昭和36〜40年(結婚してから)
- 8. 新たな道へ
結婚し家庭をもって、自分の将来に思い惑っていた頃、日本経済も石炭産業も激動の時代を迎えていた。
昭和39年(1964)、東京オリンピックの開催に日本中が沸き立っていたが、我が石炭産業界は構造不況産業と位置づけられ、すでに昭和32年頃から閉山する炭鉱が出始めていた。エネルギー供給の主体が石炭から石油へと移る「エネルギー革命」が急速に進展していたのである。
昭和38年に政府は第一次石炭政策を開始し、石炭鉱業のスクラップ・アンド・ビルドの施策を強力に推し進めた。
私の所属する平和炭鉱は、厚炭層をもつという有利な自然条件の下に、高度の機械化を積極的に推進して高能率を誇り、増産に次ぐ増産を続けていたが、将来について不安がないわけではなかった。
鉱務課設計係として勤務していた私は、鉱区の可採埋蔵炭量から推定して、これから先の操業可能年数をある程度予測することができた。それは期待するほどの長い年数ではなかった。
現在の生産規模を将来にわたって維持するとすれば、更に高深度へ向けて新鉱を開発する必要があることは明らかであった。それには膨大な投資資金が必要であり、会社としてそれに耐えうるか否か、疑問に感じざるを得なかった。
多くの大卒同僚が、先輩であると後輩であるとを問わず、また事務系と技術系とを問わず、新しい職場を求めて去っていった。ある者は商事会社へ、重工業メーカーへ、通信建設会社へ、あるいは公務員となって、次々に会社を去っていった。
親しかった広一が「自分も退職する」といい出したとき、私はよほど大きなショックを受けたのだろう、共同浴場から下駄を履き間違えて帰り、妻に叱られたほどである。(注:広一は、大手重工業メーカーに転職し、その製品およびプラントの優れたセールス・エンジニアとして、世界中を駆け巡った。)
私もいささかあせってきた。でも、転職するとして、鉱山技術しか知らない私に何ができるか。
一つだけ目当てがあった。I.E.(インダストリアル・エンジニアリング)である。
薄層採炭の計画を任され、そのホーベル・プラント設計のために、人員編成計画、標準作業方法と標準時間の設定に苦心していた私は、そのための方法論としてI.E.なる学問分野のあることを知って勉強していた。
昭和38年末ごろからかと思うが、産業能率短期大学の通信教育課程に入学して学んでいた。大学出の私は科目別履修のできる聴講生でもよかったのだが、あえて正規学生として入学した。
「生産管理論」「作業研究」「時間・動作研究」「プラント・レイアウト」、それに「簿記・会計」などを履修し、レポートを提出、添削を受けるなどしていた。
履修生には、同短大出版部の発行する月刊経営誌『マネジメント・ガイド』を購読することが義務付けられていた。
その雑誌のある号に、同短大経営管理研究所の研究員募集の広告が載った。でも当初は、それに応募するなどという気持ちからは程遠かった。
第一、いま勤務している北炭とは事業規模が象と蟻ほども違う。第二に、私のいままで習得してきた技術と経験とは全く異なる職業に就くことになる。I.E.はまだ勉強を始めたばかりだ。
しかし、多くの友人・同僚も次々と転職していく。私は次第に迷ってきた。そして、どんどん迷いは深くなっていった。
家に帰って来ては「つらい、疲れた、疲れた」と、毎日毎日こぼしている私を見ていた妻の一言が、私の背中を前へ一押しした。
「お仕事が大変で疲れてるのはよくわかります。でも、そうやっていても事態はちっともよくならない。今の仕事がお嫌なら、研究員に応募してみるべきよ」
私は応募書類に、生産管理論のテキストの執筆者であり、私の尊敬する玉井正寿教授への手紙を添えて、同短大に送った。
返事はすぐ来た。
昭和40年(1965)1月、私は東京に飛び、羽田空港内のホテルに宿泊、翌日、世田谷区等々力にある同短大に出向いて、面接を受けた。
学校法人産業能率短期大学付属経営管理研究所というものの、実態は経営管理研究所が本体で、短期大学はその付属学校のようなものだった。しかも夜間部だけで、学生は社会人がほとんどだった。
また、経営管理“研究所”というものの、自主研究プロジェクトはないに等しく、実態は企業・官庁などから受託する調査研究・経営診断を行うコンサルティング機関である。このことは私も事前に承知していて、そのコンサルタントとなることが、私の希望であった。
研究所は、経営戦略、生産管理、マーケティング、人事管理、会計・財務、独創力開発などの部門に分かれており、私は生産管理部門を希望した。
面接時、即決で採用が内定した。
給与は今より大幅に下がり、いささか不満が残ったが、勉強中の身であり、ぜいたくはいえない。4月ごろの入職を約して、その日の夕方、羽田から千歳空港へ、そして自宅に帰った。
会社に退職の意志表示をしなければならない。
2月16日、平和炭鉱鉱長室に出向いた。その日は厳冬の2月にしては珍しく暖かい日だった。道すがら、道端の雪が溶けて滔々と側溝に流れ込んでいた。
鉱長には強く慰留されたが、私の決心は変わらなかった。
2月22日、隣接する夕張炭鉱でガス爆発が起こった。殉職者は、61名に上った。
2月末、正式に人事部に3月31日付で退職したい旨の願いを提出した。
前に述べたように、当時、私はホーベル採炭現場で先任係員として働いていたが、鉱長から以後出社に及ばすと、入坑を差し止められた。
「退職間際の人間に、万一怪我でもされたらかなわない」から、残している有給休暇をフルに使え、ということであった。
お言葉に従って、私は出社することを止め、東京へ向かうまでの10日間ほどを無為に過ごした。今やるべき仕事はない、かといってこれからやるべき仕事も今はない。全くの宙ぶらりんの状態である。
義務として、あるいは決まりとして、やらなければならないことは何もない。一日中寝ていてもいいし、昼間から映画を観ていても、本を読んでいても、札幌に遊びに行っても、誰にとがめられることもなく、全くの自由だ。
この解放感は何だろう。あり得ないような不思議な感覚で過ごした10日間だった。全くの自由とはこういうことなのか、とさえ思った。
でも、その10日間はあっという間に過ぎ、昭和40年(1965)3月下旬、私は妻と2人の幼い子たちを伴って、津軽海峡を渡り、東京へ帰った。
そして、この9年間の遅れ(それは、充実した9年間ではあっても、これから従事する職業から見れば空白の9年間である)を取り戻すべく、がむしゃらな人生が始まるのだった。
後日談
北炭平和鉱業所に新卒社員として入職した同期6名は、その後どうしたか。
1名は、残念ながら、若くして死去した。
1名は、東京本社へ異動、その後関連会社に移り、再び北海道に帰ってくることはなかった。
私を含めて3名は、勤続10年前後で退社転職し、東京に移った。
正吉1人が、苦難の北炭を背負って勤務を続け、最後は会社更生法の適用を受けた北炭分社7社のうちの1社の代表取締役に名を連ねた。いま、札幌で病躯を養っている。
平和炭鉱は、昭和43年(1968)に坑内火災を起こし、殉職者は31名を数えた。そして、私の退職10年後の昭和50年(1975)に閉山した。
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