トロイ 冬から春へ (1970/02/13〜05/29)
――ワシントンDCでの英語研修を終え、ニューヨーク州トロイのRPI(Rensselaer Polytechnic Institute レンセラー工科大学)へ移動する。ワシントンからニューヨークに飛び、マンハッタンで、日本でお世話になったジャッフェ博士に会った。1泊したのち、グランド・セントラル駅からオルバニーまで列車に乗り、オルバニーからはタクシーで、RPIに着いた――
2月13日(金) 晴、寒い
一昨昨日、RPI到着初日に、まずハウジング・オフィスに出向いた。ディレクターは女性で
「よく来ました。大丈夫でしたか?」
「はい、ここまでは」
といったら、面白そうに笑われた。
本当にそうだ。これからが大変だ。
――School of Management(経営大学院)で、1年間の予定で学ぶ。この大学は1824年創立の理工系大学で、かつてはMIT(マサチューセッツ工科大)と覇を競ったというが、軍学共同研究を拒否したために、遅れをとってしまったという。本当かどうか知らない。
この大学に経営学関係の学部はない。大学院のみである。したがって、さまざまな学部のバックグランドをもった学生が、さまざまな大学から進学してくる。それも大半は社会人か、その経験者である。
単位制で所要単位を取得すればよく、修士論文は要求されない。朝8時から夜6時まで、昼休みもおかまいなく、のべつ幕なしに授業があり、それだけに開講コマ数は多く、選択の幅は広い。1コマの授業時間は50分である。春、秋、冬の3学期制だが、夏学期もあり、これを利用すれば1年で修士号、MS(Master of Science)を取得することも可能である――
2月13日(続き)
今日はRPIに入って初めての日曜日だ。いま、学生寮BARHにいる。2人部屋で、隣の部屋との間にトイレとシャワー室があり、両方の部屋から使える。廊下の向いに、2部屋共用の自習室がある。つまり、4人が毎日顔を合わせるわけだ。
ルームメートとなるべき人はまだ来ない。知った人は一人もいない。一人ぼっち。
2月15日(日) 雪、寒い
一体、何をしにアメリカまで来たのか。
私に何ができるか。新しい環境に入ったとき、いつもそうであったように、今も同じ問題を抱えている。田舎から上京して東京で大学生活を始めたとき、炭鉱会社を辞めてコンサルタントになろうとしたとき、私はどうだったのか。
コンプレックスを抱えて、新しい環境になじむのは何と難しいことか。しかも、今回はこの歳だ。新しい環境に入るときは、いつもコンプレックスを抱えている。当たり前だよ、いままでやったことのないことをやろうとするんだから。
やけに雪が降る。景色も何も北海道そっくりだ。
勉強ばかりしていても仕方がない。では、どうするか。何ができるか。
何もできない。いままでチャンスがありながら、やらなかったことをここでやれといわれてもできるはずがない。
こう雪が降っては、寒くて外に出られない。
どうなるんだろう、どうかなってしまうんじゃないか、と心配ばかりしてきたが、渡米以来、何とかなってここまで来た。放り出されはしなかった。
でも、今の悩みが一番大きいような気がする。それは、いつもそうだ。振り返ってみれば、それほどでもなかったということに、いつもなる。
慣れるのを待つ。必ず慣れる。
3月22日(日) 曇
昨夜、子供たちの夢をみた。今日は一日ホームシック。
金曜日の夜はしたたか飲んだ。はじめに部屋で4人で、それから寮のパーティで。15〜6日ぶりに酒を飲んだ。パーティでインド人学生と仲良くなった。彼は、私以上にシャイだが、英語はよくしゃべる。
RPIへ来てから全く日本語を話す機会がない。――日本人学生が一人もいない――いいことだ。日本語を忘れてしまえば、英語を話すしかなくなる。
そういえば、あの「ミス・ワッツの家」で一緒だった韓国人の学生はどうしているだろう。彼の英語も私とおっつかっつだったが、34歳にもなって、中学教師の職を辞めてアメリカまで来た。働きながら学び、PhDをとるつもりだという。
それに比べたら、俺の境涯などやさしいものだ。
たくさんの、いろいろな人がいる。
少しは慣れたか?
