昭和36〜40年(結婚してから)
- 6. 鉱山技師として(2)
昭和35年(1960)、鉱務課設計係に転属になったことは前に述べた。
この係は、鉱業所傘下の4炭鉱の短長期操業計画・坑内設計を担当する係だが、ここでは私がかかわった2つの仕事について述べる。
一つは北部排気立坑の開削であり、もう一つは薄層採炭の計画と実施である。
平和二鉱は新鉱のため、年とともにその生産規模を拡大してきた(逆に、一鉱は昭和39年終堀を念頭に、その規模を次第に縮小しつつあった)。
以下に、平和炭鉱全体の出炭量・人員・能率を示すが、その多くはほとんど二鉱のものである。(「北炭労働運動百年史の栄光と悲惨」北海道炭鉱汽船兜S年史編纂(三)による)
このように急速にその生産規模を拡大し、また当時の日本の炭鉱としては屈指の高能率を誇った。
立坑開削
この規模の拡大に伴い、生産現場は次第に深部へ、北部方面へと展開され、坑内通気に問題が生じてきた。この問題解決のため、北部排気立坑の開削が計画された。
私に与えられた課題は、この排気立坑の開削によって、二鉱全体の通気がどのように変化するかを予測することであった。
炭鉱坑内は坑道が網の目のように張りめぐらされており、排気坑口に設置された扇風機によって作業現場各所に強制的に通風する。
坑道はそれぞれ特有の空気抵抗をもっており、これによって通風量が制約を受ける。どれだけの風圧を掛ければ、どれだけの風量が確保できるか、坑内ネットワーク上の各現場ごとにその通風量を計算するのが、通気計算である。
現状の坑内ネットワークに、新たに外部と接続する排気立坑を付け加え、そこに新しい扇風機を設置した時、坑内各所の通風量はどのように変わるかをみるために、通気シミュレーションを行う必要があった。
(半世紀も前の話で、知識も記憶も薄れてしまっているので、もし記述に誤りがあれば許してください。)
まず、坑内各坑道の空気抵抗を知る必要がある。
坑道の始点終点間の現状の風圧差と、そこを流れる風量を求めるために風速を測定する。風速に坑道断面積を掛ければ風量が求まる。
坑道の空気抵抗は、この風圧と風量から求められる。電気回路であれば、電気抵抗は V=IR(V:電圧、I:電流、R:抵抗)の等式から、V と I を与えれば求めることができる。
空気という流体の場合も基本的には同じであるが、風圧と風量の関係が電気回路と異なり、一次式の関係ではなく、1.5乗に比例する(このあたり、アイマイである)といった関係にあり、一層複雑である。
とにかく、曲がりなりにも各坑道の抵抗値(具体的には、風圧差と風量)を求めたうえで、シミュレーションを行わなけれならない。現在であれば、直ちにコンピュータ・シミュレーションということになろうが、当時はその知識もなければ、コンピュータそのものもない。
しかし、東京・浮間の国立資源技術試験所にその設備があった。但し、デジタル・コンピュータではなく、アナログであった。
私は測定したデータを携えて試験所へ出張し(久しぶりに上京するのが嬉しかった)、指導を受けながら計算を行った。一つ一つの坑道をエレメントとして、電気メーター上で風圧と風量の関係を示すグラフを設定し、それを現状の坑内ネットワークに従って電気的に配線していく。
そしてスイッチを入れれば、各坑道の風量が表示される。排気立坑に設置する扇風機の容量を変化させれば、それに応じて各坑道の風量が示される。
それらの数値から、設置すべき扇風機の容量を定めることができ、また坑内ネットワーク上のネックを知ることができる。
開削予定の排気立坑に扇風機を設置しない場合のケースも計算したが、計算上は僅かに入気となる結果になった。
後日のことになるが、事実はそれと異なり、立坑貫通直後、この立坑からは逆に僅かに排気となることが観測された。私は面目を失ったが、入気、排気いずれにしろその量は僅かであり、微妙な境目にあったのだろうと、自分を慰めたことであった。
こうしたことがあって、薄々予感はしていたが、できれば避けたいと思っていた発令があった。
昭和38年(1963)4月、鉱務部所属のまま北部立坑開削係を命じられた。
組織としては、課長代理をトップに開削主任が作業全体を統括する。主任の下に3人の係員(私もその1人)が1週おきの三交代で勤務する。
作業自体は鹿島建設の請負作業で、直轄鉱員は巻揚機の運転手だけである。作業の指示管理は請負業者の係員が行うが、発破だけはわれわれ北炭係員がやらねばならない。また、安全管理と仕上検収もわれわれ社員の責任である。
