藤恒教授の日曜講義6
[第六十二講]再び、アマルティア・センのこと(2002/03/10)
[第六十六講]アルゼンチン、美しく悲しい17シュート(2002/06/13)
[第六十八講]武士の「看病御暇」と現代の育児・介護休暇(2002/07/20)
[第七十講]安全性問題と情報開示(2002/09/08)
- [第六十二講]再び、アマルティア・センのこと(2002/03/10)
- 前々回の講義で、アマルティア・セン『貧困と飢饉』を紹介しました。
セン氏は、つい最近、東京大学から名誉博士号を授与されました。東大としては名誉博士号第1号とのことです。『貧困と飢饉』は、飢饉が農民や牧畜民、労働者などの、特にそのなかでも最下層に属する人たちの、権原の崩壊によって起こることを鮮やかに示しました。(権原というのは、「ある財の集まりを手に入れ、もしくは自由に用いることのできる能力・資格」のことをいいます。)
それにもかかわらず、本書は、訳者によれば、なぜそれらの権原崩壊を既存の市場や制度が防げなかったのか、どうすれば防ぐことができるのか、については十分に答えを出していないといわれたそうです。しかし、セン氏は同じこの著書に収録されている講演のなかでも、またその後の著書のなかでも、明確で具体的な提案をし、その理論的根拠について説明しています。
飢饉は、ある特定地域の特定の職業集団が権原を失うことによって起こるのだから、そうした経済的変化によって打撃を受けた人々に、最低水準の所得と権原を回復させることによって防ぐことができる、という主張です。
権原保護のために最低限の所得を創出すること、・・・・・なかでも現金賃金による公的雇用は、効果的な方法となる可能性がある。潜在的な飢饉の犠牲者に対して公的雇用を提供することは、失われた購買力を再創造し、飢饉を防ぐことにつながる。・・・・・・セン氏の答えは、次のようなものです。
飢饉救済というと、あまりに強く食料の配給や救済キャンプでの光景と結びつけて考えられてしまうものなので、一見この考えは飢饉阻止の方法として常軌を逸したものに見えるかもしれない。
(ここに)2つの論点がある。(1)なぜ、施し物による救済でなく、雇用なのか。(2)なぜ、直接的な食料配給(救済キャンプでの炊き出しもしくは食料による賃金支払い)でなく、現金払いなのか。(「講演 飢餓撲滅のための公共行動」1990 から)
「最低限の賃金で無条件に雇用を提供することは、本当にそれを必要としており、雇用機会を喜んで受け入れようとする人々を自動的に選び出す篩の役を果たし、それによって汚職と悪用の可能性を減らすことができる。」突然、話は変わりますが、私は先日、3月4日の参院予算委員会でのNGO(非政府組織)問題についての参考人質疑を思い出します。
また、現金賃金の制度では、直接配給のように政府機関を通じて食料を動かす必要がない。「現金払いは、潜在的な飢饉の犠牲者の手に新たに創り出された需要が、通常の取引・輸送経路を通じて満たされることを可能にする」からです。
この日は、「お上の言うことはあまり信用しない」と言ったといわれるピースウィンズ・ジャパン統括責任者の大西健丞氏が参考人として出席しました。私は、この質疑をテレビの国会中継で一部始終視聴しました。その前の田中真紀子前外相の場合ほど痛快ではありませんでしたが、それでもNGOについて幾分か認識を新たにすることができました。この参考人質疑のなかで、大西氏は次のような趣旨の質問をされました。
「あなたは支援に向かった現地(イラクだったか?)で現地人から彼らが作った品物を買い上げて、それを販売する営利事業を行っているようだが、世間では貿易商社顔負けの商売だという人もいる。」それに対して、大西氏は「確かにそのような活動を行っているが、その収益はピースウィング全体の予算から見れば微々たるものである。また、そのようなお金を支援に回すことで、更にNGO活動に貢献することができる」と答えました。
以上のやりとりは、記憶に頼っているので正確ではありませんが、趣旨はそのようなことです。私に言わせれば、このNGOの活動はアマルティア・セン氏の主張にそのまま沿ったもので、高く評価されるべきだと思います。むしろ、もっともっと積極的に進めたらよいと思います。
セン氏のいう権原崩壊の危機にある人たちが自立への道を歩んでいくためには、彼らに現金収入の道を開くことが効果的だ、と私もそのように考えます。
- [第六十六講]アルゼンチン、美しく悲しい17シュート(2002/06/13)
