留学日記4
秋から二度目の冬へ (1970/09/10〜1971/01/02)

9月10日
やはりBARHを出なければならないことになった。今度こそ本気で貸しアパートを探さねばならない。
デイブは行ってしまった。ロンも故郷に帰るといって、挨拶にきた。彼は、ベトナムへ行くことになるだろうという。夏学期3科目とるといって頑張っていたのに、ついにマスター(MS)をとることができなかった。なんとも言葉を失ってしまう。ベトナムが、アメリカの若者たちに暗い影を落としている。

9月11日
今日で夏学期も終わり。
幸いにもOrganizationはグレードBだった。ラッキーといえばラッキー。これまで取得した科目の総合成績はA、A、B、B、C。申し分なし。

書いてみれば、私もずいぶん英語が書ける。最初の学期、春学期のFinanceの中間試験のとき、みんなブルーブックと呼ばれる10数枚の用紙を綴じた青い表紙の小冊子を持参していた。これが答案を書く用紙で、学内の売店から買ってくるのだそうだ。試験問題は担当教師がタイプした1枚の紙が配られるだけ。
何も知らない私は、日本の大学のように、てっきり答案用紙が配られるものと思っていたので、あわててしまった。スミス教授は親切にも、私に「今回は、君のルーズリーフから何枚か抜き出して、それに書きなさい。次回からちゃんとブルーブックを買ってくるのですよ」と言ってくれた。「日本語で書くんじゃないよ」とも言った。

そうして、答案を書きはじめて、隣の学生をみて驚いた。私の2倍以上、3倍ぐらいのスピードでどんどん書いていく。そりゃ、仕方ないよ。英語は私にとっては外国語でも、彼らにとって母国語なんだから。開き直って、書き始めた。
それ以来、テストの答案を書くときは、開き直ってやっている。それで、今季のOrganizationは86点でB。ボブはCで、泣きべそをかいている。カルロスは、さすがにAだ。

適当なアパートが見つからないのが、悩みのタネだ。

9月17日
秋学期開始が目前に迫って、BARHの私の部屋に、後釜の学生が入ってきた。もう、ムリヤリ強制退去。ボブも同様。
とりあえず、荷物をボブの車に積み込んで、二人で近くのモーテルに行く。モーテルに2泊の予定。

10月18日
この下宿に移って、1ヶ月が経った。
とても気に入っている。あれこれ煩わしいこと、気の張ることがない。勉強に専念できて、酒も自由に飲める。
――下宿はミラノ氏所有の独立した棟で、4人の学生が寄宿している。普通の民家の造りで1階中央に広いリビング、その脇に大きなキッチンとバス・トイレがあり、これらは全員の共用。2階に寝室が3部屋あり、一番大きな部屋をボブと私がシェアしている。他の2室はそれぞれアメリカ人学生とインド人学生(近くの短大生)が占めている。家財道具はすべてそろっている。食事は自炊か外食――

気楽は気楽だが、これからものすごく勉強しなければならない。実質4科目で、とても忙しい。

10月26日
サチから小包を受け取る。ボブが興味津々でこちらを見ている。少し分けてやった。
秋学期になって、もう6週目に入った。外の道路や隣の家の玄関で女の子と子供たちがキャーキャー騒いだり、おしゃべりしたりしているのが窓から見える。女の子がかわいい。

ボブもよく勉強する。でも、ときどき私の書いた宿題を見せろという。ところどころ写しているらしい。構わず、知らぬ顔をしているが、この間はひどい目にあった。「このなかに全くの同文の個所がある。どちらが写したのか」といって、つき返されてしまった。

ボブの生活サイクルはちょっと変わっている。睡眠時間がだんだんずれてくる。どうも彼の1日は24時間ではなくて、25〜6時間サイクルで回っているようだ。だから、私とは寝る時間、起きる時間がだんだんとずれてきて、遂には彼は昼夜逆転してしまう。
彼も私も、クラスに出て、帰ってくれば机に向かうか寝るだけの生活だから、かわいそうなものだ。

