暑い夏 (1970/06/01〜09/02)
6月1日
許される留学期間内に帰るとして、夏学期に2科目とり、秋に無理やり5科目とるか。とにかくやってみるか。
不可能なことをやろうとしているのか。
山本義隆(全共闘議長)「とても自分にはできないと思うことを少しずつやって来て、気がついたら、こんな場所にいた」
88度とは、F=32+(9/5)C F=88 故に C=30.5℃
暑いはずだ。
6月2日
今日で春学期も終わり。
ともかくも一生懸命にやったのだから、これでよい。夏学期に2科目履修しよう。Analytical Methods(分析的方法)とOrganization Planning & Development(組織設計と展開)の予定。
エリックの奥さんと子供たちが来て、荷物を運び出し、彼も行ってしまった。美人の奥さん、かわいい娘さんたちと一緒に写真を撮る。
奥さんに会うのはこれで2回目。最初のときはケッサクだった。今日は奥さんが来るという日、いつもは抽斗の奥深くにしまいこんでいる額縁つきの写真(奥さんと子供たちが写っている)を引っ張り出し、机の上に飾っていた。奥さんが帰ると、また仕舞い込んでしまった。
平日は毎日、夜11時に必ず奥さんから電話がかかって来ていた。だから、別の部屋で話し込んだり飲んだりしていても、エリックは11時近くになるといつも自室に帰って来た。
エリックは本当にいい男だ。
6月3日
アメリカに着いた最初の日のことを覚えているかい。ノースウエスト航空の機内でのこと、ダラス空港に着いてからのこと。
しゃべることが大変だったし、夢中だった。
今は少しだらけている。
今日からしばらくタバコを止める。
6月4日
この3日間、ついに何もしなかった。飲んだり、寝たり。
明日は旅に出よう。カナダへ行ってみよう。できるだけ金を使わないでやってみよう。
マーチャンとジュンから手紙が来た。
ビカッシュ(インド人学生)が部屋に来て、トランプのトリックをする。いまは、散歩に行ってしまった。
ラジオは、坂本九「上を向いて歩こう」をやっている。アメリカでは“sukiyaki ”というそうだ。
ビルから、彼が使い終えたORの本を半額で購入する。夏学期に履修予定のAnalytical Methodsのテキストだ。彼は車を駆ってカリフォルニアまで帰るという。
6月7日
カナダという国が、案外一番まともなのかもしれない。
アメリカはいささか狂っている。第一、人情がない。カナダの女性は人の気持ちを汲んでくれる。モントリオールでもハミルトンでもそうだった。フランス系の女性は小柄だし、フランス語をしゃべられるととても気持ちいい(何を言っているのか分からないけど)。フランスに行ってみたい気がする。
モントリオールでは英語とフランス語が半々。モントリオールのバスターミナルではフランス語でしかアナウンスしなかった。バーリントンでもフランス語をたくさん聞いた。
モントリオールの街角で、身なりのあまりよくない男に話しかけられた。「フランス語は分からない」というと、今度は英語で「25セント恵んでくれ」という。物乞いなんだ。カナダでは、物乞いですら2ヶ国語をしゃべる。
トロントは確かに美しい街だ。バスの中でウトウトして夜明けだなと思ったら、緑のなかに忽然と、まったく忽然と、白亜の大きなビルが浮かび上がってきた。キャスル・ブランと読めた。まことに嘘偽りなく、英仏混用の直截な命名で、ちょっと笑ってしまう。ハイウェイが流れるように街のなかに下っていく。
グレイハウンド・バスは、モントリオールからナイヤガラ・フォールまで、ときどき休憩を挿みながら昼夜徹して走り続けた。 私は6日の夜11時ごろトロイを出て、翌7日午後4時ごろ、ここハミルトンのホテルに着いた。
カナダのテレビ、アナウンサーの声。“The fabulous Sixtieth”と言っている。確かにそうだ。1960年代はすばらしい驚くべき10年だった。私にとっても、そうだった。9年間にわたる炭鉱技師の職を捨てて東京に出てきた。そして、思いもかけずアメリカに渡ることになり、いま、カナダのホテルにいる。
この60年代は、いま大きく転換しながら70年代へ突入しようとしている。フランスはパリ・カルチエラタンで、日本は東京・神田で、東大で、そしてアメリカでも、大学紛争にみられるように若者たちの精神は高揚し、社会は沸騰している。世界は大きく変わっていくだろうと予感させる。ちょうど、その転換期にアメリカで学ぶというのは幸運なことかもしれない。
