藤恒教授の日曜講義9
[第九十一講]「抽象のハシゴ」を上る小泉首相発言(2004/02/01)
[第九十三講]Qちゃん、アテネ五輪代表を逃す(2004/03/16)
[第九十七講]農業の多面的経済効果、年間37兆円!(2004/07/19)
[第九十八講]プロ野球の球団再編成問題――スト決行(2004/09/18)
[第九十九講]イチローの「必然のヒット」(2004/10/17)
- [第九十一講]「抽象のハシゴ」を上る小泉首相発言(2004/02/01)
- 最近の小泉純一郎首相の発言を聞いていて、気になることがあるので、思いついて書きます。
それは、議論するときの言葉の使い方についてです。首相の発言に、議論している相手との論点表現の抽象レベルを意識的に変え、論点をかわそうとする傾向がみられることです。
「抽象のレベル」は「抽象のハシゴ」とも呼びますが、まずこれを説明しましょう。
リンゴやみかんは果物です。リンゴとかみかんと言えば、具体的なものが目に浮かびますが、それらは果物の一種ですから、「果物」はリンゴやみかんより抽象のレベルが上がっています。
「青果物」といえば、さらに抽象のレベル(ハシゴ)を上ったことになります。
「抽象」という言葉を辞書で引いてみると、
事物または表象のある側面・性質を抽き離して把握する心的作用。その際、おのずから他の側面・性質を排除する作用を伴うが、これを捨象という。とあります。
一般概念は多数の事物・表象間の共通の側面・性質を抽象して構成される。
つまり、抽象のハシゴを上るほど議論は一般的となり、具体性に欠けて来るわけです。
具体性に欠けてくると、議論は政策、戦略、行動への結びつきが弱くなり、空論といわれるものになりやすい。政策論議、行動計画の論議では、物事を特定具体的に考えていくことでなければなりません。
そのためには抽象のハシゴを下がること、つまり一般化された抽象論議から特定具体的な地点へと引き下げて考えること、限定して論議することでなければなりません。
さて、冒頭に述べた小泉首相の発言の問題に返りましょう。
以下の首相発言は、新聞・テレビの報道にもとづくもので、もしそれが実際の発言と異なるなら、以下の議論は成り立たないかもしれないことをお断りしておきます。
まず、1月28日にデビッド・ケイ前米調査団長が米上院軍事委員会の公聴会で証言した内容に関連したことです。 ケイ氏の証言は、開戦時にイラクが大量破壊兵器(WMD)を保有した証拠はないというもので、この証言と戦争支持の是非について記者団から質問されて、小泉首相は次のように答えたということです。「(政府の判断は)正しかったと思っている。(米英軍の)国連憲章に則った行動を日本は支持したわけですから。(イラクにWMDが)ないとは断言できないでしょう。」この発言の論理自体まことに奇妙なものを感じますが、今はそれはおいて置き、ここで取り上げたいのは「国連憲章に則った」という言葉です。 「国連決議」とは言っていないことに注意してください。
国連憲章に則っているというのは、米英あるいは日本の指導者の”解釈”です。国連の名のもとに、あるいは国連に協力する形で何らかの行動(特に軍事行動)を起こすには、その都度、国連としての明確な意思表示が必要でしょう。つまり、安保理なり総会なりの決議がなければならない。
米英軍は、その国連決議がないまま行動したと主張する国が加盟国の中にたくさんあります。
すなわち、次のようなことです。
小泉首相は、「国連決議」という特定具体的なことから、「国連憲章」という抽象レベルへ議論を持ち上げ、それによって議論を拡散させ、特定具体的な政策、戦略についての議論を回避している、とみることができます。
さらには、イラク特措法はおろか、日本国憲法の第9条までもスキップし、憲法「前文」にまで議論を移すといういうにいたっては、抽象のハシゴを一気に何段も駆け上がるに等しいといわざるを得ません。
