暦日問題

江戸時代の暦日に関する一つの問題


 筆者は、「福山城博物館友の会」古文書部会の仲間とともに十数年来、江戸期福山藩の家老であった下宮家文書の解読に励んでいます。以下は、その成果の一部を利用させていただいて、諸行事の行われた日付・時刻など時間的な経緯を中心に、筆者なりの考察を加えてみました。

1.婚礼祝儀の日時
(1) 下宮三郎右衛門直廉婚式の例(文化7年)
 文書の一つに、「御婚礼御仕組」とタイトルされた文書があります(文書番号1323)。
 この文書は、下宮家第11代三郎右衛門直廉の婚式の例で、表紙に日付はありませんが、文化7年(1810)であることは間違いありません。直廉は7年前に前妻を亡くしており、再婚、28歳。
 「仕組」とありますが、挙式後に書かれたと思われる付紙が所々につけられており、実際にもほぼこの通りに行われたと思われます。

 このときの日時に関する記述のみ列挙します。
 十一月十五日
  朝六時、御結納目録持参
  朝六半時、御道具被進候事
  九半時、女中弐人御先江差遣候事
  酉之上刻、御輿入之事(この時下宮家玄関では台提灯点灯している)
 十一月十八日
  朝五半時、御三ツ目御祝式
 十一月二十二日
  御五ツ目祝式(時刻の記載なし)

(2) 下宮盛三郎婚式の例(文政7年)
「文政七甲申年 御婚礼御仕組帳 十二月吉日」とタイトルされた文書に、下宮盛三郎婚式の例があります。(文書番号1344)
 のちに下宮家第12代三郎右衛門直昌となる盛三郎(18歳)の結婚について、これも前書(文書1323)同様、その結納の手順から輿入の諸道具、行列、そして婚礼、祝宴の手順、料理膳の数々、そして婚礼後の三ツ目祝式、五ツ目祝式に至るまで詳細に記述したものです。

  前書同様、日時に関する記述のみ列挙します。
 十二月九日
  正六半時、御結納御到来之事
  正五時、御道具被進候事
  四時、女中壱人御先江被遣候事
  午之中刻、御輿入之事
 このあと 御婚礼御規式(時刻の記載はない)
 十二月十一日
  朝五半時 御三ツ目御祝式
十二月十三日
  御五ツ目御祝式(時刻の記載はない)

  
2.婚式
 三々九度御盃は、御輿入れ後間もなく、しばらく休息して行われています。輿入れは、(1) の直廉の例では「酉之上刻」、現代でいえば午後5時過ぎです。つまり、夕暮時です。
 一方、(2)盛三郎の例では「午之中刻」、つまり現代でいえば昼の正午頃です。

 天保14年(1843)に刊行された『貞丈雑記』によると、
「男は陽なり、女は陰なり。昼は陽なり、夜は陰なり。女を迎うる祝儀なる故、夜を用いるなり。・・・・・しかるに今大名などの婚礼専ら午の中刻などを用いる事、古法にそむきたる事なり。」
 とあります。
 ここで取り上げた二つの婚式は、直廉の例が文化7年(1810)、盛三郎の例が文政7年(1824)、この間14年の隔たりがありますが、前者が夕刻に始まっているのに対し、後者は午の中刻、まさに『貞丈雑記』でいうところの「古風にそむきたる」時刻に行われています。
 当時、この14年間に世の慣習が大きく変化したのか、あるいは下宮家の例が特殊な事情にあったのか、定かにすべき何ものもありませんが、興味ある事実ではあります。
 また、このことが本論のテーマである日付の数え方に関連していると思われ、一層興味を引きます。

       
3.三ツ目・五ツ目祝式
 次に、「御三ツ目御祝式」および「御五ツ目御祝式」の日付について考察します。
 三ツ目とは「婚礼または誕生から三日目にあたること。また、その祝事。(広辞苑)」とあります。五ツ目は、この類推からいけば「婚礼または誕生から五日目にあたる」ことになります。
 上に取り上げた(2)盛三郎婚式の例(文書1344)では、三ツ目祝式は婚礼のあった12月9日から数えて(当日も含めて)、確かに3日目にあたる12月11日に行われ、五ツ目祝式は5日目にあたる12月13日に行われています。

 この日数の数え方に注意してください。当日も含めて3日後が、「3日目」にあたるのです。これは年齢の数え歳の数え方と同じで、法事の三回忌、七回忌などの数え方とも合致します。

 ところが、前記(1) 11代三郎右衛門直廉の婚礼の例は、これに反するようにみえます。
 この場合、婚式は11月15日でした。ところが、三ツ目祝式は4日後の11月18日、五ツ目祝式は18日(三ツ目祝式)から数えて5日目の11月22日に行われているのです。
 五ツ目祝式が、盛三郎婚礼の場合は婚式から数えて5日目、直廉の場合は三ツ目祝式から数えて5日目(婚式から数えれば8日目)となっているのです。なぜそうなのか、今のところ筆者には分かりません。