夕食:5ドル50 チップ:50セント バス(ナイヤガラ→ハミルトン):2ドル50 レール:15セント
ナイヤガラは、滝よりも湖そのものに驚いた。まるで海だ。水平線の向こうに何も見えない。
6月8日
バッファローの税関では何もなかった。I-20で問題はなかったのだ。少しばかりクヨクヨして損した。
それにしても、ホテルに入ってウィスキーを氷で割って飲みながらテレビを観、いろいろと考えるのが楽しみとは、実に冴えない。
6月9日
カナダから帰る。
明日はデイブの部屋へ引っ越す。デイブは変わったやつだ。お母さんが焼いてくれたクッキーをいっぱい大事にとっており、ときどき出して食っている。たまに私にもくれる、たしかに美味い。
明後日は、NYCに遊びに行く予定。
――NYCマンハッタンは大好きな街だ。オルバニーからバスで3時間、バスターミナル近く42番通りの安ホテルに1泊する。夕食は街へ出て、大きな焼いたジャガイモを添えたボーンステーキに、コーラをつけて1ドル95セント。
東京に帰ったような、実にゆったりとした気分になる。いろんな毛色の、いろんな肌の色の、いろんな服装の、実にさまざまな人がごった返すように街を歩いている。誰が外国人やら、アメリカ人やら分からなし、誰も気にかけない。現に、私に道を尋ねる人がいたりする――
6月10日
夏学期が始まるまで、何もすることがない。ただ、時の過ぎるのを待たねばならないのはつらい。動きまわれば金がかかる。それでも時は過ぎる。暑い、暑い時が。87度。
暑い、まったく暑い。やりきれない。外の方が涼しそうだ。
車がなくて、スーパーまで買い物をして、往復1時間はかかる。
やることがないから、もう寝るか。
6月11日
アメリカに来て、京都案内を読む――その心は何か。
美しいと思うか――思う。けれど、アメリカにはまた違った美しさがある。特に、自然が。
アメリカ人は歴史的なものを一生懸命残そうとしている。気持ちは分かる。ワシントンの博物館でもいろんなものを観たが、日本にはかなわない。
あの朝早く、中野さんと天竜寺に行った。若い女の子が母親と一緒に来ていた。訪れている人は、われわれだけだった。あれはいつだったか。秋だったか。
コンサルタント仲間はみんな、まだ仕事で走り回っているのだろうか。
友達に何人も手紙を書いたが、誰一人返事をくれない。
あれはどこだったか――そうだ、九品仏の浄真寺だった。着物姿の美人がお参りしていた。
6月14日
こんな静かな夏の朝を一人で迎えると、まったく胸がふさがる思いがする。日本の田舎の夏の朝を思い出す。
明日から夏学期が始まるから、また勉強、勉強だ。今日は割合と涼しい。
6月18日
考えてみると、気楽な生活かもしれない。一日2時間(月曜〜木曜、8:30〜10:30)クラスに出て、あとはどう過ごそうと自分の勝手だから(もちろん、膨大なホームワークはあるが)、これくらい気楽な生活はない。とにかく、自分で自分の知識を増やすことだけを心掛ければいいのだから、何の煩わしさもない。
今日はボブが勝手に転がり込んでいるΠΣΚフラタニティ・ハウスで、ステーキ・ディナー。ビル(前とは別人)とロンと、4人。
このハウスは、実に雑然としている。トイレは、小はもちろん、大も間に仕切りがない。安いのは当たり前だ。学部の連中が住むのはこんなものらしい。スイカを食べながら、タネをあたりかまわずまき散らす。ちっとも落着けない。BARHが高いのもうなずける気がする。
それでもUndergraduate(学部学生)の連中は誰も皆、Graduate(大学院生)に一目置いているように見える。我々4人とステーキを食べるとき、おとなしくしている。連中同士なら騒ぐのだろうが。
6月25日
実に膨大なホームワーク(コース・プロジェクト)で、毎日、夜2時、3時になる。お陰で身体の調子がおかしくなってしまった。
毎日、夜になると、ボブ、ビル、それにロンが私の部屋に来る。皆でホームワークの問題を解く。
――つまり、このホームワークはプロジェクトになっており、われわれはそのプロジェクト・チームというわけだ。一つの課題を設定し、それを解くためのコンピュータ・プログラム(FORTRAN)を作成し、それを学内の大型コンピュータ室で流してもらい、そのアウトプットを提出する。われわれの設定した課題は輸送問題で、リニア・プログラミング(線形計画法)で解く――
