日曜講義1

藤恒教授の日曜講義1


[第三講]トヨタの生産ライン停止から考えること(1997/02/16)
[第六講] 時は流れる、右から? 左から?(1997/04/29)
[第九講]企業合併と従業員(1997/06/15)
[第十講]プラットフォーム・ビジネス(1997/06/29)
[第十四講]火星探査車を制御する8ビットCPU(1997/09/21)
[第十七講]再び、鏡を見れば(1997/11/23)

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[第三講]トヨタの生産ライン停止から考えること(1997/02/16)

トヨタ自動車は、系列の部品メーカーであるアイシン精機刈谷工場の火災によってブレーキ部品の供給が止まったため、完成車組立工場の操業を2月3日から6日にかけてほぼ全面的に停止せざるを得なくなったことはご承知の通りです。
その原因について、余分な在庫を持たない「かんばん方式」のせいだ、という意見があります。

たしかに、かんばん方式は「必要なものを必要な時に、必要な量だけ用意する」という考えにもとづく生産方式ですから、車組立てのある一つの工程ではその後工程から引き取られた量だけを生産し、余計な在庫を極力もたないようにします。この工程間に部品の品番や数量を伝える伝票を「かんばん」と呼び、それがこの生産方式の名前の由来です。

また、この方式はトヨタ社内の完成車組立工場内だけでなく、系列の部品工場という別会社の間にも適用されます。この部品メーカーはまたそこに材料を供給する会社との間でこのかんばん方式を採用し、……というように、以下、自動車の生産は完成車組立工場を頂点に巨大なピラミッドを形成して行われています。
したがって、そのどこかで不測の事態によって部品供給がストップすれば、車の生産が全面的に止まってしまう仕組みなのです。
高い効率や生産性を追求するあまり、このように火事や地震など不測の事態にこの方式は対応できないのだ、効率を犠牲にしてもある程度の在庫をもつようにすべきだ、ということになるのでしょうか。それとも、ライン停止のリスク(危険)はある程度覚悟すべきなのでしょうか。

ここで、突然ですが、私は伝統工芸品の制作工程を思い出します。たとえば、古典舞踊などで使われる扇は、自動車の生産と同じように、多くの制作工程に分かれています。大きく分けても「扇骨加工」「地紙加工」「加飾」「折加工」「仕上加工」の5工程、さらに細かくみれば17工程とも22工程ともいわれるほど多くの工程からなっています。しかもそれぞれがすべて専門職人によって担われ、家から家へ、人から人へ手渡されていきます。
このように細かく工程が分かれていながら、芸術品ともいうべき扇ができあがる秘密は何でしょうか。私は次のように考えます。

おそらくは職人一人ひとりの胸のなかに、自分の前後の工程に限らず全工程の作業が深く理解されており、そのなかでの自分の仕事の位置づけをしっかりと認識しているからではないでしょうか。自分の仕事は、扇という作品制作のほんの一部を担うものにすぎないけれども、それでも作品の出来栄えに大きく影響するのだと思えばこそ、一つの小さなと思われる仕事のなかにも大きな誇りと、そして緊張感をもって取り組んでいるに違いありません。

この仕事に対する誇りと緊張感は、私の愛好する能楽の舞台にも当てはまります。能楽では、シテ方、ワキ方、笛・小鼓・大鼓・太鼓の囃子方などがその都度集まってひとつの舞台を作りあげます。それぞれは気心の知れた一座のメンバーというわけではありません。それぞれが独立した一家を成しており、たとえば囃子方でも笛は森田流、小鼓は大倉流、大鼓は高安流、というふうに独立した流派のなかで鍛えられた人たちが一番、一番ごとに集まって舞台を作りあげるのです。そこには仲間内の気安さ、アットホームの安らぎはありません。一番、一番の舞台が緊張感溢れた他流試合です。それは競争の場であると同時に、協力の場でもあります。この緊張があればこそ、そこに素晴らしい創造的な舞台が作り上げられるのです。
自らの仕事に誇りをもった人たちが、互いの技量に対して尊敬の念をもちつつも、互いに競い合う、その緊張のなかから優れた舞台が作り上げられるのは、扇という工芸品の工程間に見られる緊張と同じ性質のものだ、と私は考えます。

