でした。なかには、未だ修復に手が着かず、支柱でかろうじて支えている有様です。下左写真の旧王宮の一部も例外ではありませんでした。
多くの支柱で支える旧王宮の一部 一部修復した一木造りの巨大な柱日中は気温17〜18℃で快適ですが、滞在した地域が高地(海抜800〜1600m)で、夜はかなり冷え込み、4〜5℃くらいまで下がります。
雨に降られることもなく、快適な旅でした。でも、この歳です。もう4度目のネパールの旅はないでしょう。
- 28.紅葉のアルペンルート(2020/10/13)
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30年来念願の、アルペンルートに行って参りました。
「30年来念願の」というのは、実は1989年に立山登山に出掛けた帰り、このアルペンルートを経て黒部ダムに降る積もりが、別ルートをとってしまって、トロリーバスにもロープウェイにも、そしてケーブルカーにも乗ることができなかったのです。
今回は、このルートから紅葉を満喫しようというわけです。
「山行雑感」のページではありますが、登山ではありません。80歳代の高齢者として、低山でさえ登る気の萎える我が身としては、紅葉を眺めるツアーに参加するより外に手段はありませんでした。
このツアーは、ホテル白馬をベースにして栂池公園や岩岳展望台、そしてアルペンルートを使って室堂平へ、と紅葉を楽しむ旅です。
ここでは、アルペンルートと室堂平についてのみ、述べます。
10月13日8:00a.m. ホテル白馬をバスで出発します。このホテルは比較的新しく、白馬岳を真っ正面に見据える素敵なホテルです。いささか残念な曇り空ですが、ときどき日も射す程度の天候です。
青木湖、木崎湖を右手に見ながら国道148号線を南下、9時過ぎに扇沢駅に着きました。標高1433mの高所にある登山のベースで、バス発着の大きな駅です。
ここから関電トンネル電気バスで黒部ダムへ向かいます。9:46 ダムに着きました。
ご存じのように、このダム、黒四ダムは黒部川に建設された水力発電用のダムで、総貯水量2億トンとのことです。堰堤の高さは 186m (日本一の高さ)、堰堤の長さは 492m もあります。
私はまだ大学生だった頃、1955年、建設着工直前の地質調査をやっていた現場を見学したことを思い出しました。
黒四ダムの放水 黒四ダムの下流長い堰堤の上を歩いて、堰堤内にあるケーブルカーの黒部湖駅(標高1455m)から、ケーブルカーで高度差400m近くを登ります。見た感じ30度以上の急傾斜で、座席の間が狭く窮屈ですが、新型コロナ感染予防のため、定員のほぼ半分ほどの乗車人数に制限されていました。約5分で黒部平に着きます。
展望台もありますが、上空は雲がかかっていて、山々の展望はよくききません。しばらく休憩した後、いよいよ待望のロープウェイに乗ります。
ロープウェイの終点、大観峰まで僅か7分ですが、見渡す限りの全山紅葉、実に見事です。紅葉真っ盛りのシーズンに訪れた幸せを感じました。
写真はロープウェイの窓のガラス越しに撮ったもので、ガスも濃く、残念な出来栄えです。
全山紅葉(立山ロープウェイから)大観峰で30分ほど乗り継ぎの時間があり、周囲の紅葉を楽しんだりしました。ただ、このアルペンルートは乗り継ぎが多く、しかもその乗り継ぎ点での徒歩距離が長いうえ、階段など傾斜道が多い。後期高齢者にとっては、かなり辛いものがありました。
黒部湖と針ノ木岳(右側のピーク)立山連峰の主峰、雄山直下のトンネル内をトロリーバスで10分ほど、11:40a.m. 室堂平に着きました。標高2450m の高所にあり、見覚えのある高原が広がっていました。31年前、その時は富山側から高原バスに揺られて美女平、弥陀ヶ原、天狗平を経て、ここまで登ってきたものでした。今回はその反対側から登ったわけです。
憧れの室堂平ですが、雄山をはじめ山々はあいにくのガスに阻まれ、展望することができません。いま立っている室堂平自体は見通しもきき、ときどき日も射してきます。
室堂平(到着時、ガスの中)早速、散策しようということで、みくりが池、みどりが池をまわるうち、ガスがとれ、晴れ上がってきました。
主峰雄山(3003m、写真中央))から大汝山(3015m)もみることができます。左の方に目を向けると、手前の山並みが途切れるあたり、その後に見えるのは急峻な剱岳(2998m)の岩稜と見受けました。左写真をクリックした後、拡大してみて下さい。
剱岳を望む(写真左奥) 雄山(写真中央)と大汝山(その左)雄山、大汝山は31年前に登った山です。この時はこれらの山に登った後、五色ヶ原に向かい、そこの山小屋に1泊の後、ここ室堂まで帰ってきて、アルペンルートを扇沢へと下る予定にしていました。
にもかかわらず、五色ヶ原に至るまでの妻の行動を見ていて不安に感じた私は、室堂へ帰るより、このまま黒部湖へエスケープルートを降った方が初心者の妻には楽かと思い、五色ヶ原から黒部湖尻の平ノ小屋へ向けて下って行ったのでした。
ところが、これが大間違い。黒部湖左岸の道を黒四ダムまで、黒部湖に流れ込むいくつもの沢を渡る度に、大きく迂回する道、アップダウンの繰り返し、まったく消耗してしまいました。
歩きながら上を見上げると、ロープウェイがひっきりなしに運行しています。その料金まで支払った周遊券をもっているのに、何で私たちはこんなに苦労するのか、とぼやくことしきりです。4時間になんなんとするアップダウンを繰り返した後、やっとの思いで黒四ダムに到着しました。アルペンルートのうち利用したのは、最後のすべてトンネル内の電気バスのみでした。
今回はそのリベンジというわけです。しかもこのアルペンルートを往復したのです。
さて、話は戻って、室堂平の散策です。
みくりが池の畔、雷鳥がいるのが見えました。下左の写真の右下の岩の上に2羽の雷鳥をご覧になれると思います。これらの雷鳥は、この後すぐ飛び立って行きました。雷鳥が飛び立ち、滑空する様を見たのは初めてです。
下右の写真に、紅葉したチングルマの綿毛をみることができます。本当にかわいい高山植物です。
雷鳥(室堂平にて) チングルマ(室堂平にて)1:00p.m. レストラン立山で昼食を撮った後、往路と同じアルペンルートを通って、帰ってきました。紅葉を満喫できた素晴らしい一日でした。この日の歩行歩数は11,300歩。
帰宅3日後の10月17日、テレビのニュースは「立山が初冠雪した」と報じていました。
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