以前にも同じようなことがありました。
道路4公団民営化に関することです。民営化推進委員会は、ご承知のような経緯があって、結局、一昨年12月6日に意見書を小泉首相に提出しました。
その後、自民党道路族、国土交通省などとのすったもんだがありましたが、実質的には高速道路建設を継続するという、民営化推進委員会の意図とは異なる方向に決着する模様です。
その間、小泉首相はこの問題についてどのように発言してきたか。
「民営化推進委員会の意見は尊重する」と言い続けてきました。
ここで、再び抽象のハシゴを上がる例を見ることができます。「意見」と言う言葉に注意してください。首相は「意見書」を尊重する、とは言っていないのです。
「意見書」とは、民営化推進委員会が提出した具体的な文書です。
一方、「意見」は抽象のハシゴを一段上に上がっています。委員会のなかにもいろいろな意見があることは、今井委員長の辞任を持ち出すまでもなく周知のことです。「意見書」であれば、そこに書かれた具体的な提案を指します。
意見書でなく意見と言うことによって、論点をぼかし、都合のいい”解釈”を可能にする道を開いているとしかいいようがありません。
ことほどさように、最近の小泉首相の発言は(あるいは、首相は単に官僚の書いたシナリオ通りに発言しているだけかもしれませんが)、「抽象のハシゴ」を上へ上へと駆け上がり、論点をぼかし、議論を回避しようとする姿勢のみ目につき、残念です。
- [第九十三講]Qちゃん、アテネ五輪代表を逃す(2004/03/16)
- 今日は日曜日ではありませんが、Qちゃんこと、高橋尚子選手がアテネ五輪女子マラソン代表の選に洩れたことに関連して、小泉純一郎首相が語ったとされる発言にひっかかるものがあったので、急遽、「講義」する気になりました。
陸上競技連盟の選考委員会・理事会は、昨夏の世界選手権銀メダルの野口みずき選手、今月の名古屋国際で優勝した土佐礼子選手、もう一人は1月の大阪国際の坂本直子選手を日本代表に選び、高橋選手は選ばれませんでした。
高橋選手は「(アテネに)行きたい気持はあったし、自分が走っている姿を想像していた。残念です。」でも「決った人たちには頑張ってほしいと思います」と、記者会見で健気でした。
本当に残念だったろうと思います。本人以上に、多くの日本人が、再度、金メダルを目指して、オリンピック発祥の地を走るQちゃんの颯爽とした姿を思い描いていたのに、と思います。
なにしろ、彼女は女子マラソン日本最高記録保持者であり、国民栄誉賞の人ですから。
しかし、高橋選手は代表の選から洩れました。
陸連は、とかくの批判があったこれまでの代表選考の経緯から、「過去の実績」とか「大舞台での強さ」といったあいまいな基準ではなく、選考4レースの成績だけで決めるという方針を定めていました。
それでいけば、はやばやと代表が内定していた野口選手は別にして、土佐選手も坂本選手も落とすわけにはいかなかった、ということでした。結局、高橋選手が落ちるほかなかった。
さて、そこで小泉首相の発言です。
「もう1人ぐらい何とか増やせないのかねえ。もう3人と決っているんですか? 融通がきかないの?残念だなあ」と、首相官邸で記者団に繰り返したそうです。(朝日新聞2004.3.16号)
首相は軽口の積りかもしれませんが、聞き捨てならない発言です。陸連に対し、候補選手に対し、たいへん失礼な発言だ、と言わざるを得ません。
この発言は、代表の枠を決め、選考基準を定め、それにもとづいて国民注視の中で”苦渋の決断”した陸連、それを潔く受け入れようとする候補選手たち、そして慨嘆しながらも納得しようとしている国民、そのすべての人たちを愚弄するものだというほかありません。
政治家という人たちは、定めたルールもケースバイケースで平気で捻じ曲げ、融通を効かせるのが政治の情けというものだ、と考えているのでしょうか。
政治の世界では、そのような発想は日常茶飯事で横行しているのでしょうか。
