昭和31〜36年(独身のころ)
- 2. 鉱山技師として(1)
昭和31年4月1日着任予定のところ、炭労(日本炭鉱労働組合)スト中のため、1週間遅れて夕張に着いた。
最初の1年間は新人研修である。事務系、技術系のいかんを問わず同一カリキュラムで、人事部の管轄のもと、鉱業所の業務、炭鉱の実務(掘削作業実習を含む)の研修はもちろん、夕張・空知・幌内など他鉱業所の見学、ユーザー企業である日本製鋼所室蘭などの見学、と盛り沢山であったが、時間的には随分ゆとりがあった。
当時の大企業はまだまだ大らかなところがあった。
1年後、平和二鉱に配属、保安係員を命じられた。
保安係員の仕事は、毎日、坑内を巡回し、主要個所でのガス(メタンガス)測定や通風点検、坑内岩盤状況の点検、坑内補修作業やガス湧出防護のための築壁作業の監督などである。
つまり、新人係員としては坑内安全のための保安について学ぶのが鉱山技師としての第一歩であり、また、坑内をくまなく巡回することによって、坑内の地理について熟知することができるというわけである(新人研修中は、係員詰所である「見張所」への道に迷い、昼食を食べ損なうということもあったが、この頃は勿論、そんなことはない)。
服装についていえば、青い菜っ葉服(青くなくてもよいが)に脚絆、保安靴(つま先から上甲にかけて鉄板の入った革製編上靴)、頭にはヘルメット、そのヘルメットには腰に下げた電池から導線を引いたキャップランプを装着している。肩から斜めにガス測定器を掛け、手に打検用の長柄ハンマーを持つ。
ちょっと格好いいようみえるが、出坑した時は全身、炭塵まみれ、見る影もない。
出坑時、坑口から見る外界は、たとえそれが夕張の景色であろうと、天然色に輝き、その美しさには目に沁みるものがあった。そして、その直後のたばこの一服は、これまた、まさに至福の一刻であった。
出坑後、日誌に申送り事項を記し、問題点があれば主任に報告する。その後、現場にある風呂で炭塵を流し、さっぱりした気分で寮に帰る。
採炭係員
半年後、ようやく坑内作業の概要がつかめた頃、今度は採炭係員を命じられた。
採炭とは、炭層から生産物である石炭を採り出す切羽作業である(切羽とは、掘削の最先端をいう)。平和二鉱で採用されていた採炭法はロング・ウォール(長壁式)採炭法で、厚さ4mを超す厚い炭層(平安十尺層と呼ぶ、平層で傾斜8〜15度)を2層に分けて採炭する「スライシング2段分層払い」という当時としては先進的かつ最も効率のよい採炭法であった。
ロング採炭現場は、その名の通り炭層に通常100m以上に及ぶ長壁を造り、この全面を1方(1かたとよび、8時間勤務をいう)で、1.2m(ないし1.4m)掘り進める。その厚さ(長壁の高さ)を2mとすると、1方に採炭する量は
地山で 100m×2m×1.2m=240m3
トン数でいえば 石炭の比重1.4として 約340トンを1方にこの現場から産出することになる。
平和二鉱ではスライシング分層払いを採用しているから、採炭現場は上段と下段の2か所となり、それを1日2交代で採炭すると1日当たりこの2倍、680トンの出炭となる。(ちなみに、この石炭は原料炭とよばれる高品位炭である)
年間稼働日数を250日とすれば、この現場だけで年間出炭量は17万トンという勘定になる。
採炭係員は1現場に2名。新人の私は当然ながら、先山係員(炭鉱現場では、鉱員でも係員でも先任者を先山とよび、補助者を後山と呼ぶ)のあとにつく。
採炭現場では、作業員として採炭員(先山と後山のペア20組、計40名、ロング長さと炭層の採炭難易度によって、この数字は大きく変わる)、上添坑道およびゲート坑道の掘進員10名、ゲート落口番1名、コンベア運転手1名、そして採炭現場を統轄・指導するロング長1名というのが、ロング採炭現場の人員配置である。
必要に応じ、支柱員を配置するから、総勢60名から大ロングでは80名の鉱員を2名の採炭係員で指揮監督することになる。
一日の仕事は、朝7時(1番方の場合)、まず繰込所において作業個所への人員配置とその作業指示から始まる。
前日の番方から引き継いだ現場情報と当日出勤者の提出する個々の繰込票に基づいて、現場状況と欠勤者を考慮し、各人に担当個所を割り付け、その作業上の注意事項を申し渡す。
新人係員にとって、まずもってこの繰込配置指示を出すことが至難の業である。現場を熟知し、鉱員一人ひとりの技量と性格を熟知していなければ、とてもできることではない。しかもこれを5〜10分のうちに終えて仕舞わなければ、それだけ鉱員の入坑が遅れ、稼働時間に影響する。
とても大学ポッと出の23歳の若造にできる業ではない。ただひたすら先輩のやり方を見守るのみである。
