日曜講義3

藤恒教授の日曜講義3


[第三十一講] 2000年を迎えて−−競争社会ということ(2000/01/16)
[第三十三講]常識あるいは”現状維持”の強さ−−数字合せから (2000/03/05)
[第三十四講]利己的あるいは利他的ということ−−数字合せから(続き)(2000/03/26)
[第三十七講]トルシエ監督問題と組織(2000/06/25)
[第三十八講]ネットビジネスとバーチャリティ(2000/08/27)
[第四十講]オリンピック、難度への挑戦 (2000/10/01)

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[第三十一講] 2000年を迎えて−−競争社会ということ(2000/01/16)

新しい年を迎えて、しかもミレニアムということで、ちょっと気張って始めようかと思います。
というのは、経済審議会が発表した『経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針』(以下、『あるべき姿』といいます)についてです。

実は昨年の7月5日に発表されたもので、それを今ごろ取り上げるなんて古新聞の解説をするようなものだと笑われるかもしれません。しかし、笑わないでしばらくつきあって下さい。
昨年発表されてから、経済企画庁のホームページ(http://www.epa.go.jp/)からダウンロードしてあったのですが、正月に新たな気分で、殊勝にも読んでみようという気になったのです。

この『あるべき姿』は、2010頃までに到達する日本の経済社会の姿を描いたもので、序章と、第一部から第三部に分かれており、序章は「知恵の時代」となっています。さすが、堺屋太一長官を戴く役所の審議会だなと感心します。また、「最大自由と最小不満」こそあるべき姿の目標だなんて、なかなか格好がいい。

もちろん、内容にも多々みるべきものがあり、今、日本の経済社会は新しい”多様な知恵の時代”への転換期に差し掛かっているのだという主張がひしひしと伝わってきます。

たとえば

これまでの近代工業社会では、……企業は規格大量生産型組織として人間から離れた資産保有の主体として実存しており、人間(個人)はこの組織に部品としてはめ込まれる形になっていた。
これからの多様な知恵の時代では、組織は人間によって構成されるものとなる。
知恵の値打ちの創造が経済成長と企業利益の主要な源泉となる世の中では、最大の生産手段は、人間そのものと切り離すことのできない「知恵」と「感性」である。(そして、この知恵と感性は国公有化したり、統制したりすることはできない。)

これなど、なかなか役所関係の報告書とは思えない新鮮なものを感じさせます。

さて、ここで私はこの『あるべき姿』のなかで述べられている「競争社会」ということを取り上げてみたいのです。
『あるべき姿』では、次のように述べています。

これまでの近代工業社会を形成する戦後社会の価値観では、@効率、A平等、B安全が「正義」であった。 これからは、これにC自由が加わり、好みの選択と間断なき競争によるイノベーションが強く支持される。

そして「平等」の項で、次のように述べています。

平等には、すべての人々が等しい挑戦のチャンスをもつという意味での「機会の平等」と、所得格差の是正や消費の規格化による公平感を重視する「結果の平等」とがある。…… 「結果の平等」は世界の多くの国で試みられたが、(旧社会主義国にみるように)結果は失敗に終わった。
「あるべき姿」の経済社会において、……「平等」の内容は「機会の平等と事後の調整」の組合わせとなる。…… ここでの平等は、まず、すべての人々が自らの意思で何事にも参加し得る機会を持つことである。そして、その結果として生じる経済格差を是正し、みんなが生きられる仕組み(安全ネット)を確立することである。

また、次のようにも述べています。

個々人が「夢」に挑戦できる社会では、……個人が自己責任のもとに自立した存在であるとの認識が高まっている。そうした社会では……成功者と失敗者の間で所得格差が拡大する可能性があるが、挑戦とそれに伴うリスクに相応する報酬は正当な評価であり、それによる格差は是認される。
またその前提として、すべての人に対して公正な機会が与えられているほか、失敗した場合の最低限の安全ネットと再挑戦の可能性が確保される。

すべてごもっともなことで、そのような社会の来ることを願わずに入られません。
ここで重要なことは、すべての人に対して公正な機会が与えられているということだと思います。潜在的な能力を持ちながら、それを発揮する機会が与えられないばかりに、戦わずして「失敗者」の列に加えられる人が大勢いるようでは、真の意味でそれは「競争社会」ということはできないでしょう。
『あるべき姿』でも、”すべての人に”といっています。まさに文字通り、すべての人に公正な機会が与えられなければなりません。