イミグレーションの問題も解決したし、日本にいたときにもやったことのないキーパンチやプログラミングも何とかなった。ただし、タイピングはもっともっと練習しなければならぬ。
――コンピュータ・プログラムは、まずコーディング用紙に書いたものをIBMカードにパンチする。学内に穿孔室があって何台もの穿孔機があり、24時間開いている。そこで自分でパンチする。僅か数十枚のカードをパンチするのにも時間がかかり、パンチし終えて後を見ると、いつも何人もの学生が行列を作って待っている、という具合だった。
穿孔室の係いわく「人が少ない時を見計らって、つまり、夕食の時間帯とか、早朝に来るのがいいでしょう」。それには違いない――
あの夜、エリックは酔っ払って寝てしまった。徹底的に飲んだらしい。前後不覚のありさま。隣室のビルもひどかった。人間というものは、日本人もアメリカ人も同じだ。
エリック・クリステンセンは私のルームメート。北欧系で非常に長身。数学でPhD(博士号)をめざしている。すごい勉強家で、食事とトイレ以外はいつも机に向かっている。
ここから車で2時間ほどのところに自宅があり、奥さんと子供が2人いる。いつも金曜日の夜、奥さんのところに帰り、日曜日の夜あるいは月曜日の朝、寮に帰ってくる。だから、週末いつも私は一人だ。
4月10日(火)
岸田純之助「行きづまっているという感覚が大切。行きづまっているという感覚が出てきたときには、必ずそれを解決する芽がどこかに出ている。その芽を見落とさないように見つけ出す。どうしても見つけられなければ、極限状態を作り出し、そこですべての材料を見直す。そこから必要な芽を自分自身で発見する。」
4月17日(火)
どうしてよいか、本当のところ分からない。迷っている。
いい成績がとれそうもない。留学期間をもう少し延ばせばマスター(MS)はとれるかもしれないが、早く帰りたい気持ちも強い。マスターをめざさないなら、こんな調子で勉強ばかりするのはばかばかしい。
ラウックス教授とスミス教授のところへ出向いた。
ラウックス教授は私の個人チューター。スミス教授のFinancial Planning(財務計画論)がうまくいきそうにない。会計用語が全く分からない。そりゃそうだ、いままで日本でも会計の勉強をしたことがないのだから。Accounting(簿記会計)を先にとってから、この科目に挑戦すべきなのに、選択を誤った。
教授たちの言うことはどこでも同じこと。予想通りのことしか言わない。「くじけるな、頑張れ」
あれは、まだ雪の深い日だった。何となくさびしくて、一人で1泊旅行に出た。
ブリッジポートからボストン行きのグレイハウンド・バスに乗った。隣にヒッピースタイルの青年が乗っていた。面白い男だった。彼と1時間以上も宗教のこと、ヒッピーのこと、ドラッグのことなど話し合った。彼は、私が日本人と知って、Zen(禅)について、Meditation(瞑想)について知りたがったが、それらについて全く知識のない私には答えることができなかった。英語がうまくしゃべれないせいもあるが。
彼はバスを降りると、大きなリュックを背負って、雪の舞うボストンの街を港の方に向けて消えて行った。
肥後さんは、今頃は家に帰って奥さんに会っていることだろう。彼とはもう会う機会はないかもしれない。何といっても喜界島は遠すぎる。俊寛だって流されたところだから、といったら彼は怒るだろうか。
缶ビール6本パック 1ドル23セント
ジョニーウォーカー 4/5クォート 7ドル
5月3日
学長招待による留学生歓迎レセプション。学長宅。
5月6日
ケント州立大学で学生が4人、警官隊に殺された。
これに抗議して、RPIでも学生たちが全学ストライキに突入、構内中心部にある学生会館(このなかに学生食堂もある)を占拠。また1,500人の学生が殺されたケント大の学生を悼んでろうそくデモを行う。
間もなく期末試験というのに、学内は大混乱。
5月8日
占拠された学生会館周辺に集まった3,000人の学生を前に、理事長がスピーチ。学生たちは2日2晩にわたった封鎖を解き、ストライキは解除。 理事長スピーチに簡単に納得するところなど、やっぱりお坊ちゃま・お嬢様大学なのかな?!(世間では、そういっているらしい。)
*****
RPI の公式学内誌 “RPI ThisWeek”(May 11, 1970)から抜粋