そうであれば、行財政の構造改革が実質的には何も進まないのは、当たり前かもしれません。
- [第九十七講]農業の多面的経済効果、年間37兆円!(2004/07/19)
- 独立行政法人農業工学研究所は、今月(2004年7月)、環境維持や災害防止など、農業がもつ多面的な機能の経済効果が、年間37兆円にのぼるとした報告書を発表しました。
農業・農村がもつ多面的機能というのは、「国土の保全、水源の涵養、自然環境の保全、良好な景観の形成、文化の伝承など、農村で農業生産活動が行われることにより生ずる食料その他の農産物の供給の機能以外の多方面にわたる機能」を指します。
こうした機能のもつ効果を評価することがどれほど困難なものか、容易に想像できます。
洪水防止、水資源涵養などの機能を農地がもっていることは分かりますが、それが金額にしてどれだけのものに値するか。容易ではありませんが、計算しようと思えばできないことではありません。
たとえば、全国の農地で蓄えられる水の総量を遊水地とかダムで代替するとすれば、その建設にどれだけの費用がかかるか、それは年間いくらに相当するか、といった具合です。
では、景観の保全、休養・安らぎといった農村のもつ機能はどうやって評価するのでしょうか。とても難しくて、どうやったらいいか、容易に見当がつかないでしょう。
農工研の試算をみてみましょう。
「土地空間(農村景観)の保全」機能は、基本的には景観の維持のための草刈り作業経費でもって評価します。実際には、これに作業者の意識調査から求めた“景観評価額”という係数を掛けますが。
「保健休養・やすらぎ」機能は、地域用水の存在それ自体、およびその利用から受ける受益者の満足度の総体、つまり水路・ため池などから一定の距離に居住する人口に“認知率”を掛けて求めます。
ここに、農工研の苦心の跡が見てとれます。
農工研では、今回のこの研究は、結果の数値のみに意味があるのではなく、これまで提起された問題点も含め、より精緻化を図るための手法開発にねらいがあった、と述べています。
それは、上に述べたような個別機能の評価方法の工夫とともに、多面的機能の総合評価の面にもうかがうことができます。
その点について、報告書は次のように述べています。
@ 農業水利施設等の農村社会ストックそれ自体にも環境面での効果があることを示し、試算された農林業の環境便益(1995年名目値、単位億円)を、下に引用します。
A それらを元に環境勘定手法により試算し、農林業部門の環境費用(負荷)は10兆5900億円、環境便益は47兆6260億円との結果が得られた。
B 全機能の総額評価ではなく、多面的機能の20%がなくなる場合の評価額をCVM法により「4,441円/世帯・年」と算定した。
合計、476,260億円、というわけです。
洪水防止 59,050 水資源涵養 60,380 水質浄化 69,610 土壌浸食防止 156,410 土砂崩壊防止 47,290 有機性廃棄物処理 60 大気浄化・保全 28,030 気候緩和 110 野生動物保護 20,540 保健休養・やすらぎ 34,790
これから環境費用 105,900億円を差し引いて、370,360億円が正味効果というわけです。
この数値の大きいことに、驚く人は多いのではないでしょうか。私もその一人です。
農業本来の目的である(はずの)食料および農産物にかかる農業総産出額とくらべてみれば、その大きさが実感できます。
農業総産出額は、1995年で10兆4500億円です。つまり、この多面的機能にもとづく経済効果は、生産額の4.6倍にあたります。農業総産出額は年々減少しており、2003年には8兆9260億円。これと比較すると、多面的機能効果は本来の生産機能効果の実に5.3倍に上ることになります。
何かひっかかるものを感じませんか。
日本農業は、何のために存在しているのか。
食料を生産するためではなく、環境を維持し、災害を防止するために存在している!