- 標題は、サッカーのワールドカップ(W杯)F組でアルゼンチンがスウェーデン戦に引き分け、1次リーグ敗退が決まった試合を報じた『朝日新聞』(2002.6.13号)の見出しです。
攻め込むアルゼンチンと、守りを固めて逆襲に活路を求めるスウェーデン。流れるようなパス交換にドリブルを織り交ぜて仕掛けるサッカーと、守備に重心を置いた受身のスタイル。・・・・・ 17本のシュートを浴びせながら、ネットを揺らしたのはペナルティーキックのこぼれ球を押し込んだ1点だけ。アルゼンチンのビエルサ監督は「どうしようもなく悲しく失望した」と語ったそうです。上の記事を書いた記者は、次のように言っています。 「ゴールは確かに尊い。しかし、そこに至る過程もサッカーのだいご味である。」
どんなに優勢に試合を進めても、得点という唯一絶対の価値を越えることはできない。負けさえしなければ決勝進出できるスエーデンは、徹底して守りに終始しました。そして成功しました。
同じF組のイングランド対ナイジェリア戦をテレビハイライトで見ましたが、ここでも引き分けさえすれば決勝に進めるイングランドの戦いはどうしようもなく退屈なものでした。全く攻め込まないのです。
勝ち点は勝ち点、引き分けでも勝ち点1ですから、無理はしない。アルゼンチンの戦い方はそれとは反対に、先ほどの朝日新聞の記者の嘆き「どんなに優勢に試合を進めても、得点という唯一絶対の価値を越えることはできない」という言葉に典型的に表れています。
どんなにその戦いのプロセスが美しくても、得点という結果に結びつかなければ、悲しみだけが残る。それは敗北であって、成功ではない。私は、大学で「意思決定論」という科目を担当していますが、そこではいつも次のようなことを話します。
意思決定が成功か失敗かは結果だけで決めることはできない。その決定に至るプロセスで、自分がどれだけ考え抜いたかが重要なのだ。その決定の結果がたとえ失敗に終わったとしても、全力をあげて考え抜いたのであれば後悔はしないはずだ。しかし、この考え方に反対があることも知っています。「経営は結果だ。その過程でどう考えたか、そんなことは結果が伴わなければ価値はない。」
悪い意思決定とは(ああすればよかった、こうすればよかったと)後悔することにあり、たとえ"ラッキー”な結果を生もうともそれは良い決定とはいえない(ラッキーだと後悔はしないでしょうが)。よく学び、成長する人とはプロセスを大切にする人のことだ。結果よりも過程(プロセス)を、というのは私の美学にすぎないのでしょうか。アルゼンチンの戦いを美しいといっても、決勝に進出できなければ何もならないではないか。
サッカーのルールもろくに知らない私が、ただ若者たちが走り、蹴り、ぶつかりあう姿を見たいばかりにテレビの前に座りながら、私はとんでもない考え違いをしているのではないかと、今とても大きな不安に襲われています。[素人の蛇足] 引き分けにそれぞれ勝ち点1を与えることを止め、0点とすれば攻撃的なサッカーが復活するのではないでしょうか。
- [第六十八講]武士の「看病御暇」と現代の育児・介護休暇(2002/07/20)
- 私は、2年程前から古文書の解読を少しづつ勉強しています。くずし字は、旧漢字や異字体のくずしも少なくなく、それに加えて歴史の知識も必要で、苦労の連続です。
でも、あらゆる知識(?)を総動員して、時に何時間も1字にかけて、推理していく面白さはたとえようがありません。私はすっかりはまってしまいました。ところで、古文書に関連して最近、非常に興味を引かれた解読解説を目にしました。
柳谷慶子さんの「武士の看病休暇」というものです。(『古文書通信』53号、NHK学園発行 2002.5.25)
これによると、江戸時代の武士は親や妻子が病に臥した際に、勤務を休んで看病することが認められていた、ということです。「看病御暇」「介抱御暇」という休暇制度があったというのです。
それも2、3日とかいう短いものではなく、原則30日、というのですから、驚いてしまいます。そこで、現代の休暇制度はどうなっているのだろうと、厚生労働省その他のホームページにあたって、少し勉強してみました。
休暇制度についての最近の話題は、育児・介護休暇のようです。「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」というのがあって、ここでは「子の養育又は家族の介護を行い、又は行うこととなる労働者の職業生活と家庭生活との両立が図られるようにする」ことをねらいとしています。介護休暇についてみてみましょう。
