昭和31〜36年(独身のころ)
- 4. 山行
入社早々の夏(1956)、同期入社の友人達を誘って、勇駒別温泉から大雪山最高峰(北海道最高峰でもある)旭岳(標高2290m)へ登った。
旭岳から御鉢平を廻って、黒岳(1984m)から下山するコースである。当時はまだロープウェイもリフトもなく、急坂の黒岳――層雲峡間は通常、下山ルートとして利用されていた。
山登りの趣味は社会人になっても続いており、少し長めの休日がとれれば、即、山へ、という私である。
しかし、アルペン的な厳しい登高ではなく、自然を楽しむ山旅というのが私の趣味だった。
この頃、つまり昭和30年代の前半、『アルプ』という小さな薄手の、僅か数十ページの、山の雑誌が発刊されていた。書店で手にとってみて、いっぺんに気に入ってしまい、何号か続けて購読したことを覚えている。
表紙は素朴な木版画で、それも好ましかったが、何よりも執筆者の串田孫一や尾崎喜八の文章が読めるのが嬉しかった。
なぜこのようなことを持ち出すのかというと、つい最近(2013年10月)、山口耀久著『「アルプ」の時代』(山と渓谷社)という本が出版され、思い出したからである。
山の月刊誌『アルプ』は、昭和33年(1958)に創刊され、昭和58年(1983)まで続いたという。
この本のなかで、編集者であった著者は次のように述べている。
大まかに括れば、『アルプ』は文芸的な山の雑誌だった。山と自然にかかわる文章であれば、紀行でも随筆でも詩でも、どんな形式・内容のものでもよかった。
のどかな山旅の紀行であれ、きびしい登高の記録であれ、掲載する作品に区別はなかった。条件はただ一つ、――この言葉を使うのはなにか勿体ぶった感じで、わたしはやや躊躇いがあるのだが――“文学的な山の文章”であること。
厳しい氷雪や岩壁の登高記録を満載する『山と渓谷』誌や『岳人』誌は憧れではあっても、技術も体力もない私には馴染めなかったが、『アルプ』は好きだった。
北海道に渡ってからも、数多くの山行に出かけた。
といっても、仕事をもつ身には限られた休日を縫うようにして短期間の山登りを楽しむだけで我慢するしかなかった。
いくつか山行の記憶をたどってみよう。
(1)表大雪(愛山渓温泉――比布岳――愛別岳――北鎮岳――黒岳)
昭和33年(1958)夏。私たち同期4人に、もっと若い同僚3人を加えた総勢7人の大パーティである。
早朝、愛山渓温泉から入山する頃、かなりの雨が降ってきた。先行するいくつものパーティが引き返してきたほどである。
「どうする?」――不思議なことに、我々も引き返そう、というものは誰もいない。
おそらくは皆、「ここで中止してしまったら、もうこの夏の山行はない」ということがわかっていたからだろう。 これが勤務をもつ身の悲しさであると同時に、遭難の危険を背負い込むもとでもある。
しかし幸いというべきか、尾根道に差し掛かろうとする頃、雨はやみ、空はきれいに晴れ上がって、大雪の山系が目の前に、一望のもとに広がってきた。
山には我がパーティしかいなかった。
比布岳(2191m)から愛別岳(2113m)に廻ったが、左側のガレガレに切れた大断崖は壮観な眺めだった。
正吉は借物の重い交換レンズ付きカメラを持参して(ご苦労なことである)、写真を撮りまくっていた。
大雪山では旭岳に次ぐ高さをもつ北鎮岳(2246m)と、このあたり大きな雪渓と緩やかに広がる山並みが見事だ。
黒岳石室に1泊し、層雲峡へと急坂を下り、層雲峡からはバスを利用した。
(2)芦別岳と暑寒別岳
この2つの山は、当然ながら山域も違い、また登った年月も違うので、ここで一緒に述べる必然性は何もないのだが、ほとんど記憶のない私の求めに応じて、正吉が書き送ってくれた文章を借用することにする。
しいていえば、共通点はどちらも正吉との2人旅、アプローチはバイク2人乗り、したがって登った道を下るピストン登山である。
