昭和31〜36年(独身のころ)
- 3. オートバイ
入社以来、3年経った頃、
肉体的には過酷きわまる仕事ではあったが、仕事自体には大きな不満はなかった。職場では日々新しいことに遭遇し、働く喜びさえ感じていた。
しかし、生活については鬱屈した気分と、言いようのない寂しさの毎日を過ごしていた。どうしてだか自分にもはっきりとはわかっていなかった。期待と違っていたことは確かだ。
春夏秋冬の風景さえ気に入らなかった。
学生の頃、夏休みの企業実習で北海道に来て、その雄大な風景に惚れ込んだ。北海道で働きたい、と思った。
そして、やって来た北海道の、狭い谷間の夕張の、特に長い長い冬の風景と生活に、私は北海道に騙された気がした。
学生時代の友人たちと全く切り離された生活に耐えられない気がしていた。政治について、社会について、そして人生について語り合うことは、ほとんどなくなってしまっていた。
しかし、そんなことは学生気分の抜けきれない、単なる甘えであるにすぎないのだ。腹を割ってムチャクチャな議論を夜を徹してやるなどということは、次の日も仕事を抱える社会人のやることではない、そう思うようにしようとした。
でも、無性に、この夕張を飛び出したくなる衝動に駆られることがしばしばあった。
それを解決する選択肢の一つが、オートバイだった。
なぜ、オートバイなのか?
ある春のこと、職場の同僚たちと二股峠を越えて夕張の谷を出、石狩平野に広がる栗山町方面に出掛け、その田んぼの一隅でドジョウ鍋の懇親会をやったことがあった。田んぼの畔際の用水路に網を仕掛け、反対側から棒で突きながらドジョウを網に追い込む。1回で1升以上のドジョウが面白いように獲れた。
その時、先輩社員の一人が大型バイクのインディアン・ハーレーに乗ってきていた。免許もないくせに、その人に少しばかり運転の仕方を習い、乗ってみた。
風を切って走るその爽快さに、私はすっかり魅せられてしまった。低速回転する大気筒の、腹の底まで響くハーレーのエンジン音と振動に私はすっかり虜になってしまった。
これだ! このマシンさえあれば、いつでも夕張から飛び出せる! 思うさま飛ばせば、鬱屈した気分など吹っ飛んでしまうだろう。
いきなり地元の自転車屋からホンダのベンリィ125t中古車を買って、ガソリンを入れるべく、それにまたがって坂道を下っていた(もちろん、エンジンはかかっていない)ところをお巡りさんに捕まってしまった。無免許で、こってりとしぼられたが、許してくれた。
峠を下り、栗山や長沼、由仁町あたりの田園風景のなかをやみくもに走り回った(原付免許をとった後のことです、念のため)。
ある時は友人を後ろに乗せ、一面に咲き誇るスズランの匂いのムンムンする勇払原野でテント泊をし、更に苫小牧まで足を延ばしたこともあった。
当時、国道などの幹線道路も、街中は別にして、未舗装の道路が多かった。もうもうと砂煙をあげて走る車のあとにつくことは絶対に避けなければならなかった。
立派な舗装のしてあったのは、札幌から千歳を結ぶ国道ぐらいで、弾丸道路とよばれ、高速で走り抜ける車に、横断にも怖い思いをするほどだった。でも今考えれば、せいぜい毎時80キロ程度ののスピードだったのではないだろうか。
とにかく走ることが楽しかった。
風を体中で受け止めながら、その風を切るようにして走る爽快さは、何事にも代えがたい思いだった。といっても、大したスピードが出ていたわけではないだろう。多くは未舗装の道路だし、第一、このバイクは最高時速85キロ程度しか出ない代物だったはずだから、せいぜい50キロ程度のスピードで走っていたのではあるまいか。
何か物足りない気が少しづつ募ってきた。
ハーレーとは全く感触が異なる。それはそうだろう。向こうは1000tを超える排気量なのに、こちらは僅かに125t。比べる方がムリというものだ。
でも、新しいマシンが欲しいという気が日に日に募る。
早速、本格的に情報収集に取り掛かった。
いろいろ調べた挙句、私はヤマハの単気筒が気に入った。ハーレーに乗った時の感覚があまりにも鮮烈だった。低速で回転する大気筒の響き。それに少しでも近いものといえば、小さくても単気筒でなければならない。