立坑の仕様は、仕上り内径4.8mの円形断面で、垂直に延長470mを掘削し、コンクリート・ブロック積みで仕上げる。
作業は、まず掘削――穿孔・発破・ズリ積み出し・仮枠付け――で、1方(かた)に1.2m掘り下げる。これを3交代で20〜30mほど掘り進んだら、次はコンクリート・ブロック積み――仮枠外し・型枠付け・ブロック積み・裏打ち・養生後の型枠外し――。これを繰り返して、地表下470mまで進める。
固い地層では計画通り順調に進むが、透水層にぶち当たると何日も、場合によっては何週間も作業が停滞する。
異常出水によって現場が完全に水没したこともある。そうした時は掘削作業は全面的に中止し、水止め作業に専念する。何本も岩盤に穿孔し、凝固剤を注入する。セメント注入くらいはわれわれでもできるが、それではとても間に合わない場合は薬剤注入の専門業者を呼び寄せ、彼らに頼らざるを得ないこともあった。
それでもブロック積みが完了するまでは完全止水することは難しく、坑底での作業は土砂降りの雨の下で行うも同然となる。全員、びしょ濡れだし、発破も水中で行うのと変わりない。
そして、全工程、水との闘いであったといってよい。
とにかく過酷な作業である。まっすぐ垂直に開削していくわけだから、その下方の作業場では常に落石の危険にさらされる。
当然、ヘルメットをかぶっているのだが、たまたま上を見上げた時、落石によって頭を直撃されれば、一巻の終わりである。現に、それによってこの立坑開削中の1年半ほどの間に、2名の尊い命を失ったことは忘れることができない。
この作業現場への通勤がまた楽でなかった。現場は山の中にあり、雨の日も、雪の日も、昼夜を問わず、社宅まで迎えに来てくれるジープで通いつめる。三番方の時など、吹雪の夜を思い切り気合を入れて出掛けたものだ。
着工から1年半、貫通予定日が近づくと、坑底ではこころなしか岩盤の向こうにピックの音が聞こえる。貫通間近であることを知る。
いよいよ貫通当日。相手方の横坑にはエライ人も控えているらしい。ピックの一突きで人間が通れるほどの穴が開いた。芯芯の差で20〜30センチ程度の食い違いで、測量に大きな誤差はなかった。
向こうからこちらの立坑底へ何人もの人が入ってきた。期せずして、みんな「万歳! 万歳!」を叫んで、喜び合った。
私も深い感慨に襲われていたが、一つ気にかかることがあって、それに浸っていることができなかった。
それは、貫通の瞬間、空気がどちらに流れるか、ということである。私の予想と異なる方向に、突風のような風が吹いたら、通気計算を行った私の面目は丸つぶれである。
その心配は杞憂だった。風はそよと、私のほほを撫でるだけだった。
薄層採炭
北部立坑完工後、私は再び平和二鉱へ転属、採炭係を命じられた。
平和鉱の鉱区には、上から平安八尺層と十尺層という厚い平層があって、その採掘条件の有利さから、高能率を維持してきたことは冒頭に述べた通りである。
実は、この八尺層の上にもう一つの「上炭」と称する炭層があり、厚さ90pと薄いため採掘が難しく、放置されていた。
もちろん、時にこれを採掘しようと試みられたことはあり、その時はその狭い空間での人力作業は困難なため、プラウと称する鋤のような機械を長壁に沿って上下させて採炭する方法が試みられたことはあったが、うまくいかなかった。
再び、この薄層にチャレンジしようという機運が高まってきた。この鉱区の石炭埋蔵量の有限なことを考えれば、採れるものは採り、少しでも炭鉱の寿命を延ばさなければならないとの経営判断であったろう。
私は鉱務課設計係在籍中から、この薄層の採炭計画作りを指示されていたから、いざ実施となれば、その担当者になることは覚悟していた。
この設計段階で、私は多くの勉強をした。
採炭機は、ドイツ製のライスハーケン・ホーベルを導入することが決まっていた。支柱は、これまでの摩擦鉄柱ではなく、水圧鉄柱を採用することも決まっていた。
私の仕事は、上炭という薄層の自然条件の下で、これらの機器を使って採炭する作業場の設計(ホーベルプラント・デザイン)をすることだった。
炭層長壁の長さをいくらにするか――ホーベル本体は切羽運搬機であるパンツァコンベアをガイドとして切羽を上下に動きながら炭層厚さの下半分くらいを削り取り、自動的にパンツァに積み込む。残された炭層上部はパンツァ上に自然崩落(するはずだが、なかなか落ちないこともある)して運び出される。
パンツァコンベアはホーベルが削り取った後へ、直ちに水圧ジャッキで炭壁際まで押し付ける。