共同研究といいながら、ビル以外はほとんど何もせず、私の組むプログラムが出来上がるのを待っているだけ。役立たずばかりだ。ただ、プログラムが組み上がると、パンチする仕事、コンピュータ室まで持っていく仕事、アウトプットを取りに行くこと、これだけは喜んでやってくれる――ここからコンピュータ室まで、同じ大学構内とはいえかなり距離があり、車を使う――。プロクラム・ミスがあって書き直さなければならないときも、上に同じ。
この前の20日(土)に、サラトガ湖へバーベキューに行った。久保、友澤一家(RPIドクターコース)と林先生(SUNYオルバニー校)と私。寒かった。帰って、久保さんの家でしゃべる。
今日はいささか精神的に動揺してしまった。サチからの手紙。昼寝をしていても夢ばかり見た。
陽王からの手紙が、私を勇気づけてくれた。
7月1日
どうも胃の調子がよくない。
昨日は林先生の帰国荷造りの手伝いに行った。
夜12時ごろ、久保宅より帰る。いささか酔っぱらってしまった。
今日はビルと一緒にロンのところへコース・プロジェクトの相談に行く。ロンはこの夏学期に3科目も履修しており、フーフーいっている。
帰り道、ホタルがきれいだった。
7月30日
昨日でAnalytical Methods も終わり。しんどいコースだった。プロジェクト課題も何とかうまくいったし、第2回テストでは私がトップだった。
昨日、プロジェクトの打ち上げパーティをやった。リカー・ショップで日本酒を見つけたので、買って来て皆に飲ませた。
「そのラベルに書いてある漢字は何と読むのか」と聞くから、「富貴(フウキ)」というと、皆大笑いする。一瞬、なぜみんなが笑うのか分からなかったが、どうも発音が「ファック」と似ていたかららしい。
「ノウ、ノウ、これは日本語で rich and noble を意味する」というと、またまた大笑いする。笑いが止まらない。まったくもう、何を考えているんだか、この連中は。
ボブとNYCへ遊びに行く、彼の車で。車はオンボロ中古のフォルクスワーゲン。
ボブ・オルミードはパラグアイからの留学生(イタリア系)。いままでで誰よりも親しくしてきたし、これからも一層、親しい友人になるだろう。父親は牧場主で、牧場の入り口から屋敷の玄関まで車で30分はかかるという。そういうところに住んでいるという。本当かどうか、どうも大言壮語の気味のある男だから、信用はできない。でも、愉快ないい男だ。
8月21日
この頃、少し日記を怠けている。
7月はAnalytical Methodsのコース・プロジェクトに追い廻されて、ほかに何も考える暇がなかった。土曜も日曜もなかった。
夏学期後半のOrganization Planning & Developmentがはじまってから、少し余裕がでてきたが、何しろあまり興味が持てない科目なので、面白くない。それに言葉の問題があり、Analytical Methodsのように数学的に進めればよいというわけにいかない。今日の中間テストは71点だった。このままいけば、おそらくグレードはCだろう。
残念なことだけど、そろそろ自分の限界を知ってもよい年頃ではないか。30代後半にさしかかる。確かに自分でできる。何でもできる自信はある、時間さえかければ。しかし、自分一人でどれだけのことができるか。若い才能を引き出し、それを借りることができるようでなければ。私はそうする自信はある。
40歳までは自分で勉強する。40過ぎたら、どんどん稼ぐ。稼ぐには人の力を借りなければならない。人が力を貸してくれる気になる、つまり喜んで私と一緒に仕事をしようと思ってくれるようになるにはどうしたらよいか。タスク・オリエンテッド・マネジャーとは、どのようなマネジャーだろうか。
8月31日
渡米250日、もう帰りたくなくなるかと思っていたが、やはりいつまでたっても帰りたい。サチに会いたい。結婚して10年近くもたてば、二人での生活以外に考えられないのだろう。さびしくて仕方ない。帰るまでに、まだ150日ある。少し暇なせいもあるだろう、こんなことを思うのは。だから忙しい方がよい。
この寮もこの頃は人が少なくなって(夏休みだから、当たり前)、非常に静かだ。大の男が(ボブと私)一心不乱にヨーヨーをして遊ぶとは何事か。
秋になって、涼しくなった。
楽しかったことばかり思い出す。家族で海水浴に行った時のこと、山を越えて百合ヶ丘へ行った時のこと。
もう、そんなことはいい。風が騒ぐように、俺の心も騒ぐ。
どうしたらいい?