繰込み作業が終わると、先任係員は直ちに鉱員とともに入坑する。
後山係員である私は鉱務所に残り、各鉱員の繰込票に必要事項を記入し整理してから入坑する。
入坑時間が過ぎれば、主斜坑はすでに材料搬入その他の運行時間帯で、人車は動いていないから、並行する添斜坑を歩いて入坑しなければならない。だが、なかには斜坑車輛に飛び乗り便乗して入坑する不届き者がいる(そして、この不届き者は少なくない)。
何しろ、坑内最深部は地表から高度差にして400mを超す深さなのである。
後山係員の私が現場に到着する頃は、大概、採炭作業は既に順調に進んでいる。
採炭員の使うピックの音、切羽運搬のパンツァ・コンベア(装甲運搬機)のきしむ音、炭壁の崩れ落ちる音。様々な音、音の喧騒で、まさに戦場の感がある。大声を出さなければ、人とコミュニケーションもできない。
採炭員は2人1組になって、先山がピックで炭壁から掘り出した石炭塊を後山がシャベルでパンツァ・コンベアに投げ入れる。石炭はパンツァから切羽落口を通ってゲート坑道のベルトコンベアによってポケットとよばれる貯炭場所に運ばれ、更にベルトまたは炭車で斜坑ベルトコンベアのポケットに搬入される。
このポケットは数百トンの容量をもち、ここから本卸斜坑の高速ベルトコンベアで坑外の選炭ビンまで運び出される。
ロング切羽は、鉄柱とカッペ(鉄製横梁、実効長1.2〜1.4m、ピンで連結する)で空間を保持しており、前面の掘削によって天盤が空き次第カッペを延長する。このとき、切羽前面は片持梁の状態となり、作業サイクル中、最も危険な時間帯である。
予定の掘削が終了すると、直ちにパンツァ・コンベアを切羽前面に移設し、新たに鉄柱を立てる。そして、後ろの鉄柱を回収し、後面は天盤の自然崩落に任せる。充填はしない。これで、1サイクルの作業が終了する。
天盤がなかなか崩落しない場合は、鉄柱に異常な圧力が掛り危険なため、発破をかけて崩落を誘発することもある。
作業中、先山係員は上添からロング切羽へ、またゲート落口からゲート坑道切羽へと走り回り、作業指示を与えている。ロング長あるいは後山係員の私などと話をしながら、作業を見つめているだけなどというのは作業が順調に進んでいる時で、そんなことはめったにない。
後山係員の私は何をやっているか。
作業指示などできるわけがない。作業を見守ったり、先山係員の指示を伝えるために走りまわったり、材料搬入の確認に行ったり、その程度のことである。
一番大事なことは安全の確保である。いつ天盤が崩落してくるかわからない。崩落にはほとんどの場合、その前兆がある。それを見逃さないようにできるまでには、やはり何か月もの経験が必要であった。
第二に、機械、特に運搬機の不調・故障への対処である。坑内の運搬機は過酷な環境下で運転されており、特にロング切羽運搬機のパンツァは絶えず過負荷の状態で運転を余儀なくされ、しばしばストップする。運搬機が動かなければすべての作業はストップせざるを得ない。復旧は何よりも急を要する。
ロング切羽のパンツァ・コンベアはエア(高圧空気動)原動機で動いており、この高圧空気は坑内コンプレッサー室から長いパイプを経て、切羽現場まで到達している。コンベアの停止原因が空気圧の低下による場合、現場では運搬量を減らすため作業をスローダウンせざるを得ないことも起こる。
初めは何もかも勉強と割り切るより仕方がない。そのことは、監督される側である鉱員の方でも心得ているらしく、いろいろと教えてくれる。
私は、特にロング長からさまざまなことを教わった。ロング長というのは、鉱員のなかの最先任で、自分の持ち分はもたず、ロング現場全般に目を配って機動的lに応援したり、鉱員を指導したりする。鉱員中、最も優れた技量と豊富な経験を持つ者だけが、この役に選ばれる。
軍隊でいえば、さしずめ軍曹とか曹長のような役割で、新任(見習)少尉の私など、どれだけ教わり、お世話になったかわからない。
この荒くれ男たちが・・・・・、と目を開かれる思いをすることもしばしばあった。
彼らの連帯意識、助け合いの精神は類稀なものであることを思い知らされた。ロング切羽で遅れているところがあると、みんなで寄ってたかって応援する等は日常茶飯事であった。
この鉱員たちの連帯と助け合いの精神、いわば“仲間意識”はロング採炭員において最も強く、それに続いて掘進員、そして支柱員、運搬員と、切羽から遠ざかるに従って、この仲間意識が希薄となり、いわゆる“サラリーマン意識”が強くなる、とみるのは私の思い込みに過ぎないか。
だから、この仲間意識の強さは職場の危険の大きさと無関係ではないだろう。
また、こんなことがあった。
