昭和36〜40年(結婚してから)
- 7. 家庭生活
昭和36年(1961)4月、私は結婚した。
2戸建社宅の一角で新婚生活が始まった。平屋木造で風呂はなく、近くの社員共同浴場を利用する。
家財道具一式が運び込まれ、何とか家庭の恰好はついた。鉱務課設計係として忙しくしていた時期だったが、1週間だけは残業も免除で、私の分は同僚たちがカバーしてくれた。
そのころから、本気で転職のことを考え始めていた。あと、2年経って実務経験7年になれば、技術士受験資格ができるから、その資格を取って、独立しようと本気で考えていた。
夕張から飛び出し(というより、逃げ出しといった方がいいかもしれない)、「東京へ、妻とともに、そしてコンサルタント事務所を開く」 などと当時の日記に書いている。
時代は、一層、高度成長のピッチを速めて来た。
昭和37年(1962)、東京の常住人口は1,000万人を超え、世界一の都市となった。
ここ夕張の地は、そうした時代の高揚した気分とは無縁であった。
そして、仕事は過酷で、時に一切を投げ捨て逃げ出したくなることもあった。私は東京に帰って、もっと華やいだ仕事と生活がしたかった。妻の顔を見ると、ますますその思いが強くなっていった。
しかし、そんなチャンスは訪れず、時は過ぎていった。
結婚してちょうど1年後の昭和37年(1962)4月29日、長子が誕生した。
生まれる前、予定日を過ぎるころ、「絶対、結婚記念日に生まれるよ」 と、半分冗談ながら、妻に暗示をかけていたら、その通りになった。
1962/05/11の日記から
「4月29日午前4時10分、マサミは生まれた。そのとき、夜はしらじらと明けかかっていた。雨が音もなく降っていた。緊張感から解放されたせいもあって、俺は窓から外を眺めて、喜びにつき上げられていた。
サッチは夜7時ごろから痛みが本格的になってきた。産婆さんに自宅に来てもらったとき、12時半ごろ、5〜10分おきに痛みが来た。その合間には笑っていた。産婆さんも山本(向かいの家の友人)の奥さんも、そのころ、これはまだまだと思っていたらしい。
しかし、次第に痛みが強くなってきた。自分は子供を産む資格はないとか、どうしてこんなに痛いんだろうとか、何度も何度も我慢し、頑張っている彼女を見るとき、何の因果でサッチはこんなところで、ただ一人苦しみもがかねばならないのか。俺は何もしてやることができない。せいぜい手を握ってやるくらいのものだ。
彼女は健気だった。むしろ崇高でさえあった。強烈な印象。
マサミは全身が出るや否や、大きな産声を上げた。産婆さんが母親の手当てをしている間中、大声で泣いていた。
サッチは涙を流しながら「泣いている、泣いている」といって、自分も泣いていた。よくやった。心から頭が下がる思いがした。
赤ちゃんは思ったより小さいもので、きれいでもない。けれど、今までこの世の中に存在しなかったものだ。この日、初めてこの世に造られて出てきたものだ。不思議な印象だった。
あたかも夜が明けかかっていた。産婆さんが5時ごろ帰って、また山本の奥さんがやって来て、昨晩の食器の後片付けをやってくれた。
その間、俺は雨の中に明け行く外を眺めながら、酒を飲んだ。喜びが体中に染み渡った。
いま(5月11日)、夜はもう10時半だが、サッチもマサミもよく眠っている。今日で生まれて13日目。
子供を抱いて満足そうに、わかるはずもないのに話しかけているサッチの顔は、俺がもう一度見直すほど、美しい。彼女は健気な、りっぱな女だ。
俺は幸福をかみしめている。育児については、俺達2人とも一年生だが、マサミはどうしても立派に育て上げなければならない。俺たち3人はしっかりと結ばれた家族なのだ。
こんなにしみじみとした溢れるような思い、幸福感を味わうことのできるのは、それこそ何年振りだろう。」(日記終わり)
そして、2年後、昭和39年8月24日、今度は女の子、ジュンが生まれた。
やはり自宅で産婆さんに取り上げてもらったが、このときは妻の母が来て、世話をしてくれて助かった。
1964/09/28の日記から
「こうして日記をつけるのも1年ぶりだ。
サッチは風邪をひいて、7時ごろから寝ている。マサミは仕方なく、俺と一緒にテレビの「鮫と小魚」を見ていたが、寝てしまった。
ジュンは生まれてやっと1ヶ月。俺も大家族になった。
いま、一人でウィスキーを飲んでいる。俺は孤舟の新米船頭だ。俺の前には広い広い海が広がっている。
寒くなってくると、あれこれと思い出す。いまでも惑っている。40にして惑わず、というから、30歳の俺はまだまだ惑っていいんだろう。
ホーベル採炭にかけてみよう。辞めちまったっていいんだから。」(日記終わり)
いつのことだったか、私は仕事の都合がつかず、妻と子供たちを札幌に送り出したことがあった。
妻は生まれて数か月の赤ちゃんを片方の腕に抱き、もう一方の手で2歳の子の手を引き、混みあった電車に突っ込むようにして乗り込んでいく姿を見た時、涙が出そうになった。
女は、いや母親は、というべきかもしれない、実にたくましく強いものだ、と感じ入った。
同時に私は、家族というものをはっきりと認識した。そして、その家族を守るべき責任といったことを思い知ったことであった。
独身時代の、いわば「北帰行」の世界から、私は次第に遠ざかっていった。「窓は夜露に濡れて、都すでに遠のく」と、感傷に浸っている時ではなかった。
私は妻と2人の子供を抱えて、生活を立て直す覚悟を決めなければならなかった。
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