このような多面的機能の評価、特に総合評価はほんとうに意味のあることでしょうか。 個別機能の評価値を単純に合計して、それが476,260億円である、ということにすぐには納得できないものがあります。
たとえば、私たちが家庭でインターネットとメールを楽しむためにパソコンを買ったとしましょう。
インターネットでいろんなウェブサイトから情報を引き出し、知っている人、知らない人とメール交換し、快適な生活を楽しむことができます。つまり、パソコンをコミュニケーションのすぐれた道具として使うわけです。
それ以外に、そのパソコンは、それを使って奥さんが町内会用の文書を作ることができるし、子供はゲームを楽しむことができる、それぞれの立場でパソコンを持つことの効果を数え上げていったら、その価値は途方もない金額になるかもしれません。
そればかりではありません。パソコンがあるために、その一家は今までになく和やかに歓談し、家庭の和が一層よく保たれるなら、こんなにすばらしいことはありません。
だからといって、私たちは50万円掛けても、100万円掛けてもいいから、パソコンを買おうとはいわないでしょう。
農業の多面的機能(それは、農業の本来の機能ではなく、波及的二次的な機能だと思うのですが)を強調することには慎重でなければならない、と私は思うのです。
日本の農業政策を大転換するなら別です。つまり、農業は食糧を生産するためというより、環境維持と災害防止のためだ、というふうに切り替えるとします。
そうなると、農業のあり方も変わってくるでしょうし、ダムを造ったり、農業を含む開発規制を強めるよりも、農業こそが環境維持と災害防止の対策として最善だということを証明する必要があります。こうなると、ことは農業問題にとどまらないことになります。
いくつか評価手法の名前が出てきましたが、それらについては下の資料を参照してください。
資料
独立行政法人農業工学研究所『農業・農村の有する多面的機能の解明・評価―研究の成果と今後の展開―』平成16年7月。
- [第九十八講]プロ野球の球団再編成問題――スト決行(2004/09/18)
- 今日は日曜日ではありませんが、急遽、講義することにしました。
今日(9月18日)と明日(19日)、日本プロ野球史上初のストライキが行われることになりました。昨日、日本プロ野球組織とプロ野球選手会の、約10時間に及ぶ“団体交渉”が決裂し、選手会は今日明日の計12試合に設定していたストを決行することにしました。
今年6月に明らかになった近鉄バッファローズとオリックス・ブルーウエーブの合併の1年凍結を求めていた選手会は、その要求が受け入れられないこと、そしてどうしても合併が避けられないなら、新球団の来季参入への最大限の努力を求めたが、これが受け入れられないこと、これによって交渉は妥結に至ることができなかったということです。
ここに至る経緯を簡単に振り返って見ます。
プロ野球組織とプロ野球選手会の、初めてといっていい団体交渉が行われたのは、9月9、10日でした。
そこで、合意した事項のうち近鉄とオリックスの合併について、選手会側の「1年間の凍結要求」に対して、経営側は「交流試合導入などによる影響を具体的に分析し、速やかに回答する」として、この時点では選手会側も合意しました。
ここで「具体的な分析」とは、両球団が合併しての「セ6、パ5」と、合併を見送っての「セ6、パ6」で、どちらが球団側に有利かを確認するということでした。
このことを聞いて、私がまずもって奇異に感じたのは、球団側がそれまで、「両球団の合併問題は経営問題」であって、選手のくちばしを入れることではない、といっていながら、このようなシミュレーションすらやっていなかったのか、という点です。
企業合併、あるいは事業の撤退について経営意思決定しようというときに、まずもってこのような検討をすべきであるということは、経営のイロハではありませんか。
もしほんとうに経営側がこんなことすら、選手会から要求されるまでやっていないのだったら、彼らはプロ野球球団を持つことを“経営”問題として本当に認識していたのか、「たかが選手が・・・」という発言に代表されるように、彼らにとって球団を持つことは単なるお遊びに過ぎなかったのではないか。
お遊びなら、うまくいかなければ止めてしまえ、ということになっても不思議はありません。そのくせ、他から何かいわれると、「これは経営問題だ」といって議論を避けようとするのは、詭弁としか思えません。
