木曽路3

3.木曽福島から落合まで


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(写真をクリックすれば、拡大します)


木曽路11宿のうち、上木曽と呼ばれる贄川宿から福島宿まで歩いたのは、昨年(2013年)の春でした。今回は、それに続く下木曽の木曽福島から馬籠まで、更に次の宿である落合までを歩きました。
といっても、今回は体力と時間の関係から、その一部を交通機関に頼ったので、全宿場を歩き巡ることはできませんでした。

出発地である別荘地内の紅葉をあとに、2014年の秋10月、盛りの紅葉を期待して木曽路に出かけましょう。

   
別荘地内の紅葉

(1)木曽福島宿から上松へ(10/28)
茅野から国道152号線を走り杖突峠へ、さらに高遠から伊那を経て長い権兵衛トンネルを越えると、木曾谷へ出ます。そこから国道19号線を木曽福島まで下り、宿泊予定の旅館に車を預け、歩き始めます。時刻は午前10時半でした。
頼りは、前回も使った木曽観光連盟編『信州木曽路 中山道を歩く』という、詳細な案内図です。
 

   
案内図表紙
案内図内容の一部

出発して、いきなり道に迷ってしまいました。
地図では、「(京へ向かって)駅から中山道の入り口に注意。神社裏の板カベ沿いの細道を入り、役場の門前を右に進む」とあり、その細道に入ったはいいが、道は竹藪の中に消えてしまって、前に進めません。
仕方なく折り返し、ともかく役場の門前へと、地元の人に道を尋ね、木曽町役場の前に出ました。ところが、そこには駐車場があるだけで道は行き止まりです。
目を皿にして見廻してみると、その駐車場の奥に「中山道」の標識を認めることが出しました。やっと安心して、その後は地図に従って進むことができました。
あとで、この地図の2012改訂版をみたら、その所がちゃんと修正してありました。

道は、木曽川左岸の高台を通っており、対岸に御嶽山噴火の際、被災者を収容した木曽病院が見えます。間もなく正午ということで、道端の草むらに座ってコンビニで仕入れたおにぎりで昼食としました。
天気は快晴、抜けるような青空ですが、風がかなり強い。早々に立ち上がって、帽子を押さえながらまた歩き始めます。

間もなくトンネルに差し掛かりました。「明治43年中央線開通時に作られたトンネル」です。地図上ではこの中を通り抜けるようになっていますが、みると「通行禁止」と赤字で書かれた大きな看板が行く手を遮っています。脇に階段が作られ、国道19号線に出るように付け替えられたのですね。
国道からまた脇道に入ると、薄暗い林の道のなか、大きな石の鳥居の「御嶽山遥拝所」があります。村人や旅人がはるかに御嶽山を拝んだところとのことですが、現在この場所から御嶽山は見えない、と地図にあります。確かに、この快晴のなかでも御嶽山を望むことができませんでした。

   
御嶽山遥拝所
中山道の標識

江戸時代見えていたものが、今どうして見えないのでしょう? 木々が生い茂ってきたからでしょうか。ともあれ、更に中山道を標識に従って進みます。

板敷野の民家の間を通り抜け、快適な草道を通って行くと、間もなく「沓掛観音」と一里塚が道の左側に見えてきました。観音堂の前の紅葉がとてもきれいです。

   
一里塚の碑
沓掛観音前の紅葉

再び19号線に出ると、前方に木曽の桟にかかる赤い鋼アーチ橋が見えてきました。「木曽の桟(かけはし)」とは、元来、木曽川を渡る橋ではなく、岩壁に沿って丸太を組んだ桟(さん)のような道であった、と案内図にあります。

   
木曽の桟にかかるアーチ橋
木曽の桟から上流を見る

芭蕉の句碑があります。
「かけはしや 命をからむ つたかずら」

この橋を渡り、木曽川の右岸道路に出て、上松に向かって進みます。長い退屈な道ですが、車の往来はほとんどなく助かりました。対岸の紅葉の向こうに、木曽駒ヶ岳(2956m)を望むことができます。

   
木曽駒ヶ岳を望む
(上松)枝垂桜の巨木

赤沢自然休養林へ向かうループ橋の下をくぐると、上松宿です。古い街並みの、坂上に枝垂桜の巨木を見つけました。一輪、二輪と花が咲いているようにみえ、そばまで行ってみることにしました。それは花ではなく、残念ながら枝に残る枯葉でした。木曽氏館跡という玉林院の境内にある木で、通りがかった地元の人の説明によると、春には「それは、それは、見事な花を咲かせる」そうです。

