熊野古道を歩く
2009年3月下旬、世界遺産・熊野古道の中辺路、滝尻王子から熊野本宮大社まで41キロを歩いてきました。
(1)滝尻王子から高原熊野神社へ(03/23)
紀伊田辺駅からバスに乗って滝尻バス停に着いたのが午後1時、まず富田川に架かる橋を渡って熊野古道館を訪れました。
そこで詳細な地図帳を頂き、押印帳を求めました。地図は無料ですが、押印帳は¥100です。これに要所要所でスタンプを押していきます。既定数のスタンプが集まれば、完歩証明書を発行してもらえます。
地図は、同じものが和歌山県のサイト紀伊山地の霊場と参詣道から入手できます。
滝尻王子
滝尻王子に参拝したのが午後1:30、いよいよ歩き始めます。少し登ったところに大きな岩の下をくぐる胎内くぐりがあり、それを出たところに乳岩があります。荷物を背負ったまま胎内くぐりをしようとして泥だらけになってしまいました。これは空身でなければくぐれません。
深い杉林の山の中、階段状のきついジグザグ道を登っていきます。中辺路もいきなりこれほどの厳しい登りかと、いささか甘い考えでいたことを反省することです。それに、ウオーキング・シューズで来たことを後悔しました。これは、まさに登山です。山靴で来るべきでした。
その昔、熊野詣に出た藤原宗忠という貴族の参詣記に、次のようにあるということです。(小山靖憲『熊野古道』岩波新書)
「初めて御山の内に入る」と記した滝尻で、「先ず滝上坂を攀じ登り、十五町許り巌畔を踏み漸く登る。已に手を立つる如し。誠に身力尽き了んぬ」(まず滝の上の坂道をよじのぼり、ついで約15町の岩だらけの道をひたすら登ったが、手の平を立てたような急坂で、ほんとうに体力が尽きてしまった)。まったくの話、「已に手を立つる如し」という宗忠の言もそれほど誇張とはいえないでしょう。
立派な番号道標が立っています。ここが1番。500m置きに建てられており、終着の本宮手前が75番、と地図にあります。
剣ノ山経塚跡までこの登りが続き、今度は階段や石畳の下り道になります。やれやれと思ったら林道と交差し、また登りです。
民家が見え始め、しばらく行くと高原熊野神社に着きました。ここまで3.7キロを2時間余りもかかりました。由緒ありそうな古い神社です。境内のクスノキが実に見事です。
高原神社の大クスノキ
少し先にパーキングエリアがあって「霧の里休憩所」とあります。ずーっと下の方に栗栖川の集落が遠望できます。今日の宿泊はその集落にある民宿「きけうや」に予定しているので、ここからそこまで下らなければなりません。
やれやれ、明日はまたこれを登るのかと思いながら、30分かかって下っていきました。宿の主人の言によると、標高差は約300mあるとのこと。嬉しいことに、親切な宿の主人が翌日、ここまで車で送ってくれて助かりました。
(2)高原熊野神社から野中へ(03/24)
朝、高原熊野神社まで宿の主人に車で送ってもらいました。今日の予定は、近露王子を過ぎた先の、野中の民宿「いろり庵」までの15キロほどですから、楽な行程です。
8時頃まで、神社で写真を撮ったり、スケッチしたりしてゆっくりしました。
霧の里休憩所から車道を左に分け、「旧旅籠通り」を登っていきます。「通り」といったって、人一人がすれ違える程度の細い石畳道です。この通りに面した立派な構えの民家数軒に、たとえば「旧旅籠田中屋」」とか書いた小さな標識が立っています。かってはこの通りに多くの旅籠があって、熊野詣の人たちが宿泊したのでしょう。
山道を登っていくと、一里塚跡の石碑があり、「和歌山から二十六里」などとあります。9時前、壇ヶ峯(H506m)を過ぎると、そこは大門王子です。うす暗い杉林のなか、さらに十丈王子を過ぎると、左に小判地蔵があります。昔、ここで小判を口にくわえたまま息絶えた参詣者を供養したものだそうです。
悪四郎屋敷跡を過ぎていきますが、このあたりが中辺路最高地点とのことです。悪四郎山は標高782mですが、道は山頂を右に、巻くように進みます。
つづら折れの急坂を登ると、上多和茶屋跡です(標高600m)。10時半過ぎていたので、ここで昼食としました。
ここまで2夫婦と思われる4人組と抜きつ抜かれつ歩いてきましたが、大坂本王子跡で写生していたところ、今度は老いと若きの男性2人に追いつかれました。
聞けば、今朝滝尻から登ってきたとのこと、私たちとの3キロ差の登りハンディキャップを半日であっさりと乗り越えられたことになります。まさに、健脚といわなければなりません。