もし、そのような両球団合併の損得のシミュレーションを行ったうえでの決定であるとするなら、それをいままで開示しない、というは誠実さに欠ける話です。
ましてや、目前のストを回避するための言い逃れだとすると、これは不誠実を通り越して卑怯としかいいようがありません。
いずれにしても、球団側の姿勢には経営者としての誠意を感じることが出来ません。
それに対して、選手側はどうでしょうか。
「セ6、パ5」と「セ6、パ6」の二つのケースについてシミュレーションをやってみるということは、たとえ可能性は低くとも「セ6、パ6」が有利、という結論が出るかもしれない前提にたってのことです。「セ6、パ5」と決めているのであれば、このようなシミュレーションは余計なことだからです。
この点をとらえて、選手会の古田会長は「大阪に近鉄を残す可能性を探していただけるということなので、この2日間(9月11、12日)にストを決行することはできないと判断した」と語っています。
これこそ、大人の発言というべきです。そして、誠実な態度です。
なぜ、このようなことが平然と行われるのでしょうか。ファン無視の球界騒動?というべきなのでしょうか。
少なくとも、選手たちはファンのことを十分意識しているといっていいでしょう。彼らは日々、球場の中でファンの気持を肌で感じているはずです。
ファンもまた、選手達のことを十分に理解しています。スト支持派が60%を超えている事実を見ても分かります。
問題は、プロ野球組織側、つまり球団経営側にあります。
彼らは当初、選手たちの言い分も聞こうとはしませんでした。ファンの気持も完全に無視していたといっていいでしょう。
彼らにしてみれば、日本プロ野球組織(NPB)という組織は、オーナーと球団経営者から成り立っており、選手もファンもその組織外のよそ者なのです。自分たちの組織の運営に外部の口出しは無用というわけです。
その組織は外部に対してクローズドしており、一種のムラを形成しています。ムラ社会によく見られるように、名目上の最高責任者はいますが、これは権限も意欲もなくてよろしい、権威づけに好都合であればいい。
実際には、2人か3人かの少数の長老が動かしており、それが伝統にのっとっているように見えながら、内実は実に恣意的に決定を下す。
このムラに外部から侵入しようとする者に対しては、激しく攻撃を加え、ムラの秩序(それは内向きの自分たちだけにしか通用しない論理にもとづいている)を守ろうとする。
情報は外部に開示しない。今回の問題についても、少なくとも高裁の判断が示されるまでは、球団側から選手やファンに対する説明はほとんどありませんでした。ムラ居住者以外には説明無用、という姿勢です。
話は飛びますが
この姿勢は小泉純一郎首相にも見られます。首相は、これまで毎年、抜き打ち的に靖国神社に参拝してきました。
中国政府がなんといおうが、韓国がどんなに非難しようが、何の説明もしません。彼は、外国政府に対して説明の必要をまったく感じていないのでしょう。
しかし、黙っていて理解が得られるのはムラ社会内部での話です。「日本人には分かってもらえるはず」という論理では、世界に通用しません。
日本がこれからグローバル化していこうというときに、世界の人たちに誠意をもって、言葉を尽して説明しないわけにいかないのではないでしょうか。
それは自分たちを理解してもらうためにも必要なことだし、その上で自分たちの論理なりカルチャーがグローバル・スタンダードと離れているなら、それを異なるものとして世界に認めてもらうか、自分たち自身が変わっていく努力をしていかなければならないのです。
日本プロ野球の話に返ります。
このように見てくると、日本企業を代表するような大企業(ただし、オールドエコノミー分野に属する企業がほとんど)経営者が、ことプロ野球経営のこととなると、途端に内向きのムラ意識にとらわれるように見えるのが、なんとも不思議です。
この点、球団オーナーたちも小泉首相と同じなのでしょう。
そう考えれば、いま新しく球団経営に乗り出す意思を表明しているライブドアあるいは楽天が、日本プロ野球組織というムラに入ることは、このムラにとってもグローバル化するチャンスかもしれません。ライブドアにしろ楽天にしろ、グローバルに考えなければ生きていけないインターネットの世界で商売している企業ですから。
