山行雑感

山行雑感


ごあいさつ

藤恒教授の日曜講義に時折はさまれる「閑話休題」として山行の雑感を掲載してきました。
これを別にして記録しておく方が好都合と考え、「日曜講義」から取り出し、「山行雑感」としてまとめておくことにします。(これまでのものは、「日曜講義」から抜き出したことを示すために、講義番号はそのままにしておきます。)

次がいつ掲載されるかは、私の山行次第です。
今日以降は、この山行についての話題は「日曜講義」と切り離して、このページおよび「山行雑感その2」にのみとり上げることにします。(2004/02/20)

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1.[第四十八講]アンナプルナ・トレッキング (2001/04/08)
2.[第五十九講]中国・黄山で、経済を考える(2002/02/10)
3.[第六十三講]屋久島縦走(2002/04/07)
4.[第八十四講]ツール・デュ・モンテローザ(2003/09/10)
5.パミール山麓・フンザへの旅(2004/04/18)


1.[第四十八講]アンナプルナ・トレッキング (2001/04/08)

今回は閑話休題、雑談でご勘弁願います。
3月25日から5泊6日のアンナプルナ-ダウラギリ・トレッキングに行ってきました。初日はカトマンズからポカラへ飛び、ルムレという小さな集落までバスで行きます。ポカラの空港からすでにヒマラヤ西部一帯のすばらしい展望で、早くも心が躍ります。1時間ほど歩いて、チャンドラコット(標高1580m)で最初のテント泊です。

一行は、50代60代の中高年を中心とする総勢12名(うち女性3名)にツア・リーダーを含め13名ですが、これに現地から加わる支援隊がすごい。サーダー(シエルパ頭)1名、シエルパ4名、コック1名、キチンボーイ2名、キチンヘルパー4名、それにポーター15名、計27名を帯同して行動するのです。
キャンピング用具、炊事用具、食料はもちろん、食事のためのテーブルから椅子にいたるまですべてを持参するのです。これはもう、”大遠征隊”といってよいでしょう。
現地の道案内から歩行中の支援、テントの設営など、すべてシエルパがやってくれるし、食事はコックたちが午後3時のティーまで用意してくれます。荷物は、私たちは必要最小限のものだけを持って行動します。
朝夕は、顔を洗ったり体を拭いたりするお湯まで用意してくれます。これには感激しました。これはもう、”大名旅行”といっていいでしょう。

2日目は、標高差400mを下り、再び800mを登ってガンドルンという集落まで、約8時間の行程でした。道は幅1mほどの、古来からあるらしい石畳の、地域の人たちの生活道路とでもいうべき道です。その道を人も通れば、荷物を運ぶロバも通ります。だから、道はその糞だらけです。しかし、不思議と不潔な感じはしません。
この間、終始、前方にアンナプルナ・サウス(標高7219)とヒウンチュリ(6441)、そしてすばらしい山容のマチャプチャレ(6997)を望みながら進みます。

3日目、4日目はキャンプ地以外では山は見えません。石楠花の大木の樹林帯を行きます。この石楠花は本当に大木です。幹周り3〜4mほどあるものも珍しくなく、高さは20m以上もあり、はるかに見上げるほどです。それに満艦飾に花が咲き誇っています。
3日目のキャンプ地はタダパニ(標高2590)、4日目はゴラパニ(2860)です。毎日、午後4時頃になると決まって襲ってくる驟雨がテントを打ちます。いよいよ明日は待望のプーンヒル(3190)に登って、アンナプルナ-ダウラギリの大展望を楽しむ予定です。

5日目、早朝4:45出発、ヘッドランプをつけて登りはじめます。1時間ほどで頂上に着き、ご来光を待ちます。あいにく快晴というわけにいかず、もやっていますが、山々は見えます。
上の写真は、プーンヒルからの右手方向の展望で、右からアンナプルナ・サウス(7219)、アンナプルナT峰(8091)、ニルギリ(7061)などが見えます。
下の写真は、展望左手のダウラギリ方面で右から、頂上に朝日のあたっているのがチュクチェ・ピーク(6920)、中央の大きな山がダウラギリT峰(8172)、左がV峰(7715)です。
朝日が山々を照らしたのはほんの一瞬で、すぐ雲に隠れてしまいました。