推測でこのようなことをいうのは関係者の方々に誠に失礼ではありますが、トヨタ自動車のなかに、アイシン精機のなかに、あるいはトヨタとアイシン精機の間に、知らず知らずのうちに忍び寄る仲間内の気安さのなかに,緊張感の途切れがあったのではないでしょうか。どのようなシステムも結局は人に依存するものだというのが、私の考えです。


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[第六講] 時は流れる、右から? 左から?(1997/04/29)

 先日の日曜日、NHKの「新日曜美術館」(私のお気に入りの番組の一つです)で、尾形光琳の「紅白梅図屏風」(国宝)がとり上げられていました。

 ここにお見せできないのが残念ですが、大体の構図は中央に波紋を描きながら流れる川があり、右には紅梅の若木、左には白梅の老木が描かれています。
 ではなぜ、右に紅梅、左に白梅なのでしょうか。

 画家の千住さんによれば、右の紅梅若木から左の白梅老木へ、という時の流れを川の流れが表わしているというのです。
 そういえば、日本の数多くの絵巻物は右から左へと時間と時代を追って描かれています。私たち日本人にとって、時間は右から左へと流れるのです。

 ところが、私たちが業務を分析する時に用いる工程(分析)図、あるいはコンピュータ・プログラムの流れを表わすフローチャートなどはすべて左から右へと書いていきます。こうした「流れ図」は、基本的には何らかの分析対象(材料のような物質、あるいはエネルギー、情報)の時間的経緯を表現しているのです。
 この場合、紅白梅図と違って、時間は左から右へと流れていることになります。これはおそらく流れ図を使う分析手法が欧米に由来するからだと思います。

 日本人にとって時間は右から左へと流れ、欧米人にとって時間は左から右へ流れるといえます。
 私たち日本人は文章を書く時、縦書きを基本としてきており、この場合右から左へと書いていきます。欧米人は横書きを基本とし、この場合左から右へと書いていきます。この点も大変興味深いことです。

 展覧会に行ったら、時計廻りに(つまり、欧米流に左から右へと)見ていくのがよいのだという人がいますが、どうでしょうか。

 

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[第九講]企業合併と従業員(1997/06/15)

 5月27日、「総合エンターテインメント企業」を目指したセガ・エンタープライゼスとバンダイの合併が、突然ご破算になりました。
 理由は、報道されているように、バンダイ側の役職員の反対が強かったためです。

 このところ、企業の大型合併吸収が話題になることが多いように思いますが、これらは市場の寡占化を目指したものに相違なく、その背景には企業活動のグローバル化と世界的な規制緩和の流れがあります。

 こうした資本と組織の論理による合併吸収が、その組織に属する従業員にどんな影響を与えるのでしょうか。また、従業員の思考や行動様式が組織の合併吸収にどんな影響を与えるでしょうか。

   現代に生きる私たちは、その生活の大半を組織に委ねています。そこから生活の糧を得ているのですから、否応なしに、組織の論理を意識せざるをえないのです。
 自分が、たとえば総会屋に不正融資をしたとされる銀行の総務担当者だったら、果たして総会屋の言い分をはねつけることができただろうかと考えてしまいます。

 ここで突然ですが、私は米航空機メーカーのマグダネル・ダクラス(MD)社の倫理コードを思い出すのです。それには、このようにあります。
 

「MD社を特徴づける誠実さと責任感を守るため、われわれは『何が期待されるか』ではなく、『何が正しいか』にしたがって行動する」

 MD社自身、実は今、ボーイング社による吸収合併に直面しています。もし実現すれば、世界最大、しかもほとんど拮抗するもののない、まさに世界独占的な航空機メーカーが誕生します。

 さて、MD社の倫理コードです。ここに、私の勝手な解釈ですが、MD社の技術者の誇りを見る思いがするのです。「何が期待されるか」は組織の観点からすることであるのに対し、「何が正しいか」は組織の論理ではなく、社会の観点からしなければ答えは出ない。彼らの誇りは、組織を超え、社会に、技術そのものに目を向けているところからくるのではないでしょうか。

 このMD社がボーイング社と合併した時に何が起こるか。ボーイング社は部品供給業者のみならず、同業企業(たとえば、日本の三菱重工、川崎重工など)、さらには顧客(ユナイテド・エアライン、全日空)を巻き込んで開発を進めるコンカレント・エンジニアリングを全社的に採用する外部に開かれた企業です。