現実はどうでしょうか。
高齢化社会のなかで、家庭にあって老親を介護し疲れ果てている、主に女性たちに「自らの意思で何かに参加し得る機会」が与えられているといえるでしょうか。
心身に障害をもち、社会活動に参加する意思と能力を持つ人たちに公正な機会が与えられているでしょうか。
「家庭にあって子が親の世話をするという日本の美風を損なってはいけない」といった政治家がいましたが、彼は家庭介護者の社会参加についてどのように考えているのでしょうか。

高齢化社会での介護は、社会介護を主にし、多くの女性たちを家庭介護から解放すれば、どれほど活気ある「競争社会」が生まれるか、おそらく男性もうかうかしてはおれないでしょう。
心身に障害をもつ人たちも、人間のもつさまざまな能力のうち、ある面においては健常者以上の能力をもつ人は数多くいるに違いありません。

真に「競争社会」を実現したいと思ったら、規制緩和も必要でしょう。失敗した場合の「安全ネット」も必要でしょう。
しかし、本当に必要なのは今の何倍も社会福祉に力を入れることです。
さまざまな事情で「競争」に参加することを妨げられている多くの人が参加できるよう、国や地方自治体は福祉にもっともっと力を注ぐべきです。
公共事業や消費を促す補助金に金を使う今の予算配分の仕方は完全に間違っています。『あるべき姿』に向かう政策では決してありません。

次に、もっともっと教育に力を入れるべきです。
人間のもつ多様な潜在能力は、教育によって顕在化します。この情報化社会にあって、たとえば特定の人だけがインターネットを利用できるというのでは決して公正であるとはいえません。
学校教育のなかで、職場の研修のなかで、地域コミュニティのなかで、誰でもがネットワークにアクセスでき、情報化社会の「競争」に参加できなくてはなりません。すべての人に情報教育を受ける環境を作り上げなければなりません。そのためには情報インフラを早急に整備することが必要で、国や地方自治体も含めて私たちは、これに向けてもっともっと力を注ぐべきでしょう。
教育は、上にあげた情報教育に限りません。幼稚園から始まる「お受験」競争、学校教育でいわれている学級崩壊、リストラにあった人たちの再教育、数え上げれば教育の中に公正な競争の前提を阻害する多くのことが含まれていることに気づきます。

要約すると、私のいいたいのはこういうことです。
競争社会を実現するには、自己責任と自己負担の名目のもとに、福祉予算を削ったり、教育予算を削ったりすることでは決してありません。
人々が、自己責任のもとに、リスク(失敗者になるかもしれないリスク)を我が身に引き受ける用意のもとに、競争に参加する自由を保証できる条件をわれわれの社会の中に作り上げなければなりません。
競争はプレーヤーが増えれば増えるほど、活性化します。一部の天才だけが参加するのを多くの人が外野席から眺めているのは、健全な競争社会とはいえないでしょう。

そのために今、必要なことは、官も民も、私たちが一致して、競争とは対極にあると考えられている福祉と教育に力を注ぐ決意と行動を起こすことです。


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[第三十三講]常識あるいは”現状維持”の強さ−−数字合せから (2000/03/05)

経営や経済、特に政治の場では、目標とか計画の数値をいくらにしたらよいか、さしたる根拠もないまま、とにかくある数字に決めなければならない、ということがよくあります。
たとえば、「フランチャイズ・チェーン店舗2000店目標」とか、「2010年までに成人の喫煙率半減」(厚生省の「健康21」計画の目標値として掲げられる予定が、たばこ業界や自民党農林部会の反対で数字自体は削除された)とかいわれます。
かっては、日本の国家予算で防衛費がGNPの1%を0.00何%かオーバーしたというので大問題になったことがあります。

もちろん、こうした数字にもそれなりの根拠とか意味が与えられているでしょう。
「2000店」の目標には規模としての経営的意味があるでしょう。しかし、それが1950とか、2100というのではなく、2000であるのはなぜか。
「喫煙率半減」にも、もちろん根拠があるのでしょう。しかしそれが、45%とか66%ではなく、50%であるのはなぜでしょうか。