感激に浸る間もなく、キャンプ地に戻り、ここから標高差1300m(プーンヒルからいえば、1700m弱)を、マッターホルンをしのぐ規模と山容のマチャプチャレを背に、ヒレ(1520)に向けて下ります。
ヒレで最後のテント泊。この夜、シエルパ達が笛と歌声に合わせたシエルパ踊り(?)で私達を慰めてくれました。私たちもこの輪に加わり、心から楽しむことができました。夜空の星がとってもきれいでした。
次の日、最後の6日目はビレタンティ(1080)を経て、ナヤプールでバスに乗り、ポカラへ帰って、今回のトレッキングは終わりました。

以上は、簡単な山行記録ですが、今回はここで、こうしたトレッキングの支援について考えてみましょう。
今回の場合は山行に必要な器材・食料まですべてシエルパほかの人たちが携行し、私たちを支援してくれました。つまり、必要なものはすべて自分たちで持ち歩くシステムです。

もちろん、別のシステムもあります。妻はニュージーランドのミルフォードトラックを歩きましたが、そこでは要所要所にロッジがあり、そこで宿泊から食事まで提供されるので、トレッカーは1日の行程を歩くのに必要なものだけを持参すればよいのです。
つまり、ロッジという拠点に大量に必要資材が搬入蓄えられており、人々はそれを共同に利用するのです。この方がヒマラヤ方式よりはるかに効率的であることは間違いありません。

この拠点に大量に資材を搬入する手段がない場合、ヒマラヤ方式をとらざるを得ないでしょう。
しかし、時代は急速に移りつつあることを、今回のトレッキングでも感じました。アンナプルナ地区でも、ロッジやレストランが続々とできつつあり、しかもだんだんと小奇麗になってきています。現に、ほとんど支援を受けない個人、小グループのトレッカーも見かけました。
そのうち、ネパールも近代化が進み、労賃も上がってくれば、すべてを持参するヒマラヤ方式は消えてなくなるかもしれません。何しろ、効率が悪いですから。


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2.[第五十九講]中国・黄山で、経済を考える(2002/02/10)

この年末年始にかけて、中国の黄山へ観光旅行に行ってきました。今回は、”経済を考える”などと偉そうな標題ですが、買い物について思いつくままを書いてみようということです。

黄山は、上海西方にある山塊で、奇岩怪松の、まさに山水画の世界を思わせる世界遺産の名所です。
高さはそれほどでもありませんが(最高は蓮花峰の1861m)、相当に急峻で、四方から歩いて登るための登山道がよく整備されていますが、ロープウエイも3個所に設置されており、これを利用すれば容易に登ることができます。

山の上には立派なホテルがあり(4つ星級とのこと)、食事も豪勢な中華料理がいただけます。ただ、山上で水は貴重品ですから、バスタブはなくシャワーだけです。
遊歩道が網の目のようにめぐらされており、それがすべて花崗岩の石段・石畳で非常に歩きやすい。これを整備するだけでも長い年月と大変な人手を要したであろうことは容易に想像できます。
滞在中、残念ながら雲海を望むことはできませんでしたが、すばらしい2002年の初日の出を拝むことができました。

さて、その”経済”についてです。
まず、この山上のホテルで日常使われる資材・食料などがほとんど、下界から人手によって担ぎ上げられるという事実です。売店で売っている商品もそうです。
展望台などから下を見ると、確かに竹竿の両端に重い荷物をぶら下げて登ってくる人をしばしば見かけます。聞くと、その担ぐ重量は50kgから80kgに及ぶということです。つい最近、NHKのテレビを見ていたら、こういう担ぎ屋さんが中国の坂道の多い重慶などにはたくさんいて、そこでは100kgを超える荷物を竹竿1本で運ぶそうで、これを"棒棒(バンバン)”と呼びます。
私たち日本人からすると、直ちに疑問が湧きます。「ロープウエイがあるのに、なぜそれを使って運ばないのか」。
答えは簡単です。「人手の方が安いからだ」ということです。