   この合併がこれからどのような経緯をたどり、どのような成功を収めるか、それが、従業員に何をもたらし、従業員が会社に何をもたらすか、私は非常な関心をもって、これに注目しています。

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[第十講]プラットフォーム・ビジネス(1997/06/29)

 前回の「企業合併と従業員」について、ある人から次のようなメールをいただきました。
 
「合併もいいのですが、市場が寡占的になるのには注意しなければならないと思います。…………OSを押さえたマイクロソフトは表計算、ワープロなど既存のメーカーを駆逐するが如く大攻勢をかけ、日本の代表的ソフト会社ジャストシステムも大打撃を受けている模様です。」

 そうなのです。この世の中、「持てる者がますます富む」という法則が支配する分野があります。
 ベータを駆逐したVHS、キーボードのキー配列であるQWERTY、そしてパソコンOS界を圧倒するWindows、すべてデファクト・スタンダードを確立した者が、その技術的優劣に関わりなく、市場を支配しています。
 これを、経済学者のブライアン・アーサーは"収穫逓増の法則”とよんでいます。(M.ミッチェル・ワールドロップ『複雑系』新潮社)

 特に、情報産業のような知的分野で、この"法則"が強く支配しているようにみえます。
 OSにしろアプリケーションにしろ、これらの「情報(あるいは、知識)」はコピーが非常に容易であること(社会的限界費用がゼロ)、コピーによって元のものが破壊されないこと、という物財とは異なる性質があります。
 そのため、他に先駆けて市場に進出し、ユーザーに受け入れられれば急速にその市場を独占することができます。
 しかもユーザーは一旦、それを使用しはじめると容易に他に乗り換えられないという、この分野独特の事情があります。

 情報という知的生産の多くは、プラットフォーム・ビジネスとよばれるものに属します。
 たとえば、OSはその上のアプリケーションに対してプラットフォームを提供しています。ユーザーはプラットフォームそのものではなく、アプリケーションというサービスに関心があるにもかかわらず、プラットフォームを経由しないではそのサービスを受けることができません。

 そこで、プラットフォーム提供者の戦略が登場します。
 彼らはプラットフォームの提供と同時に、その上のサービスを囲い込み、これを垂直統合することによって、プラットフォーム自体は極めて安価に(ある場合には無料で)提供しながら、全体として利益が上げられると考えます。Windows上のWord、 Excelなど、そのような戦略にもとづいていると考えられます。
 このため、何はおいてもまずプラットフォームの市場支配を確立することが必要となります。

   こうした戦略は、パソコンの世界だけでなく、ゲーム産業、AV産業などでも多く見られます。

 プラットフォーム提供者がどのような戦略をとろうと、それはそれでよいのですが、このプラットフォームとその上のサービスの統合はしばしばプラットフォームの技術的陳腐化をもたらす危険性があり、それが懸念される所です。


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[第十四講]火星探査車を制御する8ビットCPU(1997/09/21)

この7月に火星に着陸したNASA(アメリカ航空宇宙局)の無人探査機に搭載された小型探査車「ソジャーナー」のユーモラスな姿をテレビなどで見られた方も多いでしょう。
6輪車で火星表面を歩き回り、観測や土壌・岩石の分析に威力を発揮するさまには思わず笑いがもれてしまいます。

この「ソジャーナー」を制御しているのが、インテル社製の8ビットCPU「80C85」だということです。(以下の説明も、『日経パソコン』1997/9/8号による)

「80C85は、インテル社が1976年に開発した8085プロセッサーの低消費電力タイプで、NECのPC-8201など、初期のノート型パソコンにも使用された。
素子数は僅か6500。最新の Pentium U は750万素子だから比べものにならない。ソジャーナー搭載の80C85は2MHzで動作する。処理能力は0.1MIPSと、200MHz以上で動作する Pentium Uの数千分の一にすぎない。」

宇宙開発という先端技術の、そのなかでも最先端の火星探査の分野で20年前のCPUが使われているのはなぜでしょうか。
『日経パソコン』ならずとも、誰もがこのような疑問をもつでしょう。
それに対するソジャーナー設計者のブライアン・H・ウィルコックス氏(NASAジェット推進研究所)の説明は