天盤が空き次第カッペを延長し、水圧鉄柱で支える。後ろの鉄柱は順次回収する。
以上の作業サイクルのなかで、採炭員はどの作業を、どういう手順で、どれだけの時間をかけて、作業すべきか、しかも作業中、立つことができず、座ったままである。これまでの厚層採炭とは異なる作業を要求されるわけである。
基本的には、厚層採炭における先山・後山のペア作業ではなく、一人ですべての作業をこなす個人作業とすべきだろうと考えられた。
それをベースに人員編成計画と作業手順書をつくらなければならない。採炭員のなすべき仕事を要素に分解し、その作業要素ごとの所要時間を見積もらなければならない。
作業研究、時間研究が必要である。私は必死でI.E.(インダストリアル・エンジニアリング)を勉強した。
そもそも、この炭層の場合、ホーベルはどのようなスピードで動かすことが可能か。切込みはどの位の深さが可能か。
プラウの経験からすると、プラウの刃に石炭がねばりつき、団子になって切削効率を著しく阻害することが分かっているが、ホーベルではそんなことはないのか。
私は、金属切削の論文など読んでみたが、あまり役に立たなかった。
あらましの計画は立てたが、要は「やってみなければわからない」ことに落ち着いた。
いよいよ、ライスハーケン・ホーベルがドイツからやってきた。ドイツ人技師が一人ついてきて、坑外で試運転となった。
見れば、海を渡ってきたせいか、いたるところサビだらけで赤茶けている。「こんなものを・・・・」と不満顔の私に、ドイツ人技師は「使っていけばピカピカになる」という。まあ、そりゃそうだろうよ。
「やってみなければわからない」ということは、標準作業量を決められないということだ。作業をやりながら、One Best Way"を見い出し、その標準作業時間を決めていく。
となると、計画の責任を負わされている私が、現場に出る外はない。
というわけで、昭和39年(1964)から始まった薄層ホーベル採炭の先任係員として、現場に張り付くことになった。
この頃、八尺層、十尺層などの厚層採炭現場にはドラムカッターという採炭機が導入され、ピックによる人力採炭はほぼ姿を消し、目を見張るような高能率採炭を実現していた。
当方は、ホーベルという、これも人力を排除した機械採炭ではあるが、何しろ炭層厚さ90pという薄さである。
作業手順も通常のパターン化された手順ではなく、ホーベルの動きに合わせて、切残し炭の処理、コンベア移設(押付)、カッペ延長、鉄柱立付け、回収の作業を、現場状況に合わせて臨機応変に行わねばならない。
切羽状況、コンベアの運転状況の点検確認のため、係員はロング切羽を往来するに這うしかなく、それだけで大汗をかく。
機械は期待以上に順調に動いた。
弱ったのは、跡山の天盤が崩落しないで、次第に沈み込んでくることだった。崩落してくれれば、それで天盤のひずみが解消し、鉄柱にかかる圧力が減るが、自然に沈降してくると、鉄柱に異常な荷がかかってきて、最悪の場合、切羽空間全体が押しつぶされてしまう。
対処方法は、跡山天盤に発破をかけて強制的に崩落させることである。採炭作業中はできないから、この発破作業は他の番方にお願いする。
上添坑道・ゲート坑道は、薄層だから小さくてよいというわけにはいかない。通常の高さを維持しようと思うと、炭層上下の岩盤に食い込んで掘進しなければならず、これまた余分の工数を必要とする。
あれやこれやで、切羽現場そのものはホーベル採炭で機械化されたが、その周辺の作業が通常のロング切羽より余計に工数を必要とし、炭鉱全体の能率の足を引っ張っていただろうと思う。
とにかく、3ヶ月ほど経った頃、ようやく作業方法が確立し、標準作業量らしきものを設定できるところまで来た。
その後も比較的順調に採炭は進んできたが、昭和40年(1965)3月、私は北炭を退社することを決意し、この採炭現場を離れた。
北炭入社以来、新入社員教育の1年を除き、8年間にわたり、炭鉱技師としてさまざまな仕事に携わってきた。ロング採炭あるいは立坑開削、薄層採炭など、どれをとっても作業としては真に過酷なもので、家に帰っては毎日、妻にこぼしてばかりいたらしい。
たが、技術者としては多くのことを学んできたと思う。この若い時期に養われた“技術屋魂”とでも呼ぶべきものは、その後の職業であるコンサルタント、大学教員のなかでも生き続けてきたと確信している。
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