こうしたとき、常識とか現状ということが強さを発揮する例が数多く見られます。つまり、現状維持の力が強く働くと思われます。
このことを念頭におきながら、今年1月に、次のような質問(アンケート)を大学3年生(全員男性)26名に対して行ってみました。質問項目は、T.C.Schelling, Strategy of Conflictを下敷きにした松原望著『新版 意思決定の基礎』(第8章)朝倉書店 からとらせていただきました。

[問1] 正の数をひとつだけ書いて下さい。あなたとあなたのパートナー(あなたと組んだ相手)の書いた数字が同じならば、2人とも賞金をもらえるものとします。

結果は、図1の通りです。

非常に多くの人が、「1」と書いています。これは他の調査でも似たような結果となっています(松原 前掲書)。
では、なぜ人は、このような場合に「1」と書くのでしょうか。

「1」は、正の整数の最初の数字です。ものごとの始まりです。1日、1月、元旦、元年、第1子などなど……。

しかも「1」は、私たちにとって特別な数字のようです。たとえば、宝くじナンバーズの当選番号が「1111」となったとすると、人はおそらく「エッ」と、びっくりするでしょう。自分では決して(とまでは言えないでしょうが、おそらくは)「1111」を選ばないでしょうから。
確率論からいえば、番号が「1111」であろうが、「3682」であろうが、当たる確率は同じであるにもかかわらず、「1111」を買うのは避けたくなるでしょう。

このように、「1」は、私たちにとってすべての数のなかで特別のものです。
したがって宝くじの場合とは逆に、「1」と書いておけば、パートナーも「1」と書いてくる可能性は非常に高いと、多くの人が考えるのも当然です。

これが、”世間の常識”というものです。社会の常識や慣習にしたがっていた方が利益が得られるということです。ここに、常識や慣習が一旦できあがると、なかなか変わらないことの理由があるのではないでしょうか。

「7」も、「1」に次いで特別な数字と考えられます。ラッキー・セブンの「7」ですから。
さて、[問1]は数字だけの問題でしたが、これが金額となるとどうでしょうか。

[問2] いくらでもいいですから、金額を書いて下さい。あなたとあなたのパートナーの書いた金額が同じならば、2人ともその金額分をもらえるものとします。

結果は、図2の通りです。

この場合も、「1」のついた数字を挙げた人が圧倒的に多いことが分かります。あとは、それに続く「0」がいくつ付くかです。
そのなかでも100万円と書いた人が一番多いのは、身近な金額で、しかもこれだけあったらいいな、という額だからでしょうか。1万円ならもっと身近でしょうが、ちょっと真剣になる金額ではない。
1億円は遥かな希望ですが、ひょっとしてパートナーもそう書くかもしれない僥倖恃みの金額でしょうか(あるいは、半分ジョークか)。

ところで、[問1][問2]とも、回答者の4人に1人は上に掲げたようなことでは説明できない答をしています(「その他」の分類)。
それぞれ特殊な事情を抱えているか、あるいは常識とか慣習にとらわれない人なのでしょうか。

最後に、次のような問題を考えてみます。

[問3] あなたがそこにある10万円をふたつの山A、Bに分けるとします。あなたのパートナーもまた、他の10万円をふたつの山A、Bに分けるとします。あなたとパートナーの分けかたが同じならば2人ともそれぞれ10万円もらえるものとします。違っていれば何ももらえません。あなたはいくらといくらに分けますか。

結果は、図3の通りです。
全員の人が、5万円対5万円に分けると答えました。このアンケートにはここで取り上げた以外にもいくつかの質問があるのですが、全員の回答が一致したのはこれだけです。
「折半の原則」とでもいうべきものでしょうか、特別な事情がない限り、配分は50:50というのが公平だというのが私たちの考えの根底にあるのでしょう。

しかし、その配分に自己の利害がからむときは、どうなるか。
この問題は、この大学生へのアンケートの別の質問に対する回答結果をまじえながら、次回考えて見ることにしましょう。


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[第三十四講]利己的あるいは利他的ということ−−数字合せから(続き)(2000/03/26)

前回に続いて、数字合せについてのアンケートをもとに人間行動の一側面について考えてみましょう。
次のような質問を、前回と同じ大学生26人にします。質問番号は、都合上、前回からの連番とします。