――春学期の成績評価について(副理事長・学長声明)――
現今の世界情勢に深い関心をもつ学生は、これ以降の授業から退きたい(withdraw)と考えているかもしれない。しかし、そうすることは現行制度の上では引き続き学業を続ける上で大きな障害を抱えることになる。 このことについて、本学理事会は次のような方針を決定した。
今まで通り学業に専念したい学生はそれを続けていけばよいが、現時点で授業から退いて外部活動に参加したいという学生には、そうする自由が与えられる。全レンセラー学生は、各自の権利と責任において、このどちらを選択するかを決めなければならない。
この時点で授業から退きたいという選択をした学生は、その旨担当教員に申し出ること。この場合、成績評価については、次のいずれかを選ぶことになる。
1. 通常のグレード評価(A, B, Cまたは F)を、担当教師の裁量によって得る
2. P(pass)のグレードを担当教師の裁量によって得る
3. 暫定的な評価であるグレードVを得る
この成績評価は、学生のQPA(Quality Point Average)および奨学金資格に、いかなる形においても影響しない。V評価は、現時点では通常評価を得られそうもない者、あるいは不十分と認められる者が該当する。このような学生は、次学期にその科目を再び履修し、通常の評価グレードに変換することができる。
(注)ここでQPAというのは、取得した通常のグレード評価値A、B、Cそれぞれに与えられた点数(正確なことは忘れたが、例えばA=5 B=3 C=1 として、自分の取得科目全部の平均を計算する。このQPAが3.5以下の場合は、たとえ卒業所要単位数を満たしていても卒業できない。ということは、オールBであっても卒業できないことになる。つまり、何科目かは必ずグレードAを得なければならない。
ついでに、徴収される授業料についていえば、基本料のほかに届出単位数にスライドする部分があり、これがかなり大きなウエートを占める。「鉄砲も数撃ちゃ当たる」式に履修届を出し、ダメなら捨てるというやり方(日本の大学生に多い)では、授業料は莫大なものになる。したがって、学生は常にギリギリの履修届を出し、届け出た科目は何としても単位取得しようと努力する。
この授業料徴収システムと、先ほどのQPA制度によって、学生たちは勉強に追いまくられ、「点取り虫」になる。
*****
5月14日
Data Processing(データ処理=プログラミング)は、期末テストを受けないことにした。
この科目は学部・大学院共通科目。毎週、プログラム作りの膨大な宿題。
――用紙にコーディングし、これをIBMカードにパンチし、そのカードデックをコンピュータ室に持参して大型コンピュータにかけてもらう。4時間後にラインプリンターからの出力を受け取りに行く。 プログラムに誤りがあれば、作り直して再度機械にかけてもらう。また取りに行く。コンピュータ室は24時間体制で、夜中でもやってくれるのはありがたいが、とても時間をとられる。
こうしてできあがったプログラムのアウトプットを、次週の授業のとき提出する――
このData Processingの、今期限りの成績評価方法が決まった。いままでの宿題を9割以上提出した者は、以後授業に出る必要はなく、また期末試験を受けなくても、その宿題のグレード平均をそのまま科目のグレードとする。
私は、いままでの宿題だけでグレードAになる見込みだから、以後授業に出ず、試験も受けない。これも学園騒動で今季限りの評価方法がとられたおかげだ。ラッキー。
――宿題提出数が基準に満たない者は引き続き授業に出席し、期末試験を受ける。また基準を満たす者でも、その評価に不満足で、それ以上のグレードが欲しい人は試験を受けることができる――
5月15日
1週間経つのがやけに早い。にもかかわらず、なかなか帰国するまで実に長い気がする。
ほぼ5カ月がたったが、その間自分にはどんな気持ちの変化があったか。
ワシントンにいた1ヶ月余りは無我夢中で、あまり帰りたいとは思わなかった。肥後さんが、日本に帰りたい、日本食が食べたい、とそんなことを話すのが情けないような気がしていた。ただものすごく緊張していたことは間違いない。
でも、トロイに来てから間もなくホームシックにかかってしまった。2か月から3カ月目にかけて、また更に輪をかけても猛烈なホームシック。
現在はどうか?