この「老い」の方(というのは失礼なほど若々しい)のA氏は、普段から歩くことを心がけており、月に200キロ歩くことを自らに課しているそうです。A氏とは次の日もしばしば出会うことになります。
3日間の道中、歩きの人に出会ったのは、先の4人組(この人たちは近露まで)と合わせて、6人だけでした。
大坂本王子から下ると、道は車道と接するようにして「牛馬童子口道の駅」に出ます。
日置川にかかる北野橋を渡ると、近露王子があり、近露の集落に出ます。高原からここまで集落はなく、ここではじめて中辺路一番と思われる“大きな市街”に出ました。自販機もたくさんあります。
ここ近露での一番の見どころは、近露の旧家、野長瀬家の枝垂れ桜です。樹齢280年、京都裕園より移植したものだそうです。土地の人の話によると、野長瀬家は楠木正成の叔母に当たる方が嫁いできた名家だそうです。庭も公開されていて、自由に入り見学することができます。この八分咲きの枝垂れ桜は、今回の中辺路道中、最高の出会いと言ってもいいほどです。
野長瀬家の枝垂桜
近露の集落からまた登りが続きます。道は舗装道路ですが、どこまでも登りです。
途中、面白いものを見つけました。畑の片隅に壊れかかった桶のようなものが置かれており、それに次のような歌が書いてありました。
やは肌の乙女のねむる形して 果無山は雪に眠れり 濠山
なかなか粋なものだと思いながら登っていきました。後の話になりますが、その夜の宿から展望する果無山脈に、土地の人たちが「乙女の寝顔」と呼ぶ山のあることを知り、歌に納得したことです。写真をご覧になってください。乙女の寝顔に見えるでしょうか。
“乙女の寝顔”山
宿泊予定の民宿に場所確認の電話をしました。そしたら、迎えに行きましょうか、という親切な申し出。「いえいえ、歩きをここで途切れさせたくないから、歩いていきます」とお断りする。確かに、きつかった。「いろり庵」は展望を売り物にしている民宿ですから、高いところにあるのだろうとは予想していましたが。
いろり庵には客用の風呂はない、ということで主人が下の集落の温泉まで送り迎えしてくれました。
ちなみに、いろり庵は1組の客しか泊めないという営業方針だそうで、今夜は私たち夫婦でこの宿を独占しました。1人だけでも、先約があれば他の客は断るそうです。
宿のおばあちゃん手作りの、山菜鍋や天ぷら、川魚、そして茶粥など、おいしい料理を堪能しました。
(3)野中から熊野本宮へ(03/25)
今日は中辺路歩き最終日にして最長のロングコースです。標高差200mを超える峠を三つ(草鞋峠、岩神峠、三越峠)越える23キロ余です。
ということで、早朝7時に出発しました。天候は曇り、今にも降り出しそうな雲が空にかかっています。天気予報ではそれほどの降りにはならないようですが、念のため雨具をすぐ取り出せるよう用意します。
比曾原王子を過ぎ、緩やかな登りをしばらく行くと継桜王子です。「野中の清水」はスキップ。新しく葺きなおされた「とがの木茶屋」が美しい。
秀衡桜はまだ蕾でした。藤原秀衡が、滝尻の乳岩(第1日目に書きました)に生まれてきたばかりのわが子を置いてきた、その無事を祈って桜を折り、別の木に挿したという山桜が、植え継がれてきたということです。
中川王子を過ぎ、新高尾トンネルの入口の見えるあたりでとうとう雨が降り出してきました。大した降りではないので、傘をさして歩くことにします。でもすぐに上がりました。助かりました。
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近露からこのあたり、小広王子のある小広峠までは車も通れる広い道路で歩きやすかったのですが、ここからまた険しい山道となります。熊瀬川王子を過ぎ、草鞋峠(H592m)に登ります。
この峠からの下りを女坂、栃ノ川を渡ってからの登りを男坂といい、いずれも相当な急坂で、しかも石のゴロゴロする歩きにくいつづら折れです。女坂と男坂を対にして夫婦坂と呼び、その中間の谷間にあった茶屋を仲人茶屋といったそうです。
男坂を登り切ったところが岩神峠、うす暗い樹木に覆われた林のなかに岩神王子。またジグザクの急坂を下り、さらに沢伝いに下っていくと、蛇形地蔵に着きます。蛇紋岩の大きな板岩を光背にもつ感じの地蔵がまつられています。
小川を渡ると湯川王子。11時半近くなったので、ここで昼食とします。
昼食もそこそこに、再び登りに挑戦。次第に急坂となり、この「花冷え」の気温にもかかわらず発汗しきりです。大変な思いでやっとたどり着いたところが三越峠、広い林道と交差しています。一越(草鞋峠)、ニ越(岩神峠)で、三越峠か?