[問4]AさんとBさんが相談しないで「表」か「裏」かを選ぶとします。
もし2人ともそろって「表」を選んだ場合、Aさんは3000円、Bさんは2000円
もし2人ともそろって「裏」を選んだ場合、Aさんは2000円、Bさんは3000円
の賞金がもらえるものとします。2人が違うものを選んだ場合には2人とも何ももらえません。
(1) もしあなたがAさんならば「表」と「裏」のどちらを選びますか。
(2) もしあなたがBさんならば「表」と「裏」のどちらを選びますか。

ここには、利益が非対称(片方が3000円で、もう一方が2000円)であるという状況が存在します。その限りでは利害は相反するといえます。
しかし同時に、2人が協力しない限り、その利益も得られないというジレンマにあります。

結果は、図1(1)および(2)の通りです。

 

(1) もしAさんならば、半数以上の人が「裏」を選ぶという、ちょっと意外な結果になりました。
というのは、まず「表」か「裏」かといった場合、そこに利害が絡むとかいった前提が何もない場合、「表」を選ぶというのが世間の常識だからです。現に、このアンケートの対象になっている大学生も次のような質問に対して、70%以上の人が「表」と答えているのです。
[問]「表」と「裏」のどちらかを紙に書くとした場合、あなたとあなたのパートナーの書いたものが同じならば、2人とも賞金をもらえるものとします。あなたはどちらを書きますか。(図2参照)

「表」か「裏」かといった場合、まず「表」が来るというのがものの順序というもので、「表」と書いておけばパートナーも「表」と書いてくるであろうと考えるのはもっともなことです。 しかも、[問4]の場合、Aさんであれば「表」としてBさんと一致すれば、自分の利益が多くなるのですから、人間とは利己主義者であるとするなら、当然、「表」を選ぶであろうと考えられますが、アンケートの結果は過半数の人が「裏」を選ぶという結果になりました。

これをどのように解釈すべきでしょうか。
多くの人は利己的ではなく、利他的なのでしょうか。

この質問状況のなかでは、利己的とか利他的とかいう前に、双方が同じものを選ばない限り何ももらえないのだから、まずもって答えを合せることが第一で、そのためには相手に有利になるようにした方が賢明であるという判断でしょうか。
このことは、(2) もしBさんならば、という質問の回答に一層鮮明に表れています。相手にとって有利な「表」という答えが71%となっているのです。
このアンケートの対象になった大学生たちには利他的な人が多いのでしょうか。(ちなみに、松原望著『新版 意思決定の基礎』(第8章)には違う結果が報告されています。)

ところが、ここに大変衝撃的な問題が含まれています。
利他的に行動する人が多くなればなるほど、その人たちは2000円どころか、何ももらえなくなる確率が高くなるのです。
AとBがともに利己的に行動すると、答えが一致せず何ももらえないのは当然です。
しかし、AとBがともに利他的に行動する場合も、同じく答えが一致せず何ももらえないのです。

「A、Bの一方が利己的であり、他方が利他的であるとき、その時にのみ、両者は0でない分け前を得る事が出来る。(中略)このようなルールが卓越している社会では、利己主義者は利己的に、利他主義者は利他的に振る舞うことが役割として”要請”されている。(松原、前掲書)」

これはまた、何という社会でしょう。いわれもなく一方が他方より多くの利益を得る。しかもそれは利己主義者の方であり、それは利他主義者の利他的行動のうえに成り立っている。
これはまさに、今のわれわれの社会の現実そのものではないでしょうか。
私はこのような社会に、これほどまでに”利他的な”大学生たちを送り出すのがいささか心配ではあります。

一方が他方より多くの利益を得る、あるいは多くを負担するというのも、それ相当の理由があれば私たちは納得するでしょう。そのような理由がない場合、前回[問3]のところで述べたように、折半の原則が適用されるべきです。
そこで、次のような質問を考えてみます。

[問5]Aさんに10万円、Bさんに15万円の収入がありました。2人で合わせて2万5000円の税金を払わなければなりません。相談しないで、それぞれが別々に負担額を申し出ることにします。
(1)あなたがAさんならば、いくらの負担額を申し出ますか。
(2) あなたがBさんならば、いくらの負担額を申し出ますか。

結果は、図3(1)、(2)の通りです。

 