昨日の交渉では、選手会は球団新規参入の「来季」に向けての「最大限の努力」ということに最後までこだわりました。前回交渉時の「シミュレーションをやってみる」という“引き伸ばし策”(?)に妥協するようなことはありませんでした。
スト決行もやむをえない、と私は思います。
- [第九十九講]イチローの「必然のヒット」(2004/10/17)
- 今回も野球の話です。
昨日(10月16日)、NHKは「イチロー新記録を語る 262安打・こころの軌跡」という番組を50分にわたり放映しました。このなかで大リーグ・マリナーズのイチロー選手の語ったことでひとつ心に残ることがありました。
それは、イチローが「必然のヒット」ということを言ったことです。
例えば、バッターの打球がショートとレフト、センターの3者の間に落ちたポテンヒットだとします。こんなとき、中継放送のアナウンサーや解説者はよく「幸運なヒット」「たまたま、いいところへ飛んだ」と言うことがよくありますが、それに対してイチローは異議を唱えます。
そういうふうに打とうとバッターはねらったかもしれない。自分が解説者だとして、とても怖くてそのような言い方はできない、と。
それは、偶然のヒットではなくて、「必然のヒット」かもしれないじゃないか、そのようなことをイチローは言いました。
大リーグ最多安打記録を塗り替えた選手の言だけに、これは私に強い衝撃を与えました。
第三者にはまったくの偶然、幸運と見られることの中にも、その当人にすれば、あるプロセス(考えに考え、分析し、工夫し、鍛錬するプロセス)の後の必然の結果である、とイチローは言いたいのです。
もちろん、次の打席で、あるいはもっと極端に次の球を、ポテンヒットしてやろうとか、ホームランにしてやろうとか、ねらってその通りできるものではないでしょう。どんな投球が来るか、守っている野手の位置や技術、その瞬間の風向きと風速、それらが全部複合的に作用して、あるときは凡打となり、あるときは安打となる。
しかし、打者には1打席ごとに「読み」があり、またシーズンごとに抱負というか心構えというか、そういうものがあるはずです。
つまり、一人ひとりに戦略がある。
戦略あっての、1打席、1打席です。
自分なりの戦略を念頭に打席に入り、ヒットを打つことができれば、たとえ第三者には偶然のように見えようとも、当人にとっては「必然のヒット」であり、彼は会心の笑みを浮かべているに違いないのです。
その会心の笑みがどれだけ多いか、それは彼がもつ戦略がどれだけ豊かですぐれているか、それを実現するための技術を身につける鍛錬がどれほどできているか、どれだけ臨機応変に環境に適応できるか、そういったことにかかっているでしょう。
私は以前、[第七十一講]で、偶然は戦略によって選択される、と述べました。そこである哲学者の言葉を引用しました。もう一度ここにその部分を[第七十一講]から引用します。
「人は特定の長さの魚しか釣れない釣り道具を持っている。湖にはいろんな長さの魚がいるのに」という意味のことをレスリーは言っています。どの特定の魚が釣れるかは偶然だが、釣れる魚の大きさはその人のもっている釣り道具(つまり、戦略)によってある範囲に限定される、ということでしょう。イチローはイチローとしての釣り竿をもっています。松井秀喜もまた、自分の釣り竿をもっています。広島の嶋は、やっと自分の釣り竿を見つけることができたようです。
全く違う大きさの魚を釣りたいのだったら、釣り道具(戦略)を変えなければならない。
もちろん、釣り竿をもっていても、それを使いこなす技術がなければ何にもなりません。つまり、戦略を実現するための鍛錬にもとづく技術と精神がなければなりません。
また、何本も釣り竿をもっていて、それを臨機応変に使い分けることができれば、その人はさまざまな大きさの魚を釣ることができるでしょう。それがイチローなのかもしれません。
それとも、イチローは釣り竿は1本だが、それを確実に使いこなすことができるのかもしれません。野球にくわしくない私にはどちらとも断言できませんが。
[第七十一講]で述べたこと、偶然とみえることのなかに必然を見出すこと、それはその場に身を挺しているからこそいえる、そういった「必然」がここにも存在するということです。それを第三者は「偶然」と言っているに過ぎない、と考えられます。
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