ある春のこと、ロング全員で花見をすることになった。採炭員の連中のいうことに、花見の宴の準備のため、2名を出勤扱いにして外に出してくれ、という。
「そんなことは・・・・・」とためらう私に、彼らは「その2名分は自分たち全員でカバーします」という。
先任係員に相談すると、「そうしてやれ」といわれる。2名の繰込票を出勤扱いにして、外に出してやった。
その2人はどうしたかというと、峠を下り、栗山の農家で適当な子羊を物色して調達し、それを峠の下で解体し、肉片をあらかじめ用意したタレの中にぶち込んで、宴会予定地まで持ち帰る。ゴザを敷いたりして、皆が来るのを待つ。
職場の方では、2人分、人が少ないにもかかわらず、いつもより早く仕事が捗り、全員勇んで2人が待つ宴会予定地へ向かう。楽しくジンギスカン鍋の酒盛りが始まるという次第である。
掘進係員
採炭係員の仕事は、その後2年くらい続いただろうか、次第に慣れてきて、繰込所での作業指示もある程度できるようになった頃、今度は掘進係員へと配置換えになった。
掘進作業というのは、坑内の骨格となる坑道掘削の仕事である。炭鉱坑内は大小の坑道が網の目のように張り巡らされており、そのほとんどは炭層内ではなく、岩盤の中に掘り進む。
岩盤は石炭層よりはるかに硬く、掘削にはほとんどの場合、発破を必要とする。発破をかけるには、発破係員の国家資格が必要である。
入社後早い時期に試験を受けてこの資格は取ってはいたが、実際に発破をかけたことはなく、初めて発破をかけようとする時の緊張感は忘れることができない。
例えば、横幅3m、高さ3mほどのアーチ形の坑道を1.2m掘進するのに、一体、火薬装填孔をどれだけの数、どのように配置して穿孔するか、それにどれだけの火薬量が必要か。少なければ岩盤は起きないし、多ければ破砕岩が飛び散り後処理が大変になるばかりか、危険でさえある。
やってみなければわからないけど、そんな練習を現場ですることはできない。掘進の場合、先任係員はいない。自分一人である。
でも、仕事だからやらなければならない。
それこそぶっつけ本番で適当に穿孔配置を想定し、適当に見繕った量の火薬を火薬庫行って受け取り、現場に向かった。
現場に着いてみると、掘進作業員たちは心得たもので、これまた自分たちが適当と考える位置に既に穿孔を始めている。先山鉱員と相談してどの孔に何本の火薬を詰めるか決めていく。先山はこちらが持参した火薬量を勘案して穿孔してくれる。
火薬には起爆薬としての電気雷管を取り付ける。この雷管は段発雷管といって数ミリセコンドの時間差で起爆する。どの孔に何段目の雷管を装着するか、これまた経験であるが、これも先山が適当に決めてくれる。
岩盤が期待通りにきれいに起き、破砕された岩石が飛び散らずこんもり山になるように発破を掛けることが理想だ。
、 火薬装填終わり、すべての雷管を結線し、導線につないで全員、安全な場所に退避する。私が発破器を押せは発破がかかるのだが、このとき反吐を吐きそうなほど緊張しているのが自分にも分かる。
発破は無事に終わった。
現場に行ってみると、破砕された岩石がこんもりと小山を作っている。うまくいった、と先山鉱員に褒められた(こちらは、彼の言う通りにやったに過ぎないのに)。
以来、何十回となく発破をかけたが、もう反吐を吐くほど緊張することはなくなった。でも、いつまでたっても平然というわけではなかった。発破は怖い、特にガス湧出の多い現場や水場では。
鉱務課設計係
入社後4年、現場経験3年後、昭和35年4月、鉱務部鉱務課設計係に異動になった。
現場を離れ、坑内設計という机上の仕事である。採炭計画を立て、坑内図面を引いたり、坑道断面を設計したり、というのが仕事である。
しかし、始めのうちは日本開発銀行からの融資を受けるための資料作りに追われた。こういう開発計画で、それに必要な投資額はいくらいくらですから、これだけの融資をお願いします、という書類を作るわけである。
われわれ鉱務課設計係が開発計画を練り、それをもとに経理課原価係が所要金額を見積もる。見積もりが出ると、再度設計のやり直しということも少なくない。提出期限が迫ってくると、連日残業である。
鉱務課設計係には昭和38年9月までの3年半在籍したが、その間、二つの特命事項を与えられた。
一つは厚さ90センチ程度の薄層採炭の計画である。
もう一つは平和二鉱の通気改善のために計画中の排気立坑開削に伴って、坑内全域の通気量がどのように変わるかを予想する通気シミュレーションである。
いずれも興味あるテーマで、技術屋であることを幸せに思ったことであった。これらについては後述する。
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