おまけに、どちらの登山もガスが濃く、展望の全くきかない散々なものであったことが共通している。
芦別岳(1726m)――夕張山地で夕張岳と並び立つ名峰。昭和34年(1959)5月、東の山部から登った。
暑寒別岳(1492m)――増毛山地に聳える独立峰。昭和35年6月、雨竜側から雨竜沼、南暑寒別を経て、頂上へ。
正吉の登山記
芦別岳――この山行はすごいガスで、下山姿のスナップ写真で見るように、全くの霧の中だった。
バイクで山裾まで乗り付け、登山にかかった。(通常の登山法は)土曜日の夜行列車で早朝の山部駅に降り立ち、田んぼ道を登山口まで歩く、トコトコと。このトコトコが、いかにも無駄な消耗に思え、この間をバイクで稼ごうと、夕張を早朝スタートした。
登山口に着いた頃、はや下山してきた人たちで混んでおり、たった2人でこれから登山にかかろうという中年男(注:いくらなんでも中年男はないだろう、まだ26〜7歳だぜ)を、皆、珍しそうに眺めていた。
粘土質の山道はズルズルと足を滑らせ、降りてきた人たちの靴跡で一層滑りやすく、エネルギーの消耗をもたらした。
降りるとなると、貴兄(注:私のこと)は坑内労働で日夜鍛えた脚力で、私との距離を30m、50mと引き離し、やがて霧の中に全くその姿を没してしまった。
どうする? 私がとった道付き方法は極めて短絡的なもので、登山道からそれて下方に樹木を割って、一気に高度差を稼ごうとするものだった。
地面に足がつかない、ゴロゴロと這い松の背をザックを背負ったまま、転がり落ちていった。いくら下降しても登山道に出会わない。これはまずいと思って、フト思い出したのは「山で迷ったら、尾根を目指せ」という格言だった。
そこで、私は必死の思いで這い松の太い枝と格闘し、尾根道を目指し上って行った。
やっと尾根道近くまで上ったとき、君の「オーイ、正吉!」と言いつつ、登山道を戻ってくる君の姿が見え、遭難を免れたことを知った。
君は私をみると、
「お袋さんに形見を届けなければと、何か落ちていないか探しに戻ってきた。よくやった」
と、のたまわった。
今考えても、何度かバテた山行のなかで、ニペソツの時に匹敵するハードな経験だった。
下山し、予定外の山部で1泊し、月曜日夜、夕張に帰った(注:ということは、月曜日は欠勤したのであろう)。
暑寒別岳――この“ふたこぶらくだ”の山行は、かなりきつかった。途中、山腹の叢にバイクを乗り捨て、雨竜沼を経て前方の南暑寒から後方の暑寒別までのアップダウンの山路はゲンナリするのに十分だった。
帰りは、このアップダウンをまた今の地点まで戻るのかと思うと、足が動かなくなる思いだった。
この日、霧と風が強く、暑寒別の頂上は、まだ見たことのない恐山かと見まがう枯樹林や前衛生け花の如き裸木が、ガスと風のなかで不気味に累々と続いていた。
俺たちは山頂を示す標識を見い出せず、ここが頂上なのは間違いないと合意し、下山にかかった。
途中、中学生のパーティと遭遇、「ご苦労さま、お大事に」のエールを受け、彼らはエッサ、エッサと頂上から日本海、増毛方向へと下って行った。
俺は、「アァ 彼らはこぶ越えしなくて済むんだ」と、心底うらやましく思った(注:私たちはバイクのある所へ戻らねばならない)。
貴兄と登った芦別岳とこの暑寒別岳の2山は、猛烈なガスの中での登行で、今もよく覚えている。雨竜沼を通る時のスナップは残っているが、この時の写真はないに等しく、貧しく辛い山行だったな。
(3)トムラウシから石狩岳へ(トムラウシ温泉――トムラウシ山――化雲岳――五色が原――沼の原――石狩岳)
昭和35年(1960)夏、同行は1年後に入社した広一との二人旅。彼は静岡の産で、高校時代から登山の経験があり、積雪期の富士山で数百メートル(?)の滑落を生き延びたという強者。
初日はトムラウシ温泉まで。
ここまで、どのようにしてアプローチしたのか、記憶がない。バイクでないことは確かで、ここに下山する計画ではなかったのだから。