寝るにしかず、と思って横になった。ぐっすりなんて寝られるわけはない。
・・・・・・
横になっているうちに、微妙な変化がきた。何を考えていたのだろう。禅のことか? 禅とは何か、私は全く知らない。
だんだん気持ちが落ち着いてきた。不思議な感懐に襲われる。静かな、静かな湖。どこだか知らない青い湖。
これは重大な転機かもしれないぞ。
・・・・・・・
今はもう、風がいくら騒いでも、心は騒がない。
やろう、という気がする。早くボブが帰ってくればよいのに、と思っている。
昔、一人のときよく旅に出た。オートバイを乗り廻した。その頃の気持ちと、二人になってから出張に出たときの気持ちと、どんなに違うか。そのことを考えてみた。それは、旅の目的が違うのだから、旅での思いが違ってくるのは当然だが、でもやはり妻子にとらわれているのではないか。早く家へ帰ろうと、そのことだけを考えて、自らの視野と行動範囲を狭め、楽しまない。
芭蕉はどんな気持ちで旅に出たのか。
見るもの、聞くもの、すべて新鮮な驚き、その喜びはまた格別なものであるはず。そのような喜びを味わうチャンスを与えられているのに、狭く閉じこもっている理由は何もない。
妻子のことをいくら思ってもせんないこと。それだけ時間のムダというものだ。
今日は時間のムダをした。10時半にクラスから帰って、いま5時半、何もしなかった。
しかし、これだけの気持ちの変化があった。これは何を意味するか(なんて、そんなに大げさに考えるものでもなかろう)。
3時間前はタイプの練習をしていても鬱々として楽しまず、ミスばかりしていた。
しかし、いま、どうしてこうも気が安らぎ、落ち着いていられるのか。
昔は、何もかも一挙に変えると気負って、小さな一つひとつの変化に気づかず、また元の木阿弥に返ってしまって、後退に後退を続けてきた俺だ。この歳になれば、それだけ知恵も付いているから、そこのところは承知している。
いくつになっても、ああ、これだな、と分かるものなのだろうか。
5ヶ月もある、のではない。貴重な5ヶ月だ。5ヶ月しかないと思え。
太陽はまだ夏のものだが、風はすでに秋を告げている。
喜びに幾種類あるか。一種類しかないものか。
あの、さびしいようなモントリオールへの道を、ハドソン川を右手に見ながら、バスに揺られて走るのは喜びではないのか。
道端の小さな花(寮からコンピュータ室への大学構内の道端にスミレ(?)の小さな花を見つけて立ち止まる)、何気ない女の子のしぐさ(左の頬に軽く指を添え、頭を一寸傾けてこちらをうかがう女の子の眼差し)、そういったものに限りない美しさを感じる。美しさを感じたら、それを大切にして、つきつめてみよ。俳句でも習ったらどうだ。
「百千の雪虫のなか左遷さる」
この句にひどく感銘を受けたことを今でも覚えている。雪虫の飛び交う薄暗い街灯の道を去って行く男の後ろ姿を、ありありと私は思い描くことができる(思い描くのは、後ろ姿でなければならぬ)。その背中は静かな怒りに満ちている。
怒りのなかでさえ、この人は俳句をよむことができる。私はこの句をどこで読んだのか、新聞への投句だったのか、作者が誰か覚えていないが、怒りをうたうことができるとは、すばらしいことじゃないか。
苦しみも楽しみもあと5カ月なのだから。
9月2日
ラジオからサイモン=ガーファンクルの歌が流れてくる。
「サウンド・オブ・サイレンス」 「ミセス・ロビンソン」 「ザ・ブリッジ・オーバー・トラブルド・ウォーター」 「エル・コンドル・パサ」
繰り返し、繰り返し、毎日のように流れてくる。どれもこれも大好きな歌だ。
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