留学日記1
ワシントンDC 冬 (1970/01/12〜02/04)

――1969年12月24日夕方、クリスマス・イブ。私の乗ったノースウエスト機はワシントンDCのダラス国際空港に着陸した。その直前に上空からみた48州を表すクリスマス・ツリーのイルミネーションがすばらしくきれいだった。
生まれてはじめて踏んだ海外の地、ここワシントンでこれから約1ヶ月、英語学校に通い、英語のブラッシュアップである――

1月12日(月) 曇
先週から英語学校の授業が始まった。住まいは、「ミス・ワッツの家」に寄宿している。ここから毎日、冬の凍てついた道を歩いて10分ほどの学校へ通う。
――「ミス・ワッツの家」というのは、ワシントン英語学校の生徒を寄宿させる個人経営の寮で、賄い付きである――

アメリカ生活の困惑は、早くも渡米時のノースウエスト機のなかで始まった。
機内で、よほど頼りなさそうな風情にみえたのだろう、スチュワーデスに「今夜はどこに泊るのか」と聞かれた。「ヒルトン・ホテルだ」というと、スチュワーデスの説明がはじまったが、どうもよく飲み込めない。どうやらヒルトンは1つだけではないらしい。
旅行会社でもらった予約券を見せて、確認した。危ないところだった。空港からタクシーを拾おうと思っていたから、タクシー・ドライバーとひと騒動あるところだった。
無事には着いたが、その時乗ったタクシーはひどいものだった。ドアがちゃんと閉まらない。運転手は、足で蹴飛ばして閉めていた。

英語学校では、入学時クラス編入試験があった。英文法ができ、単語もいくらか知っていたので、話すことはあまりできないのに、最上級クラスに編入されてしまった。

1月31日(土) 晴
一日中、寄宿先の「ミス・ワッツの家」の一室に閉じ籠る。 英語学校修了のペーパー原稿を書く。タイトルは、もっともらしく「意思決定のツールとしてのコンピュータ」。
ミスター・エレメンドルフ(英語学校の担任教師)に聞かれた。「コンピュータは今でもとても速く計算ができるのに、どうしてまだまだ速くならなければならないのか」そりゃそうだ。私たちが使っているタイガー計算機や電卓とは違って、コンピュータははるかに早く計算ができる。
私は、答に窮してしまった。コンピュータ=計算機とはいっても電卓とは違うと、「意思決定のツール」としての計算機をペーパーに書こうとしている者としても、私は、ペーパーを見てくださいというしかなかった。英語がうまくしゃべれないせいである。

手紙を2通書く。サチと勤務先大学の楢崎氏宛。
2月から留学予定のレンセレア工科大学(ニューヨーク州トロイ)から手紙が来て、学費の納入を2月中旬まで猶予すること、またキャンパス内の学生寮に寄宿すること、この2つを許可するとのこと。春学期4ヶ月間の寮費300ドル、食費312ドル、計612ドル送金のお願いを楢崎氏に書く――私は大学派遣の給費生で、許される留学期間は1年。修士号取得は義務づけられていない――
4ヶ月計612ドルは、月当たり153ドルとなる。ここ「ミス・ワッツの家」が月当たり120ドルだから、これに比べると、かなり高い。でも、週当たり20食というのはいい。きっと部屋もここより快適に違いない。

肥後さんは、週末休みでヴァージニアのお姉さんの家に行ってしまった。私も彼と一緒に行く予定だったのに、授業が終わるのがいつになく大幅に遅れ、予定のバスに遅れてしまった。彼は一人で行ってしまった。
先週の日曜日には、私も連れて行ってもらった。肥後さんはお姉さんと会った途端、いきなり二人は奄美方言で話しだした。私はさぞかしポカンとした顔をしていたのだろう、お姉さんの旦那が、この人はアメリカ人だが、
「君は理解できないのか」と聞く。
「まったく理解できない。英語の方がもう少しよく理解できる」
彼と私は顔を見合わせ、笑うしかない。