ホンダは高出力をねらって、125tですら2気筒の新車を発表していた頃である。
札幌のバイク屋からヤマハのカタログやら絵葉書やらもらってきて、その絵葉書の1枚に "Remember YAMAHA"と書いて、寮の部屋に飾ったりした。まことに稚気の至り。
この絵葉書は、つい最近までヤマハSR400を撮ったものだとばかり思っていたが、どうも違うらしい。 いま、ネットで調べてみると、SR400が初めて発売されたのは、1978年とある。そうだとすると、あの写真は1957年に発売されたヤマハYD1だったのかもしれない。
まず、金が要る。価格はどれほどだったか忘れてしまったが、駆け出しのサラリーマンにおいそれと出せる金額ではない。400tはおろか、250tでさえ容易ではない。
結局、1959年に買うことのできたのは、ヤマハYA3という125tの原付バイクだった。だが、新車である。 4サイクル空冷単気筒、セルスターターまでついていた。このバイクは本当によく走った。
あの広い北海道を走り廻った。年に何回も遠乗りした。次の3つの遠征が比較的記憶に残っている。
(1)襟裳岬から十勝平野へ
1958年7月だから、バイクはまだホンダ・ベンリィだった。同期入社の正吉を後ろに乗せ、タンクの上と荷台の両側に大きなバックをぶら下げ、同乗の正吉にはリュックを背負わせる。これだけの重量を載せた125tは、いささか可哀想ではある。
ルートは夕張から苫小牧へ出、そこから国道を一路、襟裳岬へと向かう。国道とはいえ道路は未舗装でダート、ひどい凸凹や洗濯板のような個所も少なくない。走れば激しく砂埃が舞い上がる。手拭で口にマスクの、異様な格好で走る。
襟裳岬に着いた。「襟裳の“夏”は何もない“夏”」でした。
襟裳岬から帯広へ、狩勝峠を越えて富良野に入り、岩見沢を経て夕張に帰ってきた。
次の文章は、記憶のすっかり薄れてしまった私の求めに応じて、正吉が思い出して書いてくれた文章の一節である。
正吉は同期入社で、会社での所属は違ったが、無二の親友となり、今でも通信は続いている。
「バイクで遠征したのは58年夏で(炭山祭の時か)、黄金道路(ひどい荒れ舗装だった)から、襟裳岬(昆布の竿取りをやっていた)にたどり着き、駐在所に行った。 埃だらけのやや長身の二人の男に、突然、入って来られた巡査はやや緊張、困惑気味の表情だったが、俺たちが炭鉱(ヤマ)からバイクで来たこと、今夜の安くて良心的な宿を教えてもらいたいと話すと、すっかりリラックスして宿に電話を入れてくれた。どんな宿だったかは覚えていない。
翌朝、襟裳を発って狩勝峠を越えた。国道と並行する国鉄の重連車輛が重々しく、私たちと並走していた。その日、旭川に着いたと思うが、宿泊のことは覚えていない。一気に夕張まで12号線を下るのは少しスケジュール的に無理だったのではないかと思う。
これが、青いスカーフを特攻まがいに首に巻き、君と走った58年の夏だ。」
そうだ、確かに「黄金道路」というのがあった。そこで、ネットで調べてみたら、「えりも町ホームページ」に次のようにあった。
庶野から隣町広尾町への約30キロの国道は急峻な大地の連続で、海に迫る壮絶な風景です。
遠い昔から、この難所の開削には長い年月と黄金(こがね)を敷き詰めるほどの巨額の費用が投じられてきました。黄金(おうごん)道路の由来です。
これで見ると、正吉に一部、記憶違いがある。
黄金道路を経て襟裳岬に着いたのではなく、襟裳岬から出て東海岸に回ったところが黄金道路である。
(2)道東を巡る
1959年夏、バイク仲間でもある先輩社員と2人で道東に向かった。彼はホンダ・ドリーム250t、私はヤマハYA3、それぞれのバイクを駆って、富良野から狩勝峠を越え、帯広、足寄、そして阿寒へと走った。
阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖を巡り、網走の小清水原生花園へ足を延ばす。斜里岳の麓、知床半島の付け根を標津まで走り抜け、そこから野付半島、尾岱沼を左手に見ながら風連湖へと国道244号線を南下する。
この尾岱沼から風連湖に至る渺茫たる平原と海原、その向こうに微かに水平線、横に長く広がる野付半島。