4人のうち3人までが、Aさんならば1万円、Bさんならば1万5000円と答えています。
つまり、ここには収入に比例した負担が公正であるという考えが支持されています。比例配分の原則ともいうべきものです。

しかし、このようにはっきりと比例配分する基準(上の場合は、収入)がないところでは、「利己主義者は利己的に、利他主義者は利他的に振る舞うことが役割として要請される」という、悲しむべき社会を認めるほかないのでしょうか。


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[第三十七講]トルシエ監督問題と組織(2000/06/25)

解任か続投か、話題を賑わしていたサッカー日本代表のフィリップ・トルシエ監督が、2002年のワールドカップ(W杯)まで続投と決まったと新聞は報道しています。
日本サッカー協会の岡野俊一郎会長が決断を下したということです。

トルシエ監督は、若手の指導で相当の結果を残してきたということは誰しも認めても、日本代表チームの指揮については必ずしも評価は一定せず、何よりも彼のフィールド外の言動について不満を持つ向きも少なくなかったようです。
私など関係のない者には、いかにもフランス人らしいな、と思われることも関係者にはそうもいかないようです。たとえば、サッカー協会の強化推進本部(本部長=釜本邦茂副会長)などは「トルシエ解任」の意向だという話が流れたりしました。

この話題に私が興味を持ったのは、トルシエ監督本人がどうこうということより、日本サッカー協会という組織のあり方についてです。 サッカー協会の組織について、私はまったく知識がありませんので、以下は新聞報道(中国新聞2000.06.21)に頼って述べます。 岡野会長は、「トルシエ続投」の流れの中で次のようなことも決定したということです。
それは、代表監督を評価する担当組織として技術委員会をあらためて設定したということです。
その仕事は強化推進本部がやっていたのかと私などは思いましたが、強化推進本部は「日本代表をサポートする組織として原点に戻ってほしい」というのが、今回の岡野会長の考えだということです。
とすると、これまでは代表チームを”支援する”組織が、監督を”評価する”組織となっていたということになります。

「ひとつの組織が監督の支援と評価の仕事を受け持つという二律背反の構図。解任を前提に次期監督を探す姿勢は、監督の目には背信行為と移ったであろう。」
新聞はこのように報じています。

今度の措置で、支援は強化推進本部、評価は技術委員会と明確に分けられ、そこに相互牽制が働き、組織上すっきりしたということができます。
しかし、ここでまだ話は終わりません。
技術委員長は強化推進本部の副本部長で、両組織を4人が兼務するというのです。これでは、実質的には、支援と評価という仕事が分けられたとは到底いいがたいのではないでしょうか。

このようなことは、サッカー協会に限らず、日本の各種非営利法人や企業組織にも一般的に見られるものです。 各種の法人では、その運営の責任をとるのは一般に理事会と呼ばれるものです。一方、その理事会を監督する機関として評議員会がありますが、一部の評議員は理事をかねているのが通例です。そればかりか、評議員を指名するのは理事会であることがしばしばです。 これでは、牽制されるものが牽制するものを選ぶという、まことに奇妙で、実質的には牽制不在の実態を生み出しています。

株式会社でも、ことはそれほど変わりません。
最近、執行役員の制度を取り入れる会社が多く出てきました。これは、本来、株主の立場に立って経営のあり方を監督評価すべき取締役が、事業部長とか本部長など経営の現場を担当する責任者を兼ねている実態を改め、欧米のように株式会社の本源に立ち返る、いわゆる”経営のガバナンス”を確立しようというものです。
取締役会は社外からの人も含め少数の取締役に限り、それ以外の人たちが執行役員として経営の実務にあたるようにするものです。所有と経営の完全分離によって、そこに両者のよい緊張関係と透明性を確保することができるはずです。

ところが、日本では取締役の多くが執行役員を兼務するというのが実態なのです。この点では日本サッカー協会と何ら変わるところはありません。
日本の組織では、[第三十三講]から[第三十五講]にかけて述べてきたような行動が優勢で、”和を重んじる”というか、”なれあい”というか、いずれにしても透明性にかけるように思われてなりませんが、いかがでしょうか。


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[第三十八講]ネットビジネスとバーチャリティ(2000/08/27)

ネットビジネスとかネット株が新聞雑誌紙上を賑わすことがない日とてないこの頃です。
1700万人とも2000万人ともいわれるインターネット人口のうえに、ビジネスを展開する企業が爆発的に増え、人気を呼んでいます。いささかバブル気味でもあります。これはアメリカだけでなく、少し遅れて日本でも同じ状況です。