「消費電力が低く、放射線に強い」

からだというのです。

では、Pentium Uは消費電力はともかく、放射線に弱いのでしょうか。
その答えは、「わからない」ということでしょう。
実証されていないからです。

「宇宙用部品の開発は通常、民生用をベースにして材料や製造方法を変え、宇宙での使用に耐えるものに改良していくケースが多い。これに数年以上の期間と数百万〜数千万ドルのコストがかかるため、民生用部品に比べて極めて高価で、技術的にも古い世代になってしまう」のです。

つまり、宇宙用の部品、機器、システムにとって最大の問題は性能ではなく、信頼性にあるのです。
私たちの使っているパソコンの、たとえばハードディスクの平均故障間隔時間(次の故障が起こるまでの平均時間MTBF、消耗品の場合は平均寿命)は、50〜80万時間といわれています。
50万時間とすれば、1日の使用時間を6時間として、228年間使えることになります。24時間/日とすれば、57年となります。
いかがですか。わりあい長持ちするものだなァ、とあなたは考えるかもしれませんね。

しかし、ここで宇宙開発システムの複雑さということを考慮に入れなければなりません。
宇宙開発システムを構成している部品は、おそらく数百万個のオーダーに達するでしょう。このうち、使命達成にクリティカルなものだけでも数十万以上、百万といった桁のものになるでしょう。(システム全体の話をしているのであって、たとえば火星探査車単体だけのことではありません)
極端な話、この百万個の部品うち、1個でも故障するとシステムがダウンするとすると、部品1個の信頼度が0.999999であっても、システム全体としての信頼度は0.37に下がってしまいます。(もちろん、冗長システム設計の考えなどを取り入れるので、このようなことは現実には起こりません)
このように考えると、宇宙用部品では平均寿命は10の9乗時間程度が要求されると聞いたことがあります。
それだけの信頼性があるということを、もしテストによって実証しようとすると、1年は10の4乗時間弱ですから、10の5乗年、つまり10万年運転してみて、はじめて故障のないことが実際に証明されたことになります。
同じ部品を1万個用意してテストすれば、10年間でよいことになります。

いずれにしても高い信頼性が要求されればされるほど、それを実証するには多くのお金と時間を必要とすることがわかります。

NASAが、「宇宙での使用に耐えるものに改良していくには、数年以上の期間と数百万〜数千万ドルのコストがかかるため、民生用部品に比べて極めて高価で、技術的にも古い世代になってしまう」というのは当然のことなのです。
つまり、”枯れた技術”が高い信頼性を求められるシステムを支えているといってよいでしょう。


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[第十七講]再び、鏡を見れば(1997/11/23)

以前に、[第八講]鏡を見ればと題して、次のような問題を考えました。
「右手に剃刀をもってひげを剃っている男が鏡をのぞくと、鏡の中の自分は左手に剃刀をもっているのがみえる。右と左が逆転したのに、上と下が逆転しないのはなぜか。」

これに対するベイトソン(『精神と自然』思索社)の答えを紹介しました。それは、次のようなことでした。

実は、逆転しているのは、左右ではなくて前後なのだ、というのです。
あなたは、たとえば北に向かって、右手に剃刀をもっているとすると、当然ながらあなたの右手は東側にあります。そして、鏡の中のあなたの像は南側に向くが、剃刀をもっている手は東側にあります。
あなたにとっての東は像にとっても東であるし、あなたにとっての西は像にとってやはり西です。
上下も同じことです。あなたにとっての上は像にとっても上であり、あなたにとっての下は像にとってもやはり下です。

「右」「左」という言葉は、「上」「下」という言葉(そして、「東」「西」という言葉も)が話者にとって外的な言葉であるのに対し、内的な言語に属するのです。

以上のような説明で理解していただいたでしょうか。これだけでは分かりづらかったかもしれません。特に、「話者にとっての外的な言葉、内的な言葉」ということが懇切に説明されていませんね。

ところで、最近この問題に関する素晴らしい本が出版されました。高野陽太郎『鏡の中のミステリー』岩波科学ライブラリーです。
この本によると、鏡の中の左右反転の問題にはこれまで、哲学者、物理学者、数学者、心理学者など、さまざまな分野の専門家が挑戦してきたにもかかわらず、だれ一人として納得のいく説明ができなかったということです。
高野さんは、この問題を完全に説明することができたというのです。その説明をきいてみましょう。