JR上松駅に着きました。15:00。
さて、どうするか。体力が残っていれば、寝覚ノ床まで(約1.5キロ)歩こうかと思っていましたが、それほどの元気もなく、ここから電車に乗って宿泊予定の木曽福島に帰ることにしました。
私たちより少し若いとみえるご夫婦に会いましたが、彼らはこれから寝覚ノ床まで歩き、そこのホテルに泊まる予定とのことです。後日のことになりますが、このご夫婦とはそれから何回もお会いし、その度に御縁がありますね、と驚いたことです。
16:00、宿につき、第1日を終わりました。本日の歩行距離、約10キロ。

(2)須原宿から大桑駅へ、そして南木曽駅から大妻籠へ(10/29)
昨日は、上松宿まで歩いたのですから、今日はそこから歩き始めるのが本義ですが、体力に自信がなく、また時間的な関係もあって、上松宿から須原宿までをスキップ、さらに、大桑駅から南木曽駅まで電車を利用したので、宿場としては野尻宿と三留野宿は完全にスキップすることになってしまいました。

朝9:00、木曽福島駅から電車に乗り、9:33須原駅に着きました。
今日も快晴です。しかも昨日と違って、ほとんど風がありません。快適な歩き日和です。

須原宿は江戸時代の原風景をとどめる素敵な街並みです。
木曽路の宿場町ではどこにも見られる水場がここでもあちこちにあります。写真のように大きな木をくりぬいた水溜など見事なものです。
写真右端の「柏屋」の見事な造りの家には、現在も居住されているようです。

   
須原宿本陣跡
街なかの水場
古い民家「柏屋」

ここでは木曽路の名刹とされる(国指定重文)定勝寺を訪れました。
山門が工事中のため裏口から入ります。本堂前の庭とその紅葉が見事でした。

   
定勝寺の入口
定勝寺の庭園

青空を区切ってそびえる中央アルプスを眺めながらしばらく歩いていくと、道の左側に高い木組みのヤグラが見えてきます。岩出観音堂です。

   
中央アルプスを望む
岩出観音のヤグラ組み

京都の清水寺を小型にしたようなお堂で、ここもまた紅葉が美しい。木曽路はまさに今、紅葉の真っ盛りでした。

ここから伊那川橋を渡って進むのですが、道がいくつにも分岐していてよくわかりません。お堂下に車を止めていた人に道を聞くと、
「伊那川橋は工事中で渡れない」と、言います。
「エッ、それじゃどうすればいいですか」
「ここから下って、向こうに見える国道に廻るしかない」
そんな無茶な。国道はずっと向こうですよ。私たちは大桑駅で乗る電車が決まっている(1時間に1本くらいしかない)のに、それに間に合わなくなる。

ともかく、伊那川橋まで行ってみよう。
というわけで、行ってみたところ、車は通れないが、歩行者通路はあり、ホッとしました。

中山道はこのあたりから大きく南に向けて迂回しており、これを歩いていくと天長院に到ります。境内に多くの地蔵石仏があり、白菊の花などが供えてあります。ここに「マリア地蔵」があるとのことですが、どの地蔵様がそれなのかわかりませんでした。
(追記)あとでネットで調べたところ、子どもを抱いた地蔵を幼いイエスを抱くマリアとみたてて、子育地蔵=マリア地蔵として祀られていたのではないかのことです。この地方にも隠れキリシタンがいたのでしょうか。そういえば、奈良井宿にも首のない「マリア地蔵」がありました。(2014/11/13)

   
境内の地蔵群
くり抜いた木のなかの地蔵像

穏やかな田園風景のなか、坂を下っていくとやがて大桑駅が見えてきました。駅に着いたのは、正午少し前でしたので、駅横の桜の木の下で、昼食のおにぎりを食しました。この間、歩行距離約4.5キロ。

大桑駅12:20発の電車に乗り、南木曽に向かいました。つまり、大桑駅から南木曽駅まで(この間に野尻宿と三留野宿がある)を完全にスキップしたわけです。

南木曽駅から、地図上では跨線橋を渡って街なかの道を行くようになっていますが、鉄道沿いに新しい遊歩道ができていて、こちらを歩いていくと「SLのある公園」で合流します。

林の中の道を行くと、庭木の美しい家が何軒かある小さい集落があったりします。
薄暗い竹林の中の坂を上っていくと、道端で一人の女性がしゃがみこんで何かやっています。何をしているのだろうとのぞき込むと、よく熟れたブドウの房がいくつも入った箱が置いてあり、その箱の端に何か書きつけているのです。「ブドウをもらっていきます。ありがとうございます」と。
つまり、このブドウは地元の農家の人が通りがかリの人に自由に持って行くようにという好意で、ビニール袋まで用意して置いているのです。それを頂戴したというお礼の言葉を書き付けていたわけです。
私たちも2房ばかりいただいて、少し行った明るい道端でおいしくいただきました。四国遍路のお接待を思い出したことです。