典型的なネット企業で、世界でも最大級のアマゾン・ドット・コムは、売上高が1995年の51万ドルから1999年には16億ドルへと、3200倍に急成長しました。この会社は、本来は書籍をサイトを通じて割引販売する会社としてスタートしましたが、今では書籍だけでなく、CD/ビデオ、家電製品、医薬美容品から美術品まで、さらに最近の新聞報道によると、新車の販売にも乗り出したということです。
実はこの会社、創業以来、黒字を出したことがないのです。毎年の純損失も増えつづけ、1999年には7億ドルとなっています。
その会社の株価が急騰を続け、公開時の1.9ドルから最高106ドルまで上昇し(その後、一時約50%も下落した)、米国史上最大の資金調達に成功したというのですから驚きです。
日本でも似たような現象が見られます。

そして、このネットビジネスの分野に日々、多くの起業家が生まれ、多くの企業が参入をねらっています。
パソコンやその関連製品、書籍やCD、旅行用品、車などさまざまな消費者向け電子商取引(BtoC, Business to Consumer)サービス、あるいはインターネットによる共同調達やインターネット取引所などの企業間商取引(BtoB, Business to Business)の話題が途絶えることがありません。 (実は、私の使っているこのパソコンも、インターネットを通じてある外資系企業から直接購入したものです。)

「インターネットと企業情報システムに関する調査」(『日経コンピュータ』2000.7.3号)によると、アンケート回答企業1484社のうち、「BtoBに取り組んでいる、または2001年度までには取り組みを開始する」とする企業は合計67.7%、BtoCの場合はこの数字が58.1%になっています。
この調査のなかで、ある中堅企業が

「インターネットの活用で後れをとった企業は、加速度的に顧客を失い、落ちこぼれていく。そのときになって慌てても手遅れだ。」

と語っていることが、象徴的です。われもわれもとネットビジネスへと靡くありさまが、この調査によく表れています。

私のような”オールド・エコノミー”に育ち、生活してきたものにとっては、このようなネットビジネスの世界のありさまは理解を超えます。
「何かがヘンだ」という思いを消すことができません。
どうしてでしょうか。それを考えてみようというのが、今回の講義の目的です。

告白しますと、いろいろ考えてみましたが、結局よくわかりません。
それでは、藤恒”教授”の名は取り下げねばなりませんね。そこで、無理してもう一度考えてみます。

オールド・エコノミーに属する私がネットビジネスに不安を感じることが、ひとつあります。
そして、それが非常に多くの人(例えば、人口の50%以上の人)の感情と一致しているなら、ネットビジネスはバブルのごとく弾け、再出発を余儀なくされるのではないでしょうか。

その不安というのは、ビジネスに限らず、すべてのインターネット上の活動(Eメールという広く普及した通信手段も含めて)にはフェースツウフェースのコミュニケーションがない、ということです。
そんなことは当たり前ではないか、といわれるかもしれません。その通り、当たり前のことです。
しかし、それでもなおかつ、ネット上のことはバーチャルであって、リアリティではない。そうした思いをいつも抱いて、メールを交換したり、ネットで買い物をしたりしている私です。

本当は、相手と向き合って話しながら、相手の表情を見ながら買い物をしたり、仕事の相談をしたり、それこそが”本物”じゃないかとの思いを消すことができません。
しかし、それではだめなのですね。

計器飛行を信じず、目視でなければ納得できないパイロットは、このジェット航空機の時代を生きることはできないでしょう。
関が原の岡の上にたって戦況をこの目で確かめなくても、集まってくるさまざまな情報を机上で組み立て作戦を立てることができなければ、現代の将軍は務まらないでしょう。
送られてくるEメールのなかに送信者の表情を読み取ることができないでは、情報社会に生きる資格がないのかもしれません。

最近の”17歳”は、バーチャルな世界に生きており、リアルな世界との区別がつかなくなってしまったのかと思われる事件をあちこちで引き起こしています。

このようなことは極端としても、私の見るところ、最近の17歳以下の若い人たちがバーチャルな世界に生きる能力は、私たちオールドの世代より遥かに高いものをもっているように見えます。
この人たちがバーチャルな世界とリアルな世界を自由に行き来する柔軟な想像力を獲得する確率は非常に高いと考えられます。