ただし、食事だけは大いなる楽しみ。
彼は車をもっているから都合がいい。その車で週1回、スーパーに1週間分の食料品を買いに行く。商品棚の端から順番に全部の棚を経巡る。勘定はキッチリとセント単位まで折半である。
――ステーキを焼いたときなど、焼き上がった肉を半分に切るが、不公平がないように包丁を持たない方もその切り方をしっかり監視する。二つに切った肉は、例えばボブが包丁をもって切ったとすると、分けた二つの皿を後ろに隠して「右か、左か」と尋ねる。私が右なら「右」と指定する。指定された皿が私のもので、ボブはたとえその肉が少し大きいと思っても文句は言えない。私が包丁をもったときも、立場が入れ替わるだけで、同じようにする――

11月2日
このところ、またスランプ。きっかけはCost Finding & Analysis(原価計算と分析)のテスト。Planning & Organization of Marketing(マーケティング計画と組織化)の課題ペーパーが気になって仕方がない。こんなありさまではたしてマスターがとれるんだろうか。
あと3ヶ月しかないのに、このざまは何だ。一切を放棄して、単位をとることに専念しているのに。10ヶ月以上頑張ってきたのに、あと3ヶ月が頑張れないはずはなかろう。

11月3日
みんなのお陰なのに。
一生懸命我慢して頑張ってくれている妻や子供たち。
学校の理事長、研究所長や仲間たち、ジャッフェ博士。
RPIの先生たち。あのスミス教授でさえ――彼から唯一のグレードCをもらった――私がクラスから退こうかと相談に行ったとき、「そうか、じゃそうしなさい」といったら、マスターをめざしてがんばっている今の私はない。彼はそうは言わず、「くじけるな、がんばれ」といってくれた。
大学院研究科長カーガー教授の好意。
それらをみんな集めて私が成り立っている。ボブでさえ、彼がいなかったら、私はとっくにあきらめてしまっていたかもしれない。
みんなの励ましと好意。それなのに、つまらないことでくじけてどうする。

みんな悩み、疑いながらも、成就しているのだ。
生沢徹「俺はなんでこんなところで、ロンドンの地下室で、こんな苦労をしているのか」
渡辺美佐「どうして、こんな大役を引き受けてしまったのか」
授業は、あと8週間と少ししかない。

11月7日
また寒い冬がやってくる。ワシントンにいた頃、あの凍てついた道を毎日、学校まで歩いて通った。動物園のあたりは、冬でもきれいだった。

どうしてそんなにサチのことばかり考える。会いたい。
図書館でも女の子ばかり目についてしようがない。
流行なのか、ノーブラの女の子がかなりいる。彼女たちが構内を闊歩して通り過ぎると、男の子たちが囃し立てる。キッとにらみ返されて、それでこちらは大爆笑。

11月23日
外は15度――摂氏で、マイナス5.5℃――。寒波がやってくる。
NBCテレビのニュース、あの孔雀が出てくると、そしてあのバックグランド・ミュージックを聞くと、なぜがワシントンを思い出す。胸が締め付けられる思いがする。

金曜日夜、NYCで勤務先の同僚の森田さんと小林先生に会った。

11月25日
朝3時に、ボブはNYCへ一人で行ってしまった。
昨日は寒かった。17度。今日も寒いのだろうか。きらめくような日の光に溢れている。子供たちが学校から帰ってくる。明日はThanksgiving Day(感謝祭)。
昨夜、買い物に行った。お店の人が、「Have a nice Thanksgiving !(よい感謝祭を)」といってくれる。車が走り、風が吹く。日本の大晦日のよう。人たちはいっぱい買い込んで、暖かい家庭へ急ぐ。
私は一人で酒を飲む。

Advanced Statistics(統計学上級)のホームワークにこんなに時間をとられるとは思わなかった。

11月26日
ミラノ氏(大家さん)に、感謝祭のディナーに招待される。ボブとインド人学生アルンと私の3人。腹いっぱい食って気持ち悪いほど。ミラノ家の子供たちも大勢いて、愉快だった。