すると、そこへ前日、上松駅で出会ったご夫婦が通りかかりました。またお会いしましたね、と思わず声をあげてしまいました。寝覚ノ床から歩いて、ここまでこの時間に到達すはずはなく、やはりどこかの区間をスキップしたとか言っていました。
私たちと同じように、今日は大妻籠に泊まる、と言っていましたから、この先また出会うに違いありません。ブドウを食っている私たちを置いて先に行ってしまいました。

道は歩きやすい立派な遊歩道です。
蛇岩という大きな岩のあるところに、中山道の石の道しるべがありました。

   
中山道碑(蛇岩)
中山道から飯田への分岐

しばらく行くと、伊那谷の飯田への分岐を示す大きな道しるべがありました。飯田への道というのは、藤村の『夜明け前』にしばしば出てくる清内路峠へ通じるものです。

「是より妻籠宿」の看板を過ぎ、地蔵沢橋を渡ると、いよいよ妻籠宿に入ります。
橋手前に鯉岩があり、橋を渡ると高札場があり、水車小屋があります。7年前、ここを訪れた時の記憶がよみがえります。

   
鯉岩
現役の水車小屋

宿場町として重要伝統的建造物を両側に持つ通りには、多くの人で溢れています。ここまで歩いてきた道ではほとんど人に会うことがなかったのに、観光客とみえる人の多さには驚くばかりです。妻籠宿本陣に着いたのは、午後2時過ぎでした。

   
妻籠宿本陣
妻籠宿の町並み

ところで、妻籠(つまご)とはまことに粋な地名ですが、それは何に由来するのでしょうか。
7年前にも同じ疑問をもちましたが、その時の私とつれあいの問答を再録してみましょう。

妻籠の町を歩きながら
「妻籠という名前は、どこからきているんだろう。妻を手籠にするということかな」と私。
つれあいの曰く「妻を駕籠で送り迎えするということじゃないの」
オソマツデシタ。

今回、その由来の一端を知ることができました。
「妻」とは、刺身の妻(つま)、あるいは切妻の妻、つまり建物の長手方向の端、などにみられるように、物事の「端」を意味するそうです。
「籠」は、宿泊するところを意味します。
したがって、「妻籠」とは端っこに位置する宿ということになります。成程、そうなのか。
でも、しからば、何に対して、妻籠という土地は端っこなのか? この疑問は依然と残ったままです。

妻籠宿を後にし、さらに坂を下って大妻籠を目指します。林の中から大妻橋を渡ると、丁寧に整備された石畳の道が続き、視界が開けてきました。大妻籠です。今夜はここの旅館に1泊します。宿着は、15:10。
同宿の人の中に何組もの外人さんを見かけました。この宿は英語のホームページを持っており、外国の人もこれを頼りに宿泊を予約するようです。

南木曽からここまでの歩行距離は、約5.5キロ。本日の総歩行距離は、約10キロということになります。

(3)大妻籠から馬籠宿を経て、落合宿まで(10/30)
今日のルートは、以前に「馬籠宿から妻籠宿へ(2007/09/17〜18)」に書きました。今回は、これを逆にたどるわけです。
宿を出発したのが、7:50。つづら折りの長い石畳道、紅葉の中の男滝・女滝や一石栃白木改番所、そして標高801mの馬籠峠など、見どころの多い、私の好きな道ですが、以前に「馬籠から妻籠へ」で書きましたので、ここでは、写真のみ掲載します。

       
男滝
女滝
林の中の石畳道

       
紅葉のなかを行く
一石栃白木番所跡
馬籠峠

9:45、馬籠峠に到着しました。大妻籠の標高が488mですから、標高差300m余りを登ったことになります。
下りに差し掛かると、多くの人が馬籠から登ってきます。おそらく峠まで行くのでしょう、皆さん軽装で、元気に登っていきます。若い人が多い。

峠の集落が見えてきました。
7年前、その最初の民家の、山から引いた水で野菜を洗っている女性に、水をねだったことを思い出しました。その時、私たちは暑い夏の日に、峠に入ろうというのに、水を持参することを忘れ、のどが渇いて仕方がなかったのです。
その時の状況を「馬籠宿から妻籠宿へ」から引用します。

峠に差し掛かる頃、道の脇の民家で、山から引いた水で野菜を洗っている女性がいました。
たまらず「おかあさん、その水は飲めますか」と問うと、
「この水は出水じゃないから、飲めません」とつれないご返事。
「のどが渇いて仕方がないんですけど」
「それじゃ、家の水をあげますから、入っていらっしゃい」
というわけで、家の中に入り込み、コップ一杯の水をいただきまた。その水のおいしかったこと。
おまけに、「これを持って行きなさい」というわけで、朝採りのキウリ、トマト、ミニトマトをいっぱいいただきました。さらに、ナスまでもらってしまいました。
キウリ、トマトは飲料水を持参しない私たちにとって、本当にありがたいものでした。

