昭和30年代の私的物語

昭和31〜36年(独身のころ)


5. 読書日記

恥ずかしさを抑えて、この時代に書き留めた日記の一部を、ここに書き写す。
自分勝手な本の読み方、青臭い議論、メチャクチャな論理、そしてとんでもない妄想など、恥ずかしさに耐えられない。
それでも、これは、自ら飛び込んだ泥沼に足をとられ、“もう一つの道”を求めてあがき続けていた私の人生の一コマなのだ、と自分に言い聞かせて、あえてここに書き記す。
(カッコ内の書名は、のちに調べて挿入したもので、そのほとんどは今、手元に残っていない。また、書名のわからないのもあり、その場合は著者名だけを記す。)

昭和32年(1957)
05/03
(五味川純平『人間の条件』三一書房 1956)
梶は、その生活を呪い、苦しんでいる。しかし、彼には、たとえ彼の立場がセンチメンタル・ヒューマニストであるとしても、彼には鋭く対立するものが存在し、彼はすさまじい闘志をもって、それにぶつかり、闘っている。
彼は、自分で望むような生活、例えば越境してソ同盟のなかで暮らすとしても、これほどの張りのある、起伏の大きな感情を味わうことができただろうか。

俺は、俺に鋭く対立するものを東京に置いてきた。だから、生活に張りも起伏もない。

09/15
平和二鉱零片第6ロング係員 藤田恒夫
月収1万5000円〜2万円 24歳 独身  貯金なし。

人間のいるところ、必ず人間はいるか。高校時代には耕平がいた。大学では陽王がいたし、実三もいた。そして多くの友がいた。
いまは恋人もいない。ヤマへ来て1年以上たつのに、いまだに友を求め続けている。

11/17
この雪解けにぬかるむ道が気に入らない。この狭い谷間の薄汚れた街が気に入らない。
北海道は、どこまでも見渡すかぎりの緑の平原が売り物ではなかったのか。粉雪の舞う美しい山並みこそが北海道ではなかったのか。

12/13
異様な地下労働。
人間の生活サイクルを無視した三交代勤務。それは、1週間おきに三番方、二番方、一番方と繰り返す。

多くの友から切り離され、政治や社会、そして運動から切り離され、学ぶことからさえ見捨てられ、毎日毎日、仕事のために地下に潜る。
「北帰行」―――「窓は夜露に濡れて、都すでに遠のく」。俺は東京を離れ、津軽海峡を越えて夕張にやって来た。
ここでは「ゆうばり、喰うばり、坂ばかり、どかんとくりゃ死ぬばかり」と、人は唄う。

既に、人工衛星が2個、地球の周りをものすごいスピードで廻っている。

「深志野英二は、正夫がそのように矛盾する二つの世界のあいだを反復往来しながら、しだいに疲労していくさまを、しずかに傍観しつづけ――もちろん、自分こそがもっともその青年に反感をもたれているということなどには、いささかも心を動かすことなしに――最後に、適当と思われる時期に、彼の網を投じて、その放浪者をすくい入れたのである。」(阿部知二)

昭和33年(1958)
04/30
(霜山徳爾『明日が信じられない――幸福の条件』光文社 1958)
いま、二番方(3:00pm〜11:00pm)だから、本を読む時間がある。

まじめに仕事をし、一人読書し、仲間と好きな山に登り、テニスやスキーを楽しむ傍ら、大酒を喰らい、キャバレーで遊び惚ける。
そうやっているうちに、二、三年はすぐに経つ。

07/04
きっかけは陽王からの手紙だった。彼の結婚と大学院進学。それに、高多の修士論文報告会。
動揺した一日。
俺の生活の現状と未来。俺の一貫しない思想。

俺の生活は何を中心として旋回しているのか。
中心がない。――はたして、まるっきり中心がないのか。
お前の回転はエキセントリックか。――そうじゃない。人に威張れるほど、エキセントリックではない。
やっぱり中心がある。強制による求心力、慣性力による回転。