ロープウエイは、料金が60元(当時、1元が16円)位で、20分足らずで着きます。それを歩いて荷物を担ぎ上げれば、何時間もかかるでしょう。おそらく1日がかりではないでしょうか。
それでもホテル業者や商店主からすれば、担ぎ屋に頼る方が安いのです。
中国人観光客も同じことです。われわれと同じようにロープウエイで登ってくる若いカップルもいれば、石段の登山道を延々と歩いて登ってくる老若男女もたくさんいます。

ホテル(宿泊料金は欧米のホテルに並ぶ高額なものです)に泊まる人もいれば、小部屋の並んだロッジ風の安い宿に泊まる人もいます。 中国人間の所得格差、貧富の差は、ちょっと想像できないほど大きいのではないでしょうか。
ガイドが言っていました。「私の親が一生かかって稼いだのと同じお金を、私は3年で稼いでいる」。

この格差は、都市の風景にも表れているように思います。摩天楼の林立する上海・そこで忙しく立ち回るビジネスマンと、今度の旅で訪れた宏村という歴史的な街並み(これまた世界遺産です)・そこに暮す人たちとの違いは、新宿と白川郷の違いをはるかに超えています。
こうした格差は、経済発展に伴って現れずにはいないものなのでしょうか。

次は、本題の買い物についてです。
中国では、多くの東南アジアの国々と同じように、商品・サービスの売買は原則として相対の交渉(ネゴシエーション)によります。私たち観光客の買い物も同じことです。
売り手の言い値で買う人はいません。値段を交渉します。半額になることは珍しくなく、2割程度にまで下がることがあるので、油断なりません。高額な工芸品・美術品などは特にそうです。

この値段交渉についてですが、ガイドに次のように言われたとき、ちょっと引っかかるものがありました。
「日本人は安いものでも何でも値切ろうとするが、中国人は100元以上のものだと真剣になるが、安いものだとあまり値切らない。たとえば、タバコが9.5元だとすると、10元支払っておつりは受け取らない。」

しかし、そうでもないのではないか。それは、後で述べるように、金持ちの中国人にのみ当てはまることではないか。
というのは、先程のNHK番組の「棒棒」の話ですが、依頼人と担ぎ屋は料金について盛んに交渉しているようでした。その料金は、駅からバス停まで、港から商店まで、30分ぐらいかけて運んで5元とか10元といった程度です。
そういえば、私たちが黄山でロープウエイの昇降口からホテルまで荷物を運んでもらったときは、50元も支払いました。荷物の重さはおそらく重慶の棒棒の10分の1、料金は10倍ということになります。すると、重量あたりの単価は100倍ということになりますね。

そのことに、私は中国や中国人に対して文句を言っているのではありません。
ネゴシエーションによって価格が決まり、売買が成立するのは、ある意味で非常に合理的であって、またそれが経済の発展に寄与するものだと考えるからです。

売り手は、売値の最低限度というものはもっているでしょう。それは仕入れに金を払っているのだから、当然です。それ以上どこまで高い値段で売れるかは買い手次第だということです。
買い手は、その商品なりサービスにどれだけの価値を見出すか、それに妥当な値段であると思えば、それだけの金額を支払い、それを手に入れるでしょう。

このとき、私が「その商品なりサービスの価値」といったのは、正しくは「それに支払う金銭の価値(効用)」であって、その商品・サービスの本性としての価値とも、まして原価とも無関係、ということです。
そして金銭の価値は、効用理論によれば(もちろん、異なる考え方もありますが)、その人が持っている金銭の高に依存します。つまり、同じ100元を支払うにしても、100万元の財産をもつ人にとっての100元の効用は、200元しか持たない人のそれよりはるかに低いはずです。
黄山で支払った50元の金銭の私にとっての効用は、重慶の人の支払った5元の効用と同じか、あるいはそれ以下だということになります。