2月1日(日) 晴
ミス・ワッツに連れられて教会へ行く。マウント・ヴェルモン統一メソジスト教会。
彼女は自分の気に入った生徒しか連れて行かない。私は気に入られている一人だ。日本の人は珍しいから、必ず話しかけられる。「あなたの宗教は?と聞かれたら、何と答えるか?」と、行く前にミス・ワッツに聞かれたから、「信じる宗教はない」といったら、「それはよくない。私は仏教徒です、といいなさい」という(教会では、無信心な者は信用されない)。それで、そういうことにしておいた。
参会者のなかに黒人は一人もいなかった。
そのあと、中華料理店に連れて行ってご馳走してくれた。美味。

肥後さんの部屋で、日本語でしゃべりながら酒を飲む。学校には、彼のほかに日本人はいない。日本語でしゃべるのはあまりよいことではないが、これが二人にとって唯一の楽しみなのだから、仕方ない。

2月3日(火) 風雪強く、非常に寒い
ミスター・ジャクソンにいわれた。「ツネオ、もっと大きな声で、クリアに話せ」と。「自信をもってしゃべれ」。
確かにそうだ、と思う。と思うが、英語では頭がごちゃごちゃでクリアでないのだから、そう易々とクリアには話せない。クリアに話そうとすると、子供言葉になってしまう。
渡米以来、すでに5週間が過ぎたのに、話す英語はさっぱり進歩しない。私は聴覚が劣る。小学校以来、音楽で「優」をもらったことがない。

修了ペーパーを書きあげるために、中央図書館に行く。その帰り、アメリカに来てから初めて理髪する。カットのみで、わずか15分で終わる。料金2ドル50セント。

2月4日(水) 晴、非常に寒い
学校で1時限授業の後、ミスター・エレメンドルフと級友たちとでキャピトル(国会議事堂)に見学に行く。上院で委員会が開かれていた。議場が意外と狭く、古めかしいのに驚いた。
道路が渋滞した。「この渋滞を解消するにはどうしたらいい?」とミスター・エレメンドルフがきく。誰かが、このペンシルベニア通りをホワイトハウスの地下にまっすぐ伸ばして突き抜ければよいといったので、皆大笑いした。

その帰り道、ミスター・エレメンドルフに留学予定先のRPI(Rensselaer Polytechnic Institute レンセラー工科大学)のことを話し、推薦状を書いてくれるように頼んだ。彼は、快く引き受けてくれた。
「君の英語の書き能力はすばらしいが、話すことにためらいが過ぎる。きっと、私やクラスメートたちが話し過ぎるからだろう」といった。
確かに、私のクラスメートたちは、中東や中南米から来た若者(10代から20代前半まで)が多いが、実によくしゃべる。英文法や発音などでたらめといった方がいいくらいだが、しゃべることにかけては決して人に負けまいとしゃべりまくる。日本人の私は、情けないことに、彼らがしゃべるのをただ黙って聞くだけになってしまう。年齢の違いがあることも事実だが。
「私は授業に出るのが楽しみだった。授業で失望することは何もなかった。感謝している」と、私は言った。

本当にそう思う。ミスター・エレメンドルフは実に興味深い人だ。クエーカー教徒とのこと。感受性豊かであり、人間的だ。どんなタイプの人間であろうと、思いやりと共感をもって接する。すばらしい人間だ。
サイモン=ガーファンクルやジョニー・キャッシュのレコードをかけ、歌詞を暗唱してくるよう強要した。クラスの中で、みんなで歌い、隣のクラスからよく文句が出た。

すばらしい人間だが、でも私とは対極にある性格だ。彼の講義とディスカッションのリードは、しばしば横道にそれ、終いには始まったところとはまるで遠くずれてしまう。しかも彼は、自分のクラスを自分で実に楽しんでいる。まことに、ナイス・ガイだ。

ミスター・エレメンドルフは推薦状を書いてくれるとき、Rensselaer の綴りについて何度も私に尋ね、ややこしいと文句を言った。――Rensselaerは、RPIの創立者の名前であり、また大学の所在するニューヨーク州の一郡の名である――

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