07/12
この間から、急に山に行きたくなった。ニペソツか、ウペペサンケか。

いま、素晴らしい計画が俺の頭の中に熟しつつある。
雨に降られて登れなくても、その小屋で暮らしただけで満足して帰って来られるような山小屋。窓から雨と霧を眺められる小屋。
夕張から、できれば5時間くらいで行けて、山にも登れ、見るだけでも楽しめ、できれば湖のほとり、読書などで長逗留もできる。
あるいは、週末にドライブしてくる外人でも迎えられる程度の設備と料理、そして小屋の半分はつつましいハイカーたちがごく安く泊まっていけるように簡素にしつらえて開放する。

そして結婚し子供ができたら、毎夏ここに来て、家族で山登りや魚釣り。冬にはスキー、夜は好き者同士で碁や将棋をやるのもよかろう。ギターを弾くのもよし、レコードを聴くのもよい。
灯りは、素朴なランプがいい。

退職したら、退職金を注ぎ込んで大改造し、スイスにあるような立派な山小屋ホテルにしてもよい。
そのような土地は、おそらく日本ではもう北海道にしかあるまい。
しがないサラリーマンの突飛な夢の、また夢のような夢物語である。

(後日談:とんでもない妄想だが、それから43年後、私は信州白樺湖を下ったところ、車川の渓流のほとりに小さな山荘をもった。そして、素朴なランプも備えた。)

12/10
「「登山の本質は頂上を極めることにあるのではなく、困難に打ち勝つためにいかによく闘ったかにある」というマンメリーの言葉にぶつかったのは、涸沢の夜からほぼ一年たった後である。
その一年間、一日か二日の行程で気楽に登れる山ばかりに出かけていた身には、その言葉は電撃的なショックであった。寂しい気持ちをおさえながらも、社会人という制約のもとで安易な気持ちで登っていた今までの山の登り方に大きな刺激を与えたのである。」
「何回も撃退されながらも、一つの岩壁に青春をかけて冬期初登攀に成功した友達を知っている。
僕らが冬の穂高に入っていった時、夕暮れの徳沢を風雪に浮かぶ奥又白谷を背に一人で去っていく男がいたが、それがその友達であった。「今度も駄目でした。けれども荷はそのまま池に置いてきてありますから、三月には登ります」といった時の目の輝きは決して忘れることはできない。このとき、僕らは彼の憑かれたような情熱には深い感銘を受けたが、その情熱を理解することはできなかった。
だが今、こうして撃退された岩壁を見ながら、今度こそ登りたいという気持ちがしだいに深くなっていくのを知ったとき、これが登攀者の運命だと気付いたのである。」(井上靖?)

こうした一流の登山家、芸術家、宗教家、科学者、革命家の持つ情熱こそが世界を動かすのだろう。
僕は一流の登山家でもなければ、芸術家でも宗教家でもない。もちろん、革命家などであるはずもない。一介の炭鉱技師であるにすぎない。
「一つの岩壁に青春をかける」ほどの情熱を傾ける対象を持たない。

資本主義社会の、大企業の経営の末端に位置し、やっていることは労働者の監督である。そうすることを止めたら、止めた僕は会社から必要とされない。そうなれば、そこで僕の糧食の道は断たれる。
けれども、僕は僕であることを止めるわけにいかないではないか。

昭和34年(1959)
02/26
「こんな生活はいけない」、そして「それはだれの責任か」
「友よ、君たちはまずい生活をしている。そんな生活をしているのは恥ずかしいことだよ」(チェーホフ)

「・・・・・起床、電車、事務所あるいは工場での四時間、食事、電車、労働の四時間、食事、睡眠、そして同じリズムで繰り返される月火水木金土、この道は容易に時間の大部分続いていく。
ただある日、《なぜ》が身を起こし、そして驚きに染められた疲労のなかで一切が始まる」(カミュ)