このように考えると、売買における価格の決定は顧客に依存し、顧客が支払ってもよいと考える金額で決まってよいのです。
生産者や販売者の側が決めることではないのです。

そういえば、こんなことがありました。黄山へ出掛ける前、フィルムを買いに行きました。その店に同じメーカーの同じ製品で、何かキャラクターのおまけ(?)のついたものと、そうでないものの2種類を売っており、おまけのついた方が安いのです。
どうしてそうなんだ、と聞きましたら、仕入れた日が違うからだというのです。仕入日が違うということは仕入値段が違うということで、したがって売値が違うのだということらしいのです。
まさに、販売者主導の値付けですね。ネゴによる顧客主導の値付けとは対極にありますね。

正価販売しか許さず、価格交渉できなければ、顧客にとっての選択はそれを買うか買わないかのどちらかで、中間はありません。値段によっては売れたかもしれない商品を売り手は売り損じ、買い手は購入を我慢するか、高い買い物をしたという不満を残したままとなるでしょう。
それでは、経済は発展しないでしょう。

とはいっても、買い物があまり好きでも上手でもない私のような物臭には、正価販売は面倒がなくてよいのですが…………


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3.[第六十三講]屋久島縦走(2002/04/07)

今回は春休みで閑話休題、雑談でご勘弁願います。
3月28日から屋久島に行ってきました。お目当ては、九州最高峰の宮之浦岳と縄文杉です。山岳専門の旅行会社のツアー(山中、2泊3日)に参加しました。合計12名(うち、女性8名)で、どうやら私が最高齢のようでした。ガイドは、屋久島の著名なナチュラリスト・ガイド太田五雄氏です。

29日早朝、「もののけの世界」といわれる白谷雲水峡から入る予定でしたが、(予想に違わずというべきか)昨夜来の雨で、道中各所の谷川の渡渉に危険があるということで、急遽、荒川口に変更になりました。
このコースでは、しばらく旧森林軌道上を歩くのですが、そこを流れる水のなかをバチャバチャと、雨具を着けて進みます。シュラフにマット、それに3日分の食料を詰め込んだザックが肩に食い込みます。テントは必要ありません。2泊とも無人小屋に泊まる予定ですから。

大粒の雨と足元に気を取られながら歩いていくので、「これが三代杉です」とガイドに言われて初めて上を見上げ、その巨木に思わず胸を打たれます。
間もなく、ウイルソン株に到着しました。巨大な切株の内部は空洞になり水が流れています。そこで、雨具を着けて立ったまま昼食です。それもそこそこに、出発。
「大王杉」が見えてきました。これは確かにすごい。周囲の多くの巨木を圧して、雨と靄の中に立ち上がっています。
すぐに、いよいよ念願の「縄文杉」です。「これが、あの縄文杉か」と見上げますが、そばに近寄れないように離れた柵の中からで、ちょっぴり期待はずれです。そばまで行って幹に寄り添い、耳を当ててその息遣いを聞きたい気が強くします。しかし、それではこの偉大な杉の命を守ることができないのですね。

当初の予定では、ここから約1時間半ほど先の新高塚小屋に泊まる予定でしたが、たくさんの登山者で溢れそうだということで、すぐ近くの高塚小屋に泊まることになりました。食事を取り、早めに寝ましたが、20人程度しか入れない小屋は満員になりました。

翌2日目、快晴です。急登を経て、尾根道に差し掛かり森林限界を超えると、まず山頂に特徴のある岩の翁岳(1880m)が見え、すぐ宮之浦岳(1936m)が姿を現します。
写真は右が宮之浦岳で、左が翁岳です。ツアリーダーの松本さんは、5度目にして初めてこの宮之浦岳を目にしたそうで、それまでの4回はすべて雨だったそうです。初回にしてこのように、この名山を目にすることのできた私たちは本当に幸せです。
山頂では、360度の展望が欲しいままです。宮之浦岳登頂は、このホームページ開設以来、「趣味と仕事」のページにその思いを書き置いてきただけに、感激は一入です。これで、私も趣味と仕事のページを書き換えなければなりません。