まず、誰を介護するときに、この休暇を取ることができるか。
同居・別居どちらの場合でも・・・・・妻 夫 母 父 子 妻の両親 夫の両親どのくらいの日数を取ることができるか。
同居の場合だけ・・・・・祖母 祖父 姉妹 兄弟 父母や子と同様の関係にあると認められる者
引き続く場合、2週間以上、3ヶ月まで(公務員、あるいは会社によっては6ヶ月まで)が原則。時間単位とか半日単位も可能。では、武士の看病御暇の場合はどうなっているのでしょう。
上にあげた柳谷さんがとりあげている秋田藩の古文書の例ですが、看病できる対象は、父母・妻・子・同居の祖父母・兄弟ですが、父母・子・兄弟については他家に入っている者でも看病の対象にしています。
他家の養子となった子どもが他藩の家中になっていても大病の場合は看病休暇を認めている点は注目すべきでしょう。そのほか「疎遠之続」であっても検討のうえ許可するというのは、叔父叔母や従兄弟などが想定されていたのだろう、と柳谷さんは述べています。休暇日数は原則、30日。ただし、江戸や京都に看病に出向くときは、移動の日数が加算されました。さらに、病人に見放しがたい事情がある場合には、さらに休暇日数が加算されました。
この武士の看病休暇は看病のためで、介護のためではありませんから、そのまま現代の介護休暇に比べることはできませんが、看病・介護の対象に昔と今と大きく変わるところはありません。
日数は違います。現代の介護休暇が長いのは看病のためではなくて介護のためだからでしょう。江戸時代の昔から、こうした福利厚生のシステムが整えられていたことに、私は大きな驚きを覚えました。
柳谷さんも次のように感想を述べています。
仕事優先で、家事も育児も介護も妻に任せきりになりがちな現代のサラリーマンと比べて、江戸時代の武士は何と家族や肉親思いであったことか、感じ入ってしまいそうである。だが、こうした武士の姿が見られるのは、家制度のもとで、家長の地位にある者に家族員の生活と生命を守る責任が担わされていたからである。日本の民間企業に勤めるサラリーマンは有給休暇ですらろくに取らず、猛烈に働いています。全産業平均約17日、大企業で18日程度の付与日数に対して、その消化率は業種によって違いますが、40%から多いところで70%程度に過ぎません。しかも、全体としての消化率は、1993年の56.1%から減りつづけ、2000年には50%を切ってしまいました。
育児休暇も取得者は大企業で70%を超えていますが、中小企業では50%程度に落ち込みます。男性は、1%にも満たない有様です。
「長期休暇を取ろう! これで国民も経済も元気が出る?」というのが、先日の『朝日新聞』の言い分です。(2002.7.16号)
- [第七十講]安全性問題と情報開示(2002/09/08)
- 9月2日、東京電力は原子力発電所の自主点検データ改ざんなど「トラブル隠し」の責任をとって、会長、社長のほか2人の相談役と副社長・原子力本部長のトップ5人が引責辞任することを発表したことはご存知のとおりです。
東電という大企業で、機器のひび割れなどの報告を受けながら、それをもみ消すなんて、よくもまあそんなことを2年間も(あるいはそれ以上も?)続けていたなんて、安全軽視もはなはだしい、と私たち消費者は思います。
しかし、組織内部の専門家の考えはこれとは少し違うようです。そのようなことは「よくあること」で、発電所全体の安全にも操業にも何の差し支えもない、いたずらに消費者や地域住民に不安を与えることはない、内々に処理すれば済むことだ、そのような風潮が組織の中にあったのではないかと疑われます。私自身、企業に勤務した経験から、それを否定できません。特に安全性が強調されるシステムほど、その傾向が強くなるように思います。原発などがそうです。その立地に際して、地元住民の受け入れをスムーズにするために、安全性が過度に強調されるということがあります。そのために、事故を想定した避難訓練もできかねるという事態まで起きます。「自分たちで危ないと思うから避難訓練をやっているのだろう」と言われるのを恐れるためです。
「安全である」ということを強調すればするほど、トラブルは隠したくなります。発表したからといって、外の誰も助けてくれるわけでなく、結局は自分たちで処理する他はないのだ、という理屈です。
さて、安全とは何か、ということになります。