なんと、今回、7年振りに、私たちはその女性に再会したのです!
その家から何軒か下ったところで、小さなリュックを背負い、買い物などを入れる押し車を押す老女を見かけた途端、私はあの時の女性だと直感しました。もちろん、顔を覚えているわけではありませんが、それに違いない、という確信がありました。
家を聞くと、この道の一番上だ、という。
もう間違いありません。私は勢い込んで、その時の話をし、お礼を申し上げました。彼女は、もうおほろげな記憶しかなかったようですが、喜んでくれました。
旅にはこのような奇遇もあり、楽しみの尽きないものであることを実感しました。

少し行くと、五平餅の原料米を篩で濾しながら、傍らでサツマイモをふかし、この芋を自宅の庭で売っているおばさんがいました。
1個100円と書いて瓶にお金を投げ入れるようにしてあるのを見て、つれあいは早速、1個買い求めました。2人で半分わけして、歩きながら食べました。美味しかった。これが今日の昼食となりました。

この峠から馬籠宿を経て新茶屋までは、「馬籠宿から妻籠宿へ」に書いたので、詳細は略しますが、ただ一つだけ述べると、
馬籠本陣跡は現在、島崎藤村記念館になっているのですが、ここで、またまた例のご夫婦にお会いしたのです。今日はどこかで会うかもしれないとは思っていましたが、藤村記念館のなかでとは、と感じ入ったことでした。というのは、ここを見学しようとしたのは全くの気まぐれでしたから。

       
熊よけの鈴と水車
馬籠広場から恵那山(2191m)を望む
7年前宿泊した但馬屋旅館

新茶屋の「是より北 木曽路」の碑(藤村筆)をもって、木曽路は終わりますが、私たちは利用する交通機関の関係上、ここからさらに落合宿を目指しました。
この碑のあるところが信濃と美濃の国境です。十曲峠の石畳道を下っていきますが、これが本当に長い。下りきるのに実に30分を要しました。古人の大変な苦役のほどを偲ぶとともに、地元の人々の復元への努力に感じ入ったことでした。

   
[是より北 木曽路」碑
落合十曲峠の石畳道

落合宿の入り口でもある「木曽路口バス停」に着いたのが、午後2時少し前でした。ここでまたまた、例のご夫婦に会いました。この3日間で、4回も会ったことになります。中津川まで歩くそうで、元気なものです。
私たちは意気地なしで、ここからバスに乗って、中津川まで行き、中津川駅から中央線で木曽福島の宿まで帰りました。本日の歩行距離約12キロでした。

(4)開田高原と寝覚ノ床を訪ねる(10/31)
昨日で木曽路歩きはお仕舞にし、今日はもう茅野の山荘に帰るだけです。でも、せっかくだから、御嶽山を拝みたいし、また寝覚ノ床もスキップしたままなので、今日帰る前にこの2ヵ所を訪ねることにしました。

昨夜の宿で同宿だった人に聞くと、開田高原の九蔵峠展望台から御嶽山の噴煙もはっきり見えたと聞き、まずそちらに行ってみることにしました。
もちろん、もう歩きではなく車です。国道19号線から木曽大橋を渡って、県道361号線を飛騨高山に向けて22キロほど登っていくと九蔵峠があります。
数台程度駐車できる場所があり、そこで車を止めてみれば、御嶽山はすぐ目の前です。
残念! 山頂付近には雲がかかっており、最高峰剣ヶ峰(3067m)は見ることができません。快晴の日は昨日で終わり、今日は曇り日です。
でも、いくつかの峰は望むことができ、またその雄大な裾野の紅葉が実に見事でした。

       
開田高原から御嶽山を望む
寝覚ノ床(1)
寝覚ノ床(2)

次に、来た道を引き返し、今度は寝覚ノ床を訪ねました。
駐車場料金500円、入山料200円(ここは、臨川寺の境内を通らなければ入れません)を支払い、まずは境内から線路越しに全体を見下ろします。紅葉のなか、写真などで見慣れた風景が広がります。奥の方に、浦島堂が見えます。

境内から線路をくぐって下の方へ行くことができるようなので、行ってみました。この岩塊の累々と重なる様は、まさに圧倒的です。岩の上についた足跡を頼りに、八艘飛びよろしく浦島堂前の床岩の上まで行ってみましたが(稚気の至り)、いささか怖かった。
すぐそばに公園が整備されており、ここの紅葉も素敵でした。

1時間も堪能したでしょうか、そのあとは4日前に来た道を、権兵衛峠――伊那――高遠――杖突峠を経て、茅野まで帰りました。
今度の旅は、全行程天候に恵まれ、紅葉も盛りで、十分に満足できる旅となりました。


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