さて、次のピーク、永田岳(1886m)へ向けて、焼野三叉路に置いた荷物を再び背負い、岩と岩の間の水の流れで深くえぐれた登山道を苦労して下ります。そしてまた、登りです。この辺りでは私もいささかバテ気味ですが、何とか永田岳山頂に到着しました。これまた、すばらしい展望です。
西の海の向こうに竹島、噴煙を上げる硫黄島、そして口永良部島を望むことができます。背後に廻ると、ローソク岩が見えます。
急坂を転がるように下り、今日の宿泊予定の鹿之沢小屋に入りました。

この鹿之沢小屋も収容人員20名程度の無人小屋ですが、トイレの場所がかなり離れています。水の流れを越えて、岩の上をロープを伝って登り、やっと着きます。小屋まで帰るとき、道に迷ってしまいました。
そういえば、ガイドの太田さんの話によると、ある小屋(以前の新高塚小屋だったか)で夜、トイレに行ったまま迷ってしまい、結局、小屋に帰ってくることができず、かなり離れたところで遺体となって発見された人が1人、いまだに行方不明の人が1人いるとのことでした。

最終日3日目、大竜杉、焼峰を経て原生林の花山歩道を下ります。
この花山歩道が、またすごい。初めは背丈ほどもある藪のなかを漕ぐようにして下ります。一応歩道になっているのですが、それが水の流れにえぐられて突然、数十センチもストンと落ちていたりします。藪の中ですから、足元が見えないので危険です。
原生林の中に入ると、巨大な倒木が道をさえぎり、巨木の太い根が道のいたるところにうねり、つるつるした一枚岩をロープを頼りに下り、また深くえぐれた溝の泥水の中を滑らないように注意し、やはり大変な下りでした。

こうして歩きながら思いました。
われわれ人間の歩く登山道が、ここ屋久島の山では威張って付けられていない、ということです。ひっそりと、自然に寄り添っている。歩く人間の方が少々無理をしてもそれに従わなければならない。山が主人公なのです。人間はそこにちょっとだけお邪魔させていただいている、とそんな感じの道のつけ方です。
思えば、50年近く前の南アルプスや北海道その他の山がそうでした。

今では、北アルプスなど登山道が威張って付けられているように見えます。つまり、山ではなく、人間の方が主人公のように見えます。
屋久島の山は、この登山道といい、背負った荷物の量といい、私に50年近く前の登山を思い起こさせました。

とにかく、今回の屋久島縦走は堪能することができました。登山に興味のない方には申し訳ありませんでしたが、無駄話としてご容赦ください。

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4.[第八十四講]ツール・デュ・モンテローザ(2003/09/10)

夏休みが終わり新学期ですが、いきなり閑話休題、雑談でご勘弁願います。
8月13日からツール・デュ・モンテローザに行ってきました。予備日も入れて、山中8日間のトレッキングでした。山岳専門の旅行会社のツアーに申し込んだのですが、参加者が少ないため催行されず、結局、個人手配の旅になりました。私ども夫婦と妻の友人の3人です。

8月14日、シャモニのホテルで食事しているとき、これからマクニャーガまでガイドしてくれるA嬢が迎えにきてくれました。
30リットルの小さいザックを背負った、細い体の少年のような女性です。でも、体力があり、優しくよく気がつき、てきぱきとしたすばらしいガイドと分かります。

当日は、ティッシュからツェルマット、そこからロープウェーでクライネマッターホルン(標高3883M)駅まで登ります。 ロープウェーを降り、いきなり氷河を渡ります。現地調達の高地ガイドを先頭に、A嬢を殿にザイルで数珠繋ぎになってザラメ状態の氷河を1時間以上歩きます。
A嬢は、現地のスキーガイドの資格はあるのですが、スキーを履かないで高所の氷雪の上を歩くときはガイドする資格がなく、別に高所ガイドを雇わなければならないのです。