帰りたいという気持ちに変わりはない。でも、欲も得もなく帰りたいとは思わない。何かをつかんでからでないと帰れない気もする。
先日の大学紛争のとき、全米でストが荒れ狂い、長引けば、それを幸いに帰れるかもしれないとつまらないことを考えたが、同時にそれでは何のために今まで5カ月も苦労したのかと思う。
愛のない生活は暗闇だ。
愛してくれる人、愛することのできる人がそばにいることは、人間にとってとても大切なことだ。結婚している人はほとんど、あとから奥さんを呼び寄せている。石井、奥田、神谷、みんなニューヨーク州立大学(SUNY)オルバニー校の客員教授だが、奥さんと一緒に暮らしている。
ここRPIに最近来た私以外ではじめての日本人である久保さんはドクター・コースの学生だが、奥さんと一緒に妻帯者用の学生寮に住んでいる。私は、大学に妻帯者用の寮があるとは知らなかった。
先週土曜日、石井博士と息子のアキラ君と3人でアディロンダック――米国東部のアパラチア山脈の一部――へ石井さんの運転でドライブした。
途中、道に迷い、石井さんが道を聞いてきてくれというので、通りがかりの人に聞いてきて教えたら、石井さんが「言うことがよく分かりましたね」というから、びっくりしてしまった。
「だって、先生はSUNYで教えているんでしょう?」
というと、
「私の講義は簡単なものですよ。“We have”さえ知っていれば数学の講義はできます」――彼は数学の教師である――
「“We have the equation・・・・”といって、数式を黒板に書けばいいんですから」
ますます驚く。
「でも、質問があったら、どうするんですか」
「その時は、前に出てそれを黒板に書くよう指示する。大概は数式についての疑問ですから、英語はほとんど必要ありません」
そうこうしているうちに、雨が降ってきたので、早々に退散。
石井家に帰っても奥さんが風邪で寝込んでいるので、奥田家にまわる。もう7時を過ぎていたが、3人で酒盛り。その晩は奥田家に泊めてもらい、翌朝、寮に帰る。
エリックと酒を飲みながら、宗教論争になった。彼は熱心なカトリック教徒。
二人とも酔っぱらってきて、話がだんだんずれてくる。
エリック「ビルもチャーリーも――二人とも隣室の者で、私たちと自習室を共用している――、マーガリンを買ってきてやっても金を払わない。パーティやっても、この間はビールに9ドル13セントもかかったのに、知らん顔している。俺はそんなに飲まないと。彼らはいい男だと思うが、俺は嫌いだ。我々(エリックと私)はmarried man(既婚者)だから、彼らとは考え方が違うよね。」
と、まるで日本で結婚した男同士が独身の男のことを話すのと同じようなことをいう。
ビルはベトナム帰りで、左腕を負傷したらしく、毎日、腕に重りを吊って上げ下げし、リハビリテーションに励んでいる。
チャーリーは、雑誌などにアンケートや試供品提供の折込み無料ハガキがあると、それに必ず応募する。
93度から、今は60度に急降下。ひどい気候だ。
5月22日
3科目とも何とかなりそうで、少し落ち着いている。
サチから1カ月ぶりで手紙が来た。
とにかく、今までよく努力した。10年前にこれだけやっていれば、今頃はPhD だ。
それじゃ、お父さんのことを話しよう。
なぜ、お前がそのようなことを考えるのか。それに全生命を賭けるのか。それならよい。それなら、そのなかからお前は何かをつかむことができる。しかし、それで生活が気楽にやれるとは限らないよ。金がない、学歴も名誉もないというのは、気楽にやることを放棄することだよ。
お父さんは、学生時代に何もしなかった。本当に何もしなかった、悔しい位。あらぬことを夢想して、酒を飲むことを覚えたばかりだ。それでも夢だけは捨てなかった。