そして、海かと見まがう広い風連湖と、そのなかに遊ぶ白鳥の群れ。これらの風景は、私のこれまでの経験に全くなかった日本離れしたもので、決して忘れることはできない。
この後、霧多布から厚岸湾、釧路へと向かった。いかにも道東らしい平原と海の景色を満喫しながら、ほとんど車の通らない道を風を切って疾駆する爽快さは何もにも代えがたい思いだった。
2人で常にバイクを連ねて走るというわけにはいかなかった。何しろ相棒は250tの高出力マシン、当方は半分の125tしかない。山地の登り坂ともなれば、とてもついていけない。
あとに取り残されて、焦ってコケテ、足をすりむき、ベソをかいているところへ引き返して慰めてくれたこともあった。
2人とも新車同様のバイクだから、故障というほどの故障はほとんどなかった。
しかし、私たちはあまりにも時間をとりすぎた。仕事が待っている。釧路から帯広、狩勝峠を経て、一路、夕張へ向けて帰った。
(3)宗谷岬からオホーツク海岸へ
1960年夏、今度は単独行である。
旭川から国道を天塩川沿いに一路北上する。名寄、音威子府を経て、豊富町に入るころはもう全身土埃まみれで、口の中までジャリジャリするありさま。
日本最北の温泉といわれる豊富温泉に泊まろうと、旅館の玄関で案内を乞うたとき、出てきた女将さんの驚いた顔といったらなかった。これでは宿泊を拒否されるかと思ったが、幸いに泊めてくれることになった。
サロベツ原野の広大さに圧倒される。どこまでも広がる湿原は背の高い草と背の低い灌木とが一面に広がり、ところどころに粗末な建物が点在する。とても民家とは思えないようなものだが、農作業小屋なのかもしれない。
そして、その先の海の向こうに壮麗な利尻岳がその全容を見せている。海面から優美な裾野を広げながら標高1721mの頂上まで立ち上がるその姿は、ため息が出るほど美しい。いつかきっとあの頂上に立とうと決心したことであった。
稚内市に入る。
納沙布岬の記憶がないが、岬好きの私が訪れなかったはずはないだろう。
宗谷岬には行った。日本最北端の地であり、そこに三角錐の立派な碑があるとのことだが、私の記憶にない。また、写真もない。どうしてだろう。
ただ、「間宮林蔵渡樺の地」の碑の写真はある。
そこからオホーツク海岸に出る。猿払村、浜頓別村と進むほどになぜか寂しくなってきた。それは、一人旅のせいか、はたまたこのオホーツクの風景のせいか。切ないほどの哀しさを抱えて、行き合う車もほとんどない道を疾駆する。
当初の予定では、このオホーツク国道をさらに下り、興部へ、そこから天北峠を越えて帰ろうと思っていたが、なんだか早く帰りたくなってしまった。
予定を変更して、手前の枝幸から天北峠(ここに、もう一つ別の天北峠がある)を越えて音威子府に入ることにした。
天北峠は、宗谷丘陵が北見山地へとつながる山中である。全く車に行き会わない。追い越す車もなければ追い越されることも全くない。山中、一人ぼっちである。
こんなところで故障でもして動けなくなったらどうしよう、とたまらなく不安になってきた。ただひたすら、人の住む所を求めて山を下る。
こうして無事夕張にたどり着いたときは心底ホッとした。一人旅はやはり寂しい。
これらの遠征のほか、多くのツーリングをした。後述する山行の時も、アプローチはこのバイクで可能な限り山に近づこうとした。
また、一時期、狩猟に熱を上げていたことがあったが、その時も狩猟地まではこのバイクを利用した。
けれども、このバイク・ライディングは惨めな事故によって終わりを告げる。
1963年の春だったと思うが、対向するバイクと正面衝突した。双方とも二人乗りで、怪我のなかったのは私だけ。重軽傷者3名である。私が右折しようとしていたところだから、100%私の過失である。
その時、もう二度と車と名のつくものは運転すまい、と決心した。
その決心も十数年を経て、簡単に覆った。
40代も後半になってから、再びバイクに乗り始めた。今度はヤマハSR250、やはり単気筒である。
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