氷河が切れたところで、この高所ガイドと別れ、テオドゥーロ峠を越え、イタリア側のチェルビニアまで下り、初日の行程は終わりです。
憧れのマッターホルンを右前方に見ながら、この先の行程に期待いっぱいです。マッターホルンはスイス側から見るのと様相を一変し、いささか悪魔的な岩壁で人を圧倒します。

名を知らぬ花、バックはマッターホルン(4478)

このトレッキングは、ブライトホルン、リスカム、そしてモンテローザの山群のイタリア側(つまり、南側)を、ぐるりと廻るものです。 したがって、いくつもの峠と谷をアップ・アンド・ダウンします。

行程順にいえば、
@14日 クライネマッターホルン(3883)からテオドゥーロ峠(スイスイタリア国境、3301)へ、さらにブランメゾンを経て、トゥルナンシュ谷のチェルビニア(2006)まで下る。チェルビニア=ブランメゾン間はロープウェー利用。

A15日 チーメ・ビアンケ峠(2982)まで登り、これを越え、アヤス谷へ下る。ただし、谷底まで下がらず、谷向かいのフェラーロ小屋(2074)まで再び登る。

B16日 ベッタフォルカ峠(2672)まで登り、ここからグレッソネイ谷(約1850)まで下がり、谷向かいのガビエット小屋(2357)まで再び登る。

C17日 この小屋から(2357)オレン峠(2881)まで、さらにブンタ・インドレン(3260)まで登り、下りはロープウェーを乗り継いで、セシア谷の観光地アラーニャ(1186)まで下る。

D18日 この日は楽。アラーニャのホテルからパストーレ小屋(1576)まで登るだけ。これは横着をして途中までバスにして、その代わり予定外のカルデリーニ小屋(1829)まで足を伸ばし、そこの素朴なレストランで食事する

パストーレ小屋からモンテローザの朝焼け(一番右が最高峰デュフール、手前がパロ、奥の方にツムシュタイン)


水溜りに映る朝焼けのデュフール

E19日 今日は最大の難関。パストーレ小屋(1576)からトゥルロ峠(2738)まで、約1200Mの急登。ここからアンザスカ谷の観光地マクニャーガ(1320)へガレ場を転がるように下る。目的地が1400M下に見えている、そこまで下るつらさ。

F20日 予備日。モンテローザ山群からの氷河がすぐ傍まで迫るザッパ小屋(2070)に徒歩とロープウェーで遊びに行く。昼寝を楽しむ。

G21日 マクニャーガ(1320)のホテルからロープウェーを利用してモンテモロ峠(イタリアスイス国境、2810)へ、そこから下に見えるマットマーク湖(2197)へ向けてサース谷を下る。

モンテモロ峠へのロープウェーからみたモンテローザ山群


モンテモロ峠を越える、黄金のマリア像が立っている

H22日 サース・フェーからポストバス、登山電車を乗り継いで、フランス、シャモニへ帰る。ブレバンの展望台にロープウェーで登り、モンブラン、エギュード・ミディ、グランド・ジョラスなどを展望する。

ブレバンからヨーロッパ最高峰モンブラン(4807、一番高い 山)、その左の黒い鋭鋒エギュードミディを望む

合計すれば、6つの峠を越え、6つの谷を訪れたことになります。
2日目に雨と雷に悩まされたほかは、ほぼ好天に恵まれ、快適なトレッキングを楽しむことができました。 標識も完備しており、また昼食も、素朴だがレストランのようなところで摂れることが多いし、よくできたルートだと思います。

ガイドからの受け売りをひとつ。
地図上にある山小屋の中に、CAIと書かれたものがあります。その山小屋はイタリア山岳会所有の小屋ということで、宿泊料などは全額、山岳会の収入となります(山岳会員には割引がある)。
では、小屋の管理人には何が入るのか。食事料その他の売り物から上がる収益が管理人のものになるということです。
私たちが訪れたカルデリーニ小屋、ザッパ小屋などがこのタイプで、地図上にCAIとあります。