高校時代、耕平という親友がいた。彼が、お父さんが大学を卒業して北海道に行くというと、
「君だから、できる。僕にはとても思っただけでも気が遠くなる」
といった。今から考えると、当時、北海道へ行くというのは、海外へ出るくらいの感覚だったのだろう。これは、耕平だけではない。故郷の分家の大叔母は、私が北海道へ行くといったら、水杯をしなければ、といって泣いた。
耕平は大学を卒業して故郷に帰り、高校教師になった。
夢をみて北海道に渡って、1年間は嫌で仕方がなかった。帰りたかった。それでも9年間もいた。そこがまたお父さんの弱いところだ。1年で飛び出せばよかった。
では、今はどうしているか。
今は一生懸命にやっている、同期生より10年も遅れて。何のために?
お前やジュンのために?――NO。 お前のお母さんのために?――そうかもしれない。お前のお母さんとお父さん自身のために。
お前は自分で自分の面倒をみなければならない。若い時にはただひたすら勉強しなければいけない。何でもよい。決めたことをひたすらに第一級のレベルに到達するまで、やり抜かねばならない。
5月23日
お父さんがアメリカにいた頃、帰りたくて、帰りたくてたまらなくなることがよくあった。何もかもやめて、お前たちのところに飛んで帰りたかった。
朝、眼が覚めたとき、ああここはアメリカだった、日本ではないと思って、朝が一番いやだった。でも、エリックがいるウィークデイはまだよかった。というのは、そんなことをいっていられないから。ウィークエンドは一人だから、本当に嫌だった。夜、これから寝ようとする時が一番よかった。でも、がまんした。ウィスキーもよく飲んだ。
お父さんの一生はとても変な具合に進んできた。何か力があるとは思うが、それが自分でも分からないで来てしまった。今でも分かっていないのだろう。
何もかもあきらめてしまえば、人に頭を下げていきさえすれば、それでも生きていけるわけだ。やはり何かが欲しいので、あまり得にもならない苦労をしている。クリスマスも花見も、みんなあきらめて。
5月29日
今日はウィングCのお別れパーティ。
――この学生寮BARHは、食堂を中心にして十字型に四方に広がっており、それぞれをウィングA、B、C、Dと呼び、学部学生、大学院生、女子学生に分かれている。ウィングCは男子院生のウィングである――
春学期もようやく終る。
お別れパーティは、食堂でステーキとビール。女の子はオフリミットのはずなのに、だんだん寄ってくる。院生を彼氏にもつ子もいる。日本の女の子とはやはり感覚が違う。
エリックとビルはまだ帰ってこない。チャーリーはちゃんと出ているのに。日本人にも同じようなのがいるが、それが面白い。コーラではしゃいでいるのもいるし。
ラジオから歌が流れてくる。
Which way you’re going, Billy ?
Can I go with you?
・・・・・・
Everything is beautiful.
Everybody is beautiful.
・・・・・・
――いま、ネットで検索してみると、前者の歌は正しくは Which way you goin' Billy ? で、The Poppy Family が歌っている。The Poppy Familyというのは、1960年代の終わりから70年代初めにかけて活躍した、カナダのポップミュージック・グループとのこと。
後者の歌は、アメリカのカントリー・ミュージックなどのシンガー・ソングライターであるRay Stevens のゴスペル風の歌である。
いずれも、いま聞いても心を揺さぶられ、当時を思い出させてくれるいい歌である――
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