トムラウシ温泉には無人の旧営林小屋があり、すぐそばに温泉がこんこんと湧いていた。天然の露天風呂である。
現在では、この温泉を利用した国民宿舎があるようだが、当時はそんな施設は何もない。その日は私たちだけの独り占めの温泉をたっぷりと堪能し、明日に備えた。
登山道入り口から尾根取り付きの急斜面を登り、尾根の単調な登り、あるいは沢の渡渉を繰り返し、最後は岩礫の急斜面に取り付く。そして大岩を登るようにしてトムラウシ山頂(標高2141m)に達する。
トムラウシは、大雪山など中央部高地のなかで唯一ともいえるアルペン的な山である。また、その展望も絶景である。北海道の山のなかで、私の一番好きな山だ。
化雲岳へ向かって北上すれば、ロックガーデン、日本庭園と呼ばれるお花畑など、まさに“天上の楽園”といっていい。大雪渓と大きな沼もあり、どうしても休みたくなってしまう。
登山道から右に少し下って、今日の目的地、ヒサゴ避難小屋に入る。
翌朝、化雲岳を目指して登っていく。化雲岳(1954m)は、なだらかな丸い丘の上にデベソのような岩がたつユーモラスな山だ。
ここから天人峡へ下る道があるが、私たちは右にコースをとり、五色が原、沼の原を経て、石狩岳を目指す。
ハイマツの切り開きのなかを、ところどころに散在する水たまりに悩まされながら、五色岳を経て、五色が原湿原へ進む。天気も良いし、「最高の山行だ」と言っていたのはこのあたりまで。
基本的には尾根筋を歩いているだが、何しろ道が悪い。いたるところ水たまりがあり、靴もグジョグジョになって、歩きにくいことおびただしい。
沼の原を過ぎると、今度は根曲り竹のなかのやぶ漕ぎ。この下りにすっかり消耗してしまった。この最低部に水場があったはずなのだが、そこで水を汲んで来なかったのが大失敗。
登りに差し掛かると、今度はハイマツだ。これをニペソツへの分岐まで数百メートルを登り返さなければならない。もうほとんどバテてしまっていた。
やっとの思いでニペソツ分岐に達し、石狩岳に向かう頃、夜が迫ってきた。
しかも、最悪なことに、水が一滴もない。山男として、本当に恥ずかしいことだ。
テントを張る元気もなく、ハイマツの陰にテントを敷いて、ビバークすることにした。夜空の星が、落ちてくるのではないかと思うほど、とてもきれいだった。
朝、見渡す限りの雲海のなかに、周囲の山々が見事に浮かび上がる。
北に大雪の峰々、南にニペソツ山、東にはクマネシリの山々が。その間からそれはそれは見事な日の出。
のどの渇きも忘れて、2人で黙ったまま、見つめ続けた。
そして、渇きは木の葉に宿る朝露を吸って凌いだ。
2人に元気が戻った。そして、石狩岳(1967m)の頂上に立った。(但し、三角点の位置は異なり、こちらの標識は1966mとある)
さて、下山であるが、下山ルートについて、私の記憶はすっぽりと抜け落ちている。
今まで音更山との鞍部から十勝三俣へ下ったものとばかり思っていたが、このコース、いわゆるシュナイダー・コースは、ネットで調べると、1961年開削されたとあるから、この時すでに通行できたのかどうか、定かでない。
更に不思議なことに、どう見ても天人峡の羽衣の滝としか見えない遠景をバックに、広一が写っている写真がある。
もしこれが、この山行の時写したものに違いないなら、私たちは石狩岳に登った後、化雲岳に引き返し、天人峡へ下ったとしか思えない。
いつの日か、広一に会ったとき確認してみようと思う。それまでは、下山ルートは不明としておく。
(追記:上の文章を読んだ広一から手紙をもらった(2014/01/31)。
彼もこの下山ルートについては記憶がないらしく、何も書いていない。その代わりに、妙なことをよく覚えている。
・富良野だか新得だか、そこから大雪に入ったとき、真っ暗闇の夜のなかで喉の渇きに耐えかねて、すぐそばの水をがぶ飲みした。その翌朝、その水たまりを見たら、ボウフラがいっぱい湧いていた。