モンテローザ山群の主要な峰は、次の通りです。 北から、ノルドエンド(4609)、デュフール(4634)、ツムシュタイン(4452)、ニフェッティ(4554)などです。
恥ずかしながら、山行の道々、習いたてのスケッチをしてみました。いくつかをご笑覧に供します。



マクニャーガの宿の玄関からのモンテローザ




シャモニ・ブレバン展望台より



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5.パミール山麓・フンザへの旅(2004/04/18)

春休みを利用して、パキスタン最北最奥の”秘境”とよばれるフンザへ旅してきました。今回は、登山でもトレッキングでもなく、展望を楽しむ目的です。(始めたばかりのスケッチをはさんで、ご笑覧に供します。)

3月26日、成田出発が5時間以上も遅れ、パキスタンの首都イスラマバード着午後10時ごろの予定が、日付の変わった未明となり、ホテルに入ったのは午前4:30でした。
モーニングコールは午前8時、やれやれ。しかもこの日は、次の宿泊予定地のサイドシャリフまで350キロをバスに乗らねばなりません。

次の日は、このサイドシャリフからチラスまで300キロ、また次の日はさらに230キロ以上走って、やっとフンザに着きます。実に、880キロ以上、途中立ち寄った名所旧跡への距離を加えれば900キロメートル。

フンザ手前、100キロのギルギットに空港があるのですが、ここまでの便は不定期・不確実なので、観光客は大概、バスを利用するようです。
つまり、イスラマバードからバスで3日間走らなければ到達できないのがフンザです(最短距離を飛ばしに飛ばせば、2日間でも着きます)。まさに、”秘境”の名に恥じない、といえるでしょう。

この道路をカラコルム・ハイウエイ(KKH)、中パ公路(中国パキスタン友好道路)といいます。中国最西端のカシュガルからカラコルム山中の中パ国境クンジュラブ峠を越え、パキスタン側は主としてインダス川沿いに走る全長1300キロの道です。
このルートは、かって多くの求法僧や隊商たちが苦難の末にパミールを越えたシルクロードと同じルートを通ります。今でもその道路跡を随所に見ることができます。

インダス川の流れる深くて急峻な谷、所によっては川と道路との落差400メートルにも達する山腹を、無理やり削り取ったような道路です。いたるところ大きな落石があり、また絶えず工事が行われています。
ハイウエイとはいうものの、日本人の感覚でいえば、簡易舗装の田舎道の感じです。でも、パキスタンと中国が協力して、多くの人命を失いながら、20年という歳月をかけて切り開いた道路だと思うと、頭の下がる思いです。

道路はフンザに近づくに連れて高度を上げていきます。標高2000mを超え、3000mにも及び、中パ国境近くのグルミット付近では氷河の上を道路が走リます。氷河は流れ動くので、毎年必ず補修しなければなりません。国境のクンジュラブ峠は標高4943mですから、私たちが訪れた頃はまだ冬季閉鎖を続けていました。

ベシャムからインダス川沿いに走る(左の山腹を横切るのはKKH)


イスラマバードからKKHを外れて、アジアン・ハイウエイを西へペシャワールに向かって進み、サイドシャリフ泊まり、ペシャムで再びインダス川沿いのKKHに帰り北上、チラスに泊まります。

4日目、チラスを出発してすぐ近くの岩絵を見学した後、タッタパーニの温泉に手を浸す。こんなところに温泉があるのは珍しいことです。なんでも、この地帯の激しい造山運動のため、地下岩石の相互摩擦の発熱による温泉だそうです。
ギルギットの手前に、ヒンドゥクシュ、カラコルム、ヒマラヤの3大山系が交わることを示す標識があります。下を見れば、ギルギット川とインダス川が合流しており、雄大なビューポイントです。

このビューポイントから振り返れば、世界第9位の標高を誇るナンガパルバット(8125)(ヒマラヤ山系)が見えるはずですが、あいにく雲のためピークを見ることができません。しかし、しばらく走ると、見事に雲が切れました。急遽、バスをストップし、写真撮影。