03/17
(J.ケッセル著・堀口大學訳『幸福の後に来るもの』新潮社 1952)
異常な情熱をもって読んでいたのに、最近、第4巻「石膏の人」にいたって、ピッチが落ちてきた。理由は、俺には理解できない時代に入ったから、俺にそのような体験がないから。
俺はどうやら新しい転機が訪れるのを待ちわびているらしい。しかし、俺一人の力だけで俺の生活が変えられるものではない。それが分かった。
昔はそうではなかった。俺は、俺の意志だけで生活を変えることができると信じて、そのように行動した。
事実はどうだったか? 俺の大きな転機はすべて他から、俺の望みとは何の関係もなくやってきた。
もちろん、その場に臨んで俺がそれを素直に受け入れたかどうかは別だ。恐れおののき、ただ恥ずかしさだけからそれを受け入れたことがあった。考え考えの果てに、自分を説得して受け入れたこともあった。

純粋に自分の努力だけでかち得たものがあるか?――大学進学はそれだったかもしれない。
しかし、俺は、生活の転機は他からやってくるのだと思う。
自分の努力を回避しようとするのではない。俺のような人間は、他からの働きかけがなければ動きが取れない。
誰だって、そうではないだろうか。小さな働きかけに大きく感応できる人ほど偉大な人なのではないだろうか。

雨に濡れたアスファルトの道を照らす自動車の灯り。
自動車の灯りに照らされた舞い落ちる雪。
雪に煌めく峰々。
これは尻取りクイズでしかない。

03/25
春闘無期限全面ストに突入以来、3日を経過した。
新婚の同期の家で、正吉やそのほかの人たちを含めて5人で話し合った。妙な具合だった。議論はかみ合わなかった。

ケッセルも読み終わった。――リシャールほどの人間も遂に不幸の環を断ち切ることはできなかった。
まして、俺などの、結局は無為に終わる努力など無駄なのだろうか。

そうではあるまい。生きている間には解決できないかもしれないが、その努力の過程にこそ人間の美しさがある。
それは、どこまでも無限に、永久に絶対点に到達できない漸近線。
とすれば、やっぱり俺には勇気がないのかな。

05/23
「時々、私は空を見上げた。そこでは星の光が薄れていく暗い雲の後から朝焼けが始まっていた。私の精神は、それが以前の正常な生活では決して知らなかった、驚くべき生き生きとした想像のなかでつくりあげた面影によって満たされていたのである。
私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る。私は彼女の励まし勇気づける眼差しをみる。――そしてたとえそこにいなくても――彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。
そのとき私の身をふるわし、私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、生まれて初めてつくづくと味わったということであった。すなわち、愛は・・・・・・・・」
また
「君はまだ想い出せるかい?・・・・・どんなに私が当時、子供のように泣きじゃくる君を無理に強いて、一言一言私の口伝えの遺言を暗記させたかを。・・・・・
私がかつて、どうして彼の飢餓浮腫が癒えたかを聞いたある友は、比喩的に次のように言った。「私がそれに泣き抜いたからです」と。」(V.E.フランクル著・霜山徳爾訳『夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』みすず書房 1956)

11/07
会社を休んで、ビールにウィスキーを混ぜて飲んでいる。リンゴにマヨネーズをかけて肴にして。
いま、ラジオはジャズをやっている。

俺は涙して、『きけ わだつみのこえ』を読む。
・「昭和20年 23歳で沖縄沖戦死 海軍中尉」
あるいは
・「悲しい護国の鬼たちよ!
すさまじい夜の春雷の中に
君たちはまた銃剣をとり
遠ざかる俺達を呼んでゐるのだろうか
ある者は脳髄を射ち割られ
ある者は胸部を射ち抜かれて
よろめき叫ぶ君たちの声は
どろどろと俺の胸を打ち
びたびたと冷たいものを額に通わせる
黒い夜の貨物船上に
悲しい歴史は空から降る
明るい三月の曙のまだ来ぬうちに
夜の春雷よ 遠くへかへれ
友を拉して 遠くへかへれ」
あるいは
・「穂高の岩場ですんでのところで死ぬべかりし命、而もそれは結局、四年とは持たなかった」
(日本戦没学生手記委員会編『きけ わたつみのこえ――日本戦没学生の手記』光文社 1959)