12月5日(土) 初雪

12月20日
全くマンガではないか。
気が緩んでしまって、何をやるのも億劫、そして何もしなくても時は過ぎていく。
普通の俺ではない。悪い面ばかり集まっている。

どんなに苦しい時でも、ユーモアのある人がいる。そういう人は、どういう形で自分自身を見ているのか。自嘲しているのか。そうではあるまい。
人生はドラマだという意味は、ドラマの登場人物を客席からみるように、己を客観的に見ることのできる人であっていえること。そして、客観的にみれば、俺の生活はマンガでしかない。俺は態度を変えなければならない。pretendという言葉もあるではないか。

ノイローゼになる人がいる。気が狂ってしまう人がいる。俺はノイローゼになったことも気が狂ったこともない。
早くあと1ヶ月になればよいと思った。あと1ヶ月になった。それなのに、自分を変えることはできなかった。

12月26日
昨日クリスマスに、その前のクリスマス・イブにも、ミラノ家に招待された。たらふく食い、かつ飲み、大変愉快に過ごした。プレゼントにもらったシャツを着ていったら、大層喜んでくれた。
今朝は朝早く起きた。街は非常に静かだ。この窓から、クリスマスの明けた静かな雪景色の街を眺めていると、ちょうど日本の正月の朝のようだ。みんなまだ寝ているのだろう。
私はウンウン唸りながら論文の原稿を書いている。ボブは夜じゅう勉強して、さっきベッドにもぐり込んだばかりだ。

勤務先から『マネジメント・ガイド』誌を送ってきた。
システム論について考えさせられる。システム論についての反省は、私自身にもある。アメリカのシステム論は、アメリカに固有のものでしかないのではないか。アメリカの科学技術、あるいは社会は生長を止めたのではないか、と漠然と考えている。
産業界の内部のことは分からないけれども、教育一つ取り上げても、そのことがいえるのではないか。システム論を推し進めていくと、結局それは閉じたシステムに行き着かざるを得ない。巨大な、人の目を欺くようなすばらしいシステムがここにあるけれども、それは生長を止め、硬直化してしまっている。

システムなどというと、シャレたように聞こえるが、システム論それ自体、何も新しいものを生み出す力はない。これは実感として、そういえる。
VE (Value Engineering) もそうだ。そのなかに何か新しいものをと思って探してきたが、私はいつも裏切られた感じを持ち続けてきた。既存の知識・技術を効率的にアレンジし直す力しかない。それでも進歩はする。しかし、革命はない。

まったく新しいものがほうふつとして輩出する時代がある。ルネサンス、フランス革命、アメリカ革命、明治維新など。私の生涯でも高校時代がそうだった。あんな田舎から、一度にあんなに多くの人たちが、進学の面でも、学生運動の面でも、スポーツでも輩出したことはなかった。

システム論とは、つまり枠にはめることにすぎないのではないか。枠をぶち壊そうとするエネルギーこそが、まったく新しいものを生んできた。
この枠にはめられたアメリカの学生をみよ。
この枠にはめられた詰め込み主義の(それが、いかに効率的であろうとも)不毛さをみよ。図式化されたStimulus―Response(刺激―反応)。ヒッピーは枠からはみ出してしまった。黒人も枠からはみ出してしまった。

坂本賢三の衝撃的は文章にぶち当たった。「システム的技術思想は、新しい技術の誕生が望めなくなったところで、既成技術の再編成によって活路を見出そうとする試みである」
「変化のあり方の技術」
「古いものの生かしかた」

巨大な、だがしかし閉じたシステムは、ある日突如として音を立てて崩壊するに違いない。それも、実に些細な一部品によって。人間の持つ柔軟さは、そこにはない。人間性と自然を疎外した閉じたシステムは、自らの論理の帰結として自らを殺す。
Variance (変動)を小さくすることによって作動させようとする論理は、必然的に人間と自然を排除する方向に向かう。

12月28日
昨日は、友澤家に招待された。

1月2日
隣の家では、15〜6歳くらいの女の子が3人ほど集まって、おしゃべりしながら雪かきをしている。長い脚をして、雪だらけになって。なんて、女らしい。
隣の子は朝、ときに出会ったりすると必ず、さわやかな声で「グッド・モーニング」と挨拶してくれる。

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