中央遠景の雪山がナンガパルバット(8125)


ここから、インダス川を右に分け、ギルギット川の渓谷に入ります。北部地方の中心地ギルギットから、今度はフンザ川に沿ってKKHを北上します。途中、昔のシルクロード跡を対岸のはるか高い崖に僅かに見てとることができます。ところどころに石を積み上げた橋も残っています。千数百年も前の人たちのすごいエネルギーに感嘆せずにはいられません。

目的地フンザに近く、美しいラカポシ(7788)が見えてきました。「ラカポシ・ビューポイント」でチャイを飲みながら展望した山は、本当に素晴らしいものでした。
そしてフンザ中心地、カリマバードに到着。今晩から4泊するホテルに入りました。

10キロほど先のラカポシ(7788)を東に望む


翌5日目、ホテルからジープに分乗してフンザの対岸、ナガール谷に入りました。ウルタルT峰(7388)、U峰が見えてきます。道は凸凹道で揺れること、揺れること、吐き気を催すほどですが、途中の集落の満開の杏の花、ポブラの新緑、さらに見上げれば雪山の白、その上の晴れ上がった空の青、まさに”桃源郷”の名に恥じない美しさです。
行く先は、ホパー氷河です。雄大な流れでした。

ホパー氷河


午後は、ツアーの人たちとは別れて、ホテルに残り(実をいうと、ちょっと体調をくずしたので)、部屋の窓越しにスケッチしました。感じは出ている積りですが・・・・・

ウルタルT峰、U峰(ホテルの部屋の窓から)

6日目、朝5時前にジープに分乗し、展望が素晴らしいというドゥイカール村(2900)に向かいます。約1時間。ここで、朝焼けの山々を展望しようというのがねらいです。 空は雲ひとつない快晴です。そのせいかもしれません、あるいは日が昇る側の山が高いせいかもしれません。期待したほどのモルゲンロートを見ることはできませんでした。そこにあるレストランで朝食の後、ホテルまでまたジープに揺られて帰りました。

午後は上カリマバードまで、またジープで。ますます山は近くなり、ラカポシ(7788)、ディランピーク(7273)、フンザピークとレディフィンガーの鋭鋒、すべてカラコルム山系の山々ですが、一望のもとです。

遠景右がラカポシ、左奥がディラン


フンザピークとレディフィンガー

目を下にやれば、かってのフンザ王国のミール(藩王)の居城、ホテル、集落と山の上どこまでも続く棚田の緑と杏のピンク、ポプラの新緑が実にきれいです。
帰る途中、この旅行中終始ガイドしてくれたアラームさんの実家に立ち寄り、一家総出の歓迎を受けたことは忘れることができません。
パスー氷河、パトゥーラ氷河を訪ね、最後はこれまで観光客がほとんど立ち寄ったことがないというグルキン村(標高3000m近い高所)を訪ねることができました。道々、素朴な子供たちの笑顔がとても素敵でした。

7日目、今日がフンザ滞在の最後の日です。わたしはホテルに残り、杏の花咲くホテルの庭でスケッチに専念しました。

ホテルの庭からウルタルを望む


杏の花、新緑とホテル前の山(名前は知らない)

ギルギット、ホテルの窓からラカポシ(右下のテントの中で結婚披露宴が行われている)


午後、来たときと同じバスでカリマバード出発、ギルギット、ベシャム、タキシラと、途中、岩絵や仏教遺跡、博物館などを見学しながら、2日半かけてイスラマバードに帰ってきました。

次の日、成田到着、11日間のツアーを終えました。
長時間のバスに、ジープに、と行程につらいものがありましたが、美しい山々と、雄大に流れるインダス川とその支流、そして氷河。満開の杏の花とポプラの新緑。十分に満喫しました。
何よりも印象的だったのは、その土地土地の人たちの笑顔、子供たちの好奇心と人懐こいこと、私たち日本人が忘れてしまったもの、そんなものをそこに見出したような嬉しさがありました。




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