もしそうだとすると、この人たちが社会の第一線で活躍するようになる4、5年後に、初めて真のネット社会が到来するでしょう。
それまでは、ネットビシネスも激しい競争と淘汰の波に洗われるのではないでしょうか。


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[第四十講]オリンピック、難度への挑戦 (2000/10/01)

20世紀最後のオリンピックとして日本中を沸かせているシドニー・オリンピックも今日で最終日を迎えました。日本は、金メダル5を含むメダル総数18個(9月30日まで)を獲得し、近年にない好成績を収めたとのことです。
私もここしばらく、テレビの前に座ることが多かった毎日です。

オリンピックにはもちろん、いろいろな競技があります。陸上のように記録を競うもの、ソフトボールや柔道のようにチームあるいは選手の対抗戦によって優劣を競うもの、あるいは体操やシンクロナイズドスイミングのように演技を競うもの、などさまざまです。
しかし、すべての競技に共通していることは、難度への挑戦ということではないでしょうか。今回は、このことをテーマに考えてみたいと思います。

遊びとしてのテニスとか水泳とかやってはいますが、競技らしい競技は中学生時代に少ししかやったことのない私が、このようなテーマを取り上げること自体おこがましいので、半ば想像でお話しするしかないのですが、しばらく付き合って下さい。

分かり易いように、体操を取り上げてみます。
シドニーで、塚原選手は鉄棒で高難度の技に挑戦し、落下してしまいました。難度が高ければ高いほど、成功の確率が低くなるのは誰にとっても言えることです。優れた選手はより難度の高い技に挑戦しようとするから、それだけまた失敗する可能性も高いわけです。

だから何回かの試技が許されるとき(あるいは、何種目かの総合得点を競うとき)、次はどの技でいくかの作戦を立てることになるでしょう。ここまでの得点からすれば、普段の練習でもあまり成功したことのない難度の高い演技をしない限り、とてもメダルに手が届かないという状況に置かれたとき、選手はどうするでしょうか。
成功すれば金メダル、失敗すれば銀はおろか銅も取れないが、無難にやっておけば銀は取れるかもしれない、そういうとき選手はどうするのでしょうか。

もちろん、その人によるでしょうし、その日の体調にもよるでしょう。チームの状況、競技場の雰囲気などにもよるでしょう。
が、多くの選手は高難度に挑戦しようとするのではないか、というのが私の想像です。
挑戦せず競技を終わったとき、その選手に悔いが残らないとは、言えないからです。おそらくは一生、そのことを思いつづけるに違いありません。

翻って、経営の場に状況を置き換えてみます。
あるプロジェクトに1億円を投資して、成功すればそれが2億円になって返ってくる(つまり、1億円儲かる)が、うまくいかなかった時5千万円にしかならない(つまり、5千万円損する)という状況に経営者が置かれたとき、彼はどうするでしょうか。
問題は、成功の確率がいくらであるかということにあるでしょう。

成功の確率が50パーセントならどうでしょうか。こういうとき、数学的には期待値というものを計算します。

(1億円)* 0.5 + (-5千万円)* 0.5 =(2500万円)

となり、期待値がプラスですから、この投資はすべきであるということになります。

あなたが、この経営者だったらどうしますか。
数学的にどうあろうと、5千万円も損する危険性があるなら、止めておくという人も多いはずです。こんなプロジェクトは経営とは縁のないことで、それは投機ないしギャンブルにすぎないというわけです。
もちろん、もし5千万円の損失が発生すると、会社が倒産するなど決定的なダメージを受けると予想されるときは、これに挑戦するのは無謀でしょう。
しかし、このようなプロジェクトを会社のなかに多く抱えている場合は、成功する場合もあり失敗する場合もあるが、平均すれば1プロジェクト当り期待値程度に儲かる、というのがこの期待値の考え方です。

企業経営(特に、営利企業経営)は、スポーツ競技ではない。高難度(経営の場合は、成功の確率の低さ)に挑戦せよと唆すのか、とお叱りを受けるかもしれません。
しかし、プロジェクトやタスクの難度が高ければ高いほど、それに挑戦しようと動機づけられる経営者、管理者そして技術者が多くいることもまた事実です。


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