12/10
今日は安保改定反対の統一行動デイ。炭労を主柱とする労働者の実力行使。
同じく今日、全学連の葉山・清水の2人が逮捕された。

カール・グッコー(20歳)は、ベルリン大学哲学科の学生であった。ハインリッヒ・ハイネと志をともにする仲間だった。
「・・・・・私自身も哲学賞を得たことを一つの耳で聞いた。しかも、一つの耳では国王を退位させた国民、大砲の轟き、戦死した数千の人々についての話を聞いた。私は人々が左右から述べる、おめでとう、を一つも聞かなかった。・・・・・
近いうち助教授になれるかもしれないという希望もすっかり忘れてしまった。私は茫然として庭の玄関のところに立って・・・・・ドイツの青年組合について考えた。」
(中野重治『ハイネ人生読本』(筑摩書房全集 1959〜)を読んだ。

ラジオでも新聞でもすでに昭和10年代生まれの若者たちが出てきている。彼らは、噴き上げる泉のように現われ、仲間と手を携えて激流となり、大河となろうとしている。
俺はすでに26歳になり、炭鉱に入って3年と9ヶ月。
一日一日を坑内で炭塵を吸い込みながら働き、何かを待ちつつ、虚しく一日を終わる。酒がフィナーレを飾り、ヘドを吐く。
グッコーは20歳にしてすでにヘーゲルに認められ、啄木は27歳ですでに人の幾層倍もの人生を生きた。

しかし、あのハイネですらドクトル号と官吏になるために、洗礼を受けた。
「彼は食うために、王に媚びを売ったことがあった。しかし、彼はそれらすべてから押しのけられた時、後悔に歯ぎしりしながら書きまくって、自分を押しのけたものに狼のように吠えついた。
また、同時に誤解から多くの友人を失った。しかし、彼ハイネは、あくまでもハイネであった。」

12/11
辺地で働くのは青年の使命だと言いながら、学生時代の友のうち幾人が地方に出ていったか。――東京でなければ、自分の舞台がないと思っている彼ら。
一方で、その使命を真に受けたか、三井化学の内定を振って、僻地の学校の教師になるために一年留年した友。そんな奴は一番バカだ。
俺もバカだ。

この定型化した夕張の毎日を、俺は拒否する。
しかし、この定型を無視しようとしてもできないところから、この惨めさは来るのではないか。
俺は、しばしばこの夕張から飛び出した。オートバイで遠乗りし、、山に行き、狩りに行った。それは喜びだった。しかし、・・・・・

もっと豊かに、もっと深く。
しかし、それが与えられるのを待っているのか、お前は。リシャールは遂に不幸の環を断ち切れなかったけれども、それを精一杯手繰り寄せていった、どこかに切れ目があると信じて。

12/13
「秩序が不正である場合には、無秩序はすでに正義の始まりだ」(ロマン・ローラン)

12/25
(中野重治『斎藤茂吉ノート』筑摩書房全集 1959〜)
中野重治は、「彼の論理と表現能力の限りを尽くして、いわば自力のみで、斎藤茂吉に立ち向かった。あらゆる俗説に抗し、そして何よりも、ともすれば自己の無意識のうちの降服と戦いつつ、彼は茂吉を明らかにするなかで、彼自身を明らかにしよう」と全力を傾けている。
フザケタところがないのがよい。人がフザケタところにも、彼は愚直とも思えるほど、執拗に食い下がり、そのフザケのなかからそれ自身の本質を暴露してみせる手腕が見事だ。