システムや機器などが故障しない、事故を起こさない、長持ちする、といった性質は、専門的には信頼性と呼ばれます。もちろん、機械だけでなく、それを操作する人間も含めて考えなければなりません。機械は正常に作動しているのに、人間の不注意で事故が起こることも多いからです。人間が作り操作する機器やシステムで、”絶対”故障しない(信頼度100%)ものを作ることはできません。信頼度99.999%の高信頼コンピュータでも、年間5分システムダウンする可能性があります(five nines, five minutes)。宇宙関係のサブシステムでは、さらに99.9999%(six nines)以上の信頼度が必要であるといわれています。 しかし、信頼度100%のシステムを人間は作ることはできません。
つまり、幾ばくかの故障や事故、危険度を覚悟しなければ、私たちは現代を生きていけないのです。
問題は、この危険許容度がどのくらいなら私たちは納得するのか、ということです。日本に住む私たちが1年間に交通事故で死ぬ確率は、1万分の1弱(年間の交通事故死亡者9000人、総人口1億2000万人として)ですが、大部分の日本人は毎日、車を運転し、道路を平気で歩いています。
いま、「脱ダム」ということが盛んに言われます。ダムの目的は大きく分けて、利水と治水にあります。上水道や工業用水などの水余りで、利水の意義がだんだん薄くなって、洪水を調節する治水が強調されるようになってきていました。
この治水といっても、”絶対”洪水を起こさないようにダムを設計するということではなくて、何年に1度の洪水に備えるか、ということで計算します。人口が密集する首都圏の荒川や大阪の淀川は最高の200年に1度です。50年に1度という河川も多くあります。
「これらの安全度の目標値を上げれば、国はダムの数も規模も思いのまま膨らますことができる。 ところが、ダムが水余りで中止になると、国交省はとたんに安全度を強調しなくなる。福島県の外面ダムは100年に1度の洪水に備える計画だったが、建設中止に伴って当面の安全度の水準を30〜50年に1度とし、河川改修でしのぐことにした。」(朝日新聞2002.9.5号)これを読むと、ダムの安全度とは一体、何だ、ということになります。流域住民は相談を受けたのでしょうか。絶対安全なもの、信頼度100%のものを作ることができない以上、それがどれだけ安全であるかというデータを公開すること、それを関係者が(専門家も素人も含めて)徹底的に話し合うこと、これこそが最も大切なことだと思います。
情報開示こそ、安全とか信頼度の問題に立ち向かう最大の武器なのです。"Houston, we have a problem."
1970年4月13日22時ごろ、月探検アポロ13号は20万マイルかなたから指令センターに、こう打電してきました。宇宙船本体の一部に爆発事故が起こったのです。
そこからアメリカ航空宇宙局(NASA)の生還プロジェクトが開始され、アポロ13号は劇的な地球帰還を果たしました。また、1986年のスペースシャトル・チャレンジャー爆発事故調査に際してNASAの担当者は「ソリッド・ロケット・ブースターの失敗確率は、1%以下である」と述べているそうですが、別のエンジニアはこのエンジンの1飛行当たりの失敗確率を10万分の1、あるいは500分の1とする人もいるということです。(以下も参考文献を参照)
それほど、安全の証明のプロセスは説明困難で、誤解もまた生みやすいものです。このシャトルの事故調査メンバーを依頼された1人は次のように語っています。
「このような調査と調査結果は多くの企業や政治家に関係する。当然、圧力がかけられる恐れが考えられる。しかし、私がいかなる馬鹿な質問をしても許されること、いかなる企業のいかなる担当者にも質問できること、事実のデータを入手できることを保証してくれるのであれば調査委員を引き受ける。」そうなのです。いかなる情報も包み隠さず、私たちに(専門家だけでなく、素人にも)知らされなければならないのです。
その意味で、データを隠すという行為は経営上も人道上も最も罪深いものです。参考文献:
秋山義博ほか「Houston, We Have a Problem(Apollo 13 Captain)」『プロジェクトマネジメント学会誌』 Vol.4 No.2, 2002年4月.
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