まず、鏡には、その面に垂直な方向だけを反転するという光学的な作用があります。鏡と向かい合っているときは、前後方向(お腹と背中の方向)が鏡と垂直になるので、前後が反転するのです。左右方向が反転するわけではありません。ここのところは、ベイトソンの説明と同じです。

では、なぜ鏡を見ている私たちにとって、右と左が逆転してみえるのでしょうか。
私たちがものを見てその形を認識するときには、自分の身体が基準になって、その視点でものを見るのです。つまり、自分のからだがもとになってできる座標系でみるので、「上」は頭のある方向、「下」は足のある方向、「前」はお腹の方向、「後」は背中のある方向です。むろん、「右」は右手のある方向、「左」は左手のある方向です。
ところが、他の人の姿を見るとき(たとえば、向かい合って話をしているとき)相手の人の上下、前後の方向については何も迷うことはありませんが、左右については自分自身の視点ではなく、相手の視点に立たなければなりません。このとき、左右は逆転します。

鏡の前に立って、鏡に映った自分と向かいあっている場合も同じことです。
自分は右手に剃刀を持っているのに、鏡に映った自分の像は左手に剃刀をもっているように見えます。
鏡像の左右を私たちが判断するとき、実物の自分の視点で判断しているのではなく、鏡像の視点、つまり鏡像と一致するような上下、前後、左右の仮想的座標軸を設定して判断しているのです。
この仮想的座標系は、ぐるりと180度回転して鏡の後ろに回り込めば(つまり、地面に垂直な軸を中心にして180度回転すれば)よろしい。
そうすると、前後軸と左右軸は向きが反対になります。ところが、前後については、仮想系の前後軸が実物の身体系と逆向きになっても、鏡の光学的な作用によって打ち消され、元に戻ってしまいます。すなわち、反転は起こっていないという結果になります。
ところが、鏡像の左右は前後と違って、鏡によって反転していないので、逆向きになった仮想系の左右軸にもとづいて判断すると、鏡像の左右は反対になってしまうのです。

お分かりになりましたでしょうか。
鏡に映った自分の像を見るとき、人は視点の移動を行っているのですね。

しかし、ここでひとつの疑問が生じます。鏡像を見るとき、その視点の移動を、なぜ垂直軸を中心にして180度回転するのでしょうか。水平軸を中心に回転してもよいではないか。
高野さんの説明は、次のようなものです。

人間のからだは、見かけ上は左右対称にできている。上下だと、頭の形をしている方が上で、足の方が下であることはすぐ分かる。しかし、左右はそうした手がかりがない。そこで、他の人を見るとき、その人の視点に立って左右を判断することになります(対話をしている相手を見ているときのように)。鏡像の場合も同じです。
しかし、上下については、人は他人の視点から判断しないという習慣をもっているのです。なぜか。
上下の場合は、ほかにもっと便利な座標系が存在するからです。たとえば、「下」はものが落ちる方向です。つまり、上下という方向は周りのだれにとっても共通な、いわば環境の座標系なのです。一方、左右はその方向を決める基準は、身体系しかありません。その身体系は、身体の向きを変えれば変わってしまいます。

これが、ベイトソンのいう「上」「下」という言葉が話者にとって外的な言葉であるのに対し、「右」「左」という言葉は内的な言語である、ということの意味です。

これで鏡の左右反転の問題はすべて解決したのでしょうか。高野さんの議論はさらに発展します。
今度は、自分の姿ではなく紙に書かれた文字を、鏡に映すことを考えてみましょう。
たとえば、「C」という文字は左側が丸く、右側が開いています。これを鏡に映すと、その鏡像はまぎれもなく左右逆転し、左側が開いています。
しかしこの場合は、実物のCも鏡像のCも、どちらも実物の自分の視点から見て左右を判断しているのであって、鏡像の視点に立って判断してるのではありません。

自分の鏡像の場合はその左右を鏡像の視点から判断した結果、『左右の反転』が起こる。文字の場合は、鏡像の左右を自分自身の視点から判断した結果、『左右の反転』が起こる。
それはなぜか。
ここでは、これ以上述べるのは遠慮します。関心のある方は、ぜひ、上に紹介した高野さんの著書を読んでみてください。


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