俺は今から三番方(11:00pm〜翌7:00am)に出勤、ロングで発破30本を伴う堀込を行わなければならない。
昨日は、どうしても嫌で、ズル休みをしてしまった。
今日は行く。
行くが、こんな思いまでして、働かなければならない理由はあるのか。
苦しまないで金を手に入れる方法はないのか。あのとき、北海道なんかに来ないで、公務員になっていればよかったのに。

しかし、そこへ行っても、どこに居ても、俺はこの時代とこのおれ自身のせいで、呻き続け、自己抑制し続けるに違いない。
では、なぜそうしなければならないのか。

ファデーエフは、何といったか。30/04/27の日記を読む。
あれから4年以上たった今も、この言葉を再び思い起こして、ここに刻まなければならない俺は、この4年間、何をしていたのか。

「このすべての欠陥と貧窮との克服のなかに、彼自身の生活の根本的な意義があり、そしてもしも彼のなかに大きな、他のいかなる望みとも比較することのできない、新しい、美しい、強い、善良な人間への渇望がなかったならば、なんのレヴィンソンもなくて、他の誰かがあったであろうから。」
(アレクサンドル・ファデーエフ著・蔵原惟人訳『壊滅』青木書店 1952)
新しい人間とはどんな人間だ。美しい強い人間とは、どのように美しく、どんな時、どんな所で、強い人間なのか。
レヴィンソンは極東シベリアで、出兵した日本に立ち向かうコミュニストであった。

昭和35年(1960)
01/11
(R.トレイバー著・井上勇訳『錯乱――ある殺人事件の分析』創元社 1958)

01/17
(星野芳郎『技術革新』岩波新書 1958)
問題は2つ。石炭産業と、そのなかの自分と。
石炭産業は没落してしまうという宣伝。各産業が高揚していくなか、なぜ石炭産業だけが取り残されたか。
自然条件、石油の躍進、異様な地下労働。
技術革新の源泉である人材を獲得できないこと。
石炭資本と経営者の旧弊頑迷さ。

炭鉱の致命的欠陥は地下労働にある。
炭鉱技術の革命は、地下ガス化にあることは間違いない。将来の炭鉱は、遅くとも10年後には、現在の石油産業のようにオートメーション化された地上設備において、地下からのガス採取をコントロールするモデルが1つや2つはできるだろう。
俺はそれに備えなければならない。

06/18
15日、全学連が国会に乱入。樺美智子という東大生が殺された。そして、岸首相はアイク訪日延期を要請した。明日午前0時、新安保条約が自然承認される。
国会周辺には20万を超える学生・労働者・市民の国民抗議集会が開かれている。
泥靴に踏みにじられ、こずかれ、押しつぶされて死んだ日本の娘、日本の若者たち。

06/24
朝日新聞のコラム
「国会に張りめぐらされた鉄条網。それをつかみ、自分では気づかずにかすかにゆさぶっている、中をみつめ涙をおさえきれないでいる女性(朝日、日活のニュース映画)。抵抗の悲しさが伝わってくる。」

国会乱入事件直後の共産党声明「われわれは統一行動を逸出する行動に対する批判は依然としてもちつづけるけれども・・・・・・」
これは何だ、この期に及んで卑怯ではないか。
学生は、何といわれようと、革命の信管である。

と書きながら、潮のような響きが胸を打ち、俺は涙を流す。俺は歳をとりすぎた。4年間を無為に過ごしすぎた。

(ウェレサーエフ著・袋一平訳『医者の告白』三一書房 1952)
「塗擦法によって、私が膿を腺から全身へと追い散らし、そのため子供はもはや助かる見込みのない、あの敗血症にかかったのである。一日中、私はぼんやり街々を歩きまわっていた。・・・・・
彼女は「ダンナ様、ほんとにありがたいことです。子供をそんなにまで憐れんでくださいまして・・・・」
否! あらゆるものを投げ棄て、あらゆるものを拒絶して、ペテルブルグへ行って、学べ。たとえそこで飢えて死ぬようなことになろうとも!」

忍耐の限界はどこにあるか。
厳しく鍛えよう。

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