・トムラウシ温泉の露天風呂に入っていたら、蛇が泳いで入ってきた。
・貴兄のバイクの後ろに乗って早来の野原に野宿したとき(勇払原野のスズランの匂う原野にテント泊したのは、広一と一緒だったのだ)、翌朝、そこは馬糞の転がる牧場だったことが判明した。
・鮭の密漁に出かけたこともあった。 などなど)
(4)利尻岳
昭和36年(1961)夏。(結婚後の山行だが、便宜上ここで述べる)
この山行については、記録も写真も何も見つからず、私の記憶だけで述べていくので、大きな誤りがあるかもしれない。ご容赦願いたい。
この前の年、1960年に稚内・オホーツクをバイクで廻った時、サロベツ原野から見た利尻岳の秀麗な姿は、以来、私の脳裏から離れたことはなかった。
深田久弥が「利尻島はそのまま利尻岳であった」というように、まさに海に浮かぶ富士山のようだった。利尻富士といわれるゆえんだ。
その念願の利尻岳に、会社の同期と後輩合わせて5人、これに私の妻を加え同行6人で、登ることになった。
この年、私は結婚して、まだ4ヶ月ほどの新婚ほやほやであった。妻は、山行であれ、旅行であれ、私の行くところにはどこでも付いて来たがった。そのくせ、自分の行きたいところには一人でも行く。これは、結婚50年を過ぎた今も変わらない性格だ。
初日は、船便の関係もあり、稚内泊り。稚内のすし屋で食った握り寿司が、ネタがシャリが見えないほど大きく厚く、とてもおいしかった。稚内のことは、それしか憶えていない。
稚内から利尻島の鴛泊港まで船で2時間ほどで着く。
日本海を渡ってくる西風がかなり強く、山はすでに雲に覆われ、すぐ目の前の山腹から上は全く見えない。
鴛泊港は島の北端にあり、利尻岳(標高1721m)は中央にあるから、登山道はほぼ南行することになる。しばらく車道を行くと、左にポン山という小さな山があり、そこから左に姫沼への道を分け、登りに差し掛かる。
針葉樹林を抜け、尾根道を登るほどに傾斜は急になり、九十九折となり、岩だらけとなる。
この頃から、次第に雨交じりのガスは濃くなり、風も強くなってくる。立っていられないほどだ。
登る先がよく見えない。突如として、大きな岩が目の前の現れたり、驚くというより恐怖を感じる。いくつかのパーティは引き返してきた。
さて、われわれはどうする? 後輩の若い連中は登りたげな顔つき。
妻が誰よりも弱っていた。女性の未経験者にはしょせん無理だったのか。私は引き返すことを提案した。皆は、この提案に賛成してくれ、われわれは引き返すことに決した。私は同行諸士に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
あとで分かったことだが、妻はその時妊娠していたのだった。
7合目か8合目、1200mあたりまで登ったのだろうと思う。
計画して登頂できなかった最初の山が、この利尻岳である。写真は撮ったと思うが、手元に何もない。
登ってきた道をポン山の姫沼分岐まで引き返し、姫沼で遊んで、鴛泊に帰った。
翌日は、礼文島に渡り、平地に咲く高山植物の原生花園を散策し、香深港から稚内に帰った。
(蛇足ながら、妻の名誉のために記すなら、その後、彼女は40代・50代になって、北アルプスの槍、穂高、立山、白馬、雲ノ平、また南アは北岳、千丈、甲斐駒など、多くの山を私と同行し、登頂を果たした。)
この他、多くの山に登った。
1962年には、ニペソツ山(標高2013m)に登った。なぜか、日高には足を踏み入れていない。
せっかく北海道に来たのだからと、スキーも覚えたが、ゲレンデでスイスイとすべる技術は身に付かず、山スキー専門である。夕張岳、十勝岳、札幌岳など、日帰りで楽しんだ。
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