 次に、三ツ目祝式の日程の違いについて考えてみましょう。
 盛三郎の婚式が「午之中刻」、つまり今でいう正午ころ始まったのに対し、直廉の場合は「酉之上刻」、夕方から始まっていることがこの違いとなって現れているのではないか。これは、一日の始まりをどう考えるかによるのではないか、と筆者は考えました。

 一日の始まりを深夜0時とする現代の私たちからすれば、直廉の[三ツ目祝式」が婚式から数えて4日目になってしまいますが、もし一日の終わりが「日の入り」である、つまりそこが翌日の始まりであるとすると、夕方から行われる婚式は翌日にかかってしまうことになり、直廉の場合の「三つ目祝式」は11月15日ではなく、16日から数えて3日目、すなわち、18日に行われるべき、ということになるでしょう。

4.一日の始まり
 そこで、国立天文台歴計算室のホームページに依りながら、この問題を考えてみましょう。
「日常生活では昼に日付が変わっては不便ですので、正子(子の正刻=午後12時=午前0時:真夜中)から正子までを1日とします。これが常用時または市民時であり、真夜中に日付が変わる、普段使っている時刻です。」
しかし、その外の考え方もあるといいます。天文台歴計算室の説明を聞いてみましょう。
 *日の出・夜明
  太陽が再生する日の出を一日の始まりと考えることは多いと思います。
  江戸時代でも暦の上では正子から一日が始まることになっていましたが、
  人々の意識の上では明六ツ(夜明)が一日の始まりと考えられていたようです。
  *日の入り
  夕方にみえる三日月状の細い月を新月としていると、
  必然的に日の入りが一日の始まり・一ヵ月の始まりになります。
  夕方から始まるので、例えばクリスマス・イブとクリスマスの朝は同じ日になります。
  現在でもイスラム歴やユダヤ歴では日の入りを基準としています。

 この「日の入り」説に従えば、直廉の場合、婚式の終わるのは11月16日となり、それから数えて3日目、18日に「三ツ目祝式」が行われたことになり、矛盾はありません。
 ただ、当時の下宮家関係の人たちがそう考えていたかどうか確証はありません。歴計算室の説明にあったように、当時の人々の意識としては明け六ツが1日の始まりと考える人が多かったということですから。
 「夜遅くなるから、三ツ目祝式は一日延ばそうか」といっただけのことだったかもしれません。
 あるいは、三日目に当たる11月17日が「日が悪い」、たとえば仏滅なので一日延ばしたのかもしれない(当時、そうした習慣があったのかどうか分かりませんが)と思い、調べてみましたが、17日は先負、18日は仏滅と、むしろ日が悪いのは18日の方でした。

 さて、話題は下宮家婚式から離れますが、時刻について、もう少し考えてみましょう。
 明け六ツは日の出時、暮六ツは日の入り時といっても、これは必ずしも正確ではありません。通常、日の出は太陽が地平線から顔を出す瞬間、日の入りは太陽が地平線に隠れて見えなくなる瞬間をいいますが、地上から太陽が見えなくても、日の出前・日の入り後、しばらくは暗くなりません。
 つまり、薄明(twilight)の時間があります。再び、天文台歴計算室ホームページから引用します。
 「太陽の伏角[ふかく](水平線と水平線下の太陽の中心とのなす角)が6度以内では、戸外での作業に差し支えない程度の明るさ(常用薄明という)があり、・・・・・日本のような中緯度地方では日の入り(日の出)から常用薄明は約30分」あり、
 「江戸時代、薄明の始まり(夜明け―明六ツ)、終わり(日暮―暮六ツ)を昼と夜の境としていた。」
 この定義に従えば、明けの正六ツ時・暮の正六ツ時ともに、太陽は地平線より下にありますから、地上にいる私たちは太陽を見ることはできないことになります。

 この点について、未だに私が疑問に思っている経験を一つお話ししましょう。
 もう何年も前、鹿児島に旅行した際、島津家800年の歴史や文化を紹介するという、尚古集成館を訪ねたことがあります。
 そこに、精巧な日時計が展示されていました。
 その基板に、垂直に立てられた棒の影が映る位置を、冬至・春分・夏至に分けて、九ツを中心に右に八ツ、七ツ、六ツ、左に四ツ、五ツ、六ツと刻まれていました。
 基板に刻まれた図をお示しすれば分かりやすいとは思いますが、私がここで問題にしたいのは、「六ツ」という時刻が明確に刻印されていたということです。
 明け六ツ、暮六ツともに、私たちは太陽を見ることはできないのですから、日時計に影が映ることはないはずです。にもかかわらず、基板に「六ツ」と刻印されているのは何故なのか。

 そんな細かいことをいっても、そもそも日時計は大体の時刻を示すためのもので、「もうすぐ六ツ時だよ、ということが分かればいいんだ」といった人がいましたが、あるいはそうなのかもしれません。

謝辞
 下宮家文書解読にともに当たった「福山城博物館友の会」古文書部会の仲間諸氏に深い感謝の意を表します。

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