昔、関所があったといわれるところで、木造りの大きな門があります。休憩もそこそこに門をくぐって船玉神社へ向けて、階段状の急坂を下ります。しばらく行くと林道となり、音無川の谷が広く開け、明るい感じです。少しづつ日も差してきて、春を感じさせる快適な遊歩道といった趣です。
船玉神社手前に広場があり、なぜか大きな木船が鎮座しています。ここから湯の峯温泉方面へ赤木越えの古道が分岐しています。
猪鼻王子を経て、さらに登って、古めいた鳥居をくぐると広場がありました。発心門王子です。観光客で賑わっています。ここにはバスが入り、ここから本宮までを歩く人も多いと聞きました。発心門王子の先に番号道標62番があり、本宮まであと6キロ少々です。頑張らねば、と思いながら歩きます。
発心門王子からは急に道がよくなってきました。土地の人たちのための生活道路でしょう。今までのうす暗い杉林と違って明るい春の道で快適です。
緩やかに下る道を水呑王子、菊水井戸などを経て、伏拝王子に到着しました。中辺路を歩いてきた参詣者は、ここからはじめて本宮を望むことができるのです。人々は本宮大社(現在は旧社地、大斎原)を遥かに伏し拝んだことでしょう。
三軒茶屋に到着しました。ここで高野山からの小辺路が合流します。
茶屋のご夫婦としばらく話をしました。これから山道登りが続くが、左側に見晴台があるから、より道になるがぜひ登ってみるように、との勧めで登ってみました。
素晴らしい展望でした。大斎原(おおゆのはら)の大鳥居がくっきりと見えます。感動しました。伏拝王子からは遠くでよく見えなかったのですが、ここからは見事に大斎原を望むことができます。
見晴台から大斎原大鳥居を望む
あとはどんどんと下っていきます。番号道標75番が見え、祓戸王子がそばにあり、遂に熊野本宮大社に到達しました。
裏鳥居から杉木立のなかを本殿へ、証誠殿に参拝したときは午後4時をまわっていました。
神門(上の左写真)から熊野大権現の幟の立ち並ぶ長い参道石段(上の右写真)を下り、表鳥居の前で宿泊予定の宿に電話しました。川湯温泉のペンション「あしたの森」です。親切にも迎えに来てくれるそうです。
ここの宿は川湯の見える素敵な宿でした。川湯には入りませんでしたが、ゆっくりと休むことができました。
(4)大斎原を訪ねる(03/26)
川湯の宿の主人が、本宮まで車で送ってくれました。
もう一度、本宮大社にお参りし、多少のスケッチもし、大斎原に向かいました。
大斎原大鳥居
菜の花の咲く田圃のなかの長い参道の向こうに大鳥居が見えます。その先に旧社地が広々と広がっています。桜も見事に咲いています。春の陽気のなかをゆったりと歩く気分は何といえず嬉しいものです。
すぐそばを熊野川が流れています。明治22年(1889)の大洪水で社殿が流出し、2年後にこの大斎原から現在地に移転して再建されたとのことです。
このあと、バスで新宮まで行き、速玉大社にお参りしました。その夜は勝浦温泉でゆっくりと湯浴みし、翌日、那智山へは、これまたバスで、那智大社(大門坂600mは歩く)、青岸渡寺、そして那智の滝にお参りし、勝浦駅から電車に乗って帰宅しました。
古道を歩いたのは中辺路だけでしたが、熊野三山すべてにお参りし、とても充実した5日間でした。
下に、熊野古道スタンプ帳を掲げておきます。
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