昭和31〜36年(独身のころ)
- 1. 夕張の風景
最近(2013/08〜09)、NHKの「釣瓶の家族に乾杯――夕張編――」という番組を観た。
緑豊かな山々に囲まれた街並みは整然と見渡すことができ、あの雑然とした昭和30年代の夕張の風景は、“黄色いハンカチ”の翻る観光スポット「石炭の歴史村」以外どこにもなかった。ただ、その整然とした町の中に出演者以外に町の人たちの人影をほとんど見ることがなかった。
それはそうだろうと思う。私が社会人としての第一歩を踏み出した頃の夕張市は人口10万人を超えていたが、今はわずかに1万人を数えるのみという。
昭和31年(1956)4月、大学を卒業した私は北海道炭鉱汽船(株)に入社し、その事業所の一つである平和鉱業所に配属され、夕張に着任した。
同鉱業所に配属された同期は、私を含めて6名。うち、2名が技術系である。地元出身者以外は、すべて平和合宿と称する賄い付の独身寮に入る。
この独身寮には私たちの先輩にあたる社員20人ほどが入居しており、私たち新入社員は2人で1室を与えられた。1人部屋もあるが、それらはすべて先輩方が占拠しており、それが空かない限りはそこには入れない。
寮費、その他諸経費は一切取られず、食費のみ給与から天引きされる。それもいたって安価で、先輩のなかには、給与袋を受け取ると、封も切らずに、そのまま行きつけの飲み屋に預けるという豪の者もいた。
掃除をはじめ家事一切は寮勤務の女子職員がやってくれる。生活に関しては一切の苦労はなく、食うことと借金に追いまくられていた学生時代とは様変わりとなった。
その意味では、ここ夕張の生活は気楽なものだったが、町の風景にはなかなか馴染むことができなく、新しい体験に戸惑うことの連続だった。
当時の夕張の風景を一瞥してみよう。
夕張市は東西約25キロ、南北約35キロメートルの広大な面積をもつ市であるが、その中心部は幅500メートルにも満たない谷底に、長さ15キロほど街並みが帯状に広がる山間の町であった。
この狭い谷底を選炭排水で真っ黒に濁ったシホロカベツ川が蛇行して北から南に流れ、鉄道は国鉄夕張線と私鉄夕張鉄道(北炭傘下の関連会社)が通り、道道もまた谷底に沿って走る。
市街地は標高250mから300mであるが、谷の両側に険しい山地が迫り、その山裾にへばりつくように階段状に住宅が山頂へ向かって立ち並ぶ。
家々に明かりが点る夜ともなれば、その夜景は「ここは熱海か、神戸か」と見まがうほどの景色である。だから、結婚して外からお嫁さんを連れて初めて夕張入りするときは、夜にせよ、と先輩に教わったことである。
東側に聳え立つ山は冷水山(標高713m)で、当時から恰好のスキー場であった(もちろん、当時はリフトなど設備は何もない)。
住宅の多くは北炭の職員・鉱員のための社宅で、1戸建ては少なく、多くは2戸建て木造住宅で、4戸建てなどいわゆる「炭住長屋」もまだ少なからず残っていた。
平和鉱業所の所在する平和地区・若菜地区には、炭鉱の開発が比較的新しかったこともあって、、鉄筋コンクリート造りアパートの鉱員住宅が何棟も建ち並んでいた。
夕張市役所や夕張鉱業所の所在する繁華街の方へ行くと、数多くの映画館や飲食店、キャバレーなどもあり、特に映画館や一杯飲み屋の類は、人口割りにすれば日本有数の数に上るのではないかと思われた。
ただ、着任したばかりの頃、何かしら薄汚れた印象を受けたことは否めなかった。建物や看板、木々などすべてが石炭の煤に覆われたように見え、決して明るいとは感じられなかった。何よりも流れる川の水が真っ黒なのが一番気になった(今は、炭鉱開発以前の清流に返っているとのことである)。
10月も下旬ともなれば、初雪をみるようになる。二、三度雪が降っては溶け、12月に入ると間もなく根雪となる。積雪は1mを超し、多い年は2mにも及ぶことがある。この雪は、次の年3月になってはじめて溶け始める。
冬季は最低気温−10℃くらいで、寒い年は稀に−20℃くらいまで下がることがある。
木造社宅は、当時のことだから、窓など二重窓ではなく、ペアガラスとかサッシ構造など、もちろんあるはずもない。
だから、どの家庭でも10月になると、窓など開口部に透明ビニールを桟木で壁・柱などにしっかりと張りつめる。これを怠ると、吹雪の夜など隙間風が吹き込んで、朝起きてみると、布団の上まで粉雪に覆われているなどという羽目に陥る。
しかし、部屋の中では真っ赤に焼けたダルマ・ストーブが燃えさかっている。石炭ストーブだが、燃料の石炭はわれわれ北炭社員の家庭では、年間1円で(!)数トンが会社から支給される。もちろん、売り物にならないような低品位炭だから、アクがいっぱい出る。
この谷に、北炭の主力炭鉱を有する夕張鉱業所、私が勤務する平和鉱業所、それに市南部に三菱鉱業大夕張鉱業所と3つの鉱業所があり、その傘下に大小20を超える炭鉱が存在した。
この他に、鉱山・産業機械を製造する北炭夕張製作所、コークス・化成品を製造する北炭化成工業所などの大きな工場があった。
私は昭和40年(1965)3月をもって夕張を離れるが、その後の夕張はどうなったか?
それ以前の歴史的なことも含めて、「夕張市ホームページ」から引用する。
夕張の歴史
明治7年(1874)、アメリカ人鉱山地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの探検隊が夕張川上流の炭鉱地質を調査、その後明治21年(1888)、道庁の技師坂市太郎がシホロカベツ川の上流で石炭の大露頭を発見したことから「炭鉱の街夕張」の歴史が始まりました。
明治24年(1891)の炭鉱開始以来、炭鉱の街として栄え、昭和18年(1943)には市制が施行されました。一時は大小24の鉱山、人口12万人を数えましたが、昭和40年(1965)代に入って次々に閉山。「炭鉱の街夕張」としての歴史に幕を閉じました。現在、石炭の歴史村にある「石炭博物館」「炭鉱生活館」「模擬鉱」などに、炭鉱の街夕張の歴史や生活が再現されています。
炭鉱に代わって夕張の顔になったのが「観光」です。かつての炭鉱跡地を利用し、昭和58年(1983)にオープンした「石炭の歴史村」をはじめ、北海道屈指のスキー場マウントレースイ、夕張国際冒険・ファンタステック映画祭をはじめとする多彩なイベント、全国的lにその名を知られる銘産夕張メロンを原料とする特産品開発、雄大な自然環境の利用など、いち早く新たな街づくりに着手、北海道に数ある元炭鉱の街の中で、最も活性化された町として注目されています。
この夕張市は、深刻な財政難から平成19年(2007)、財政再建団体に指定され、国・道の厳しい監督指導の下で再建に努めている。
さて、私は大学卒業直前の日記に、次のように書いている。(私の戦後史「卒業」を参照)。
「東京での生活はいくばくもない。あれもやりたかった、こんなこともしたかったと思う。しかし、また逆に早く北海道へ行きたい気もする。そこで、俺はどんな人間として生活するのだろう。ちょっと想像つかないようで、いろいろ夢見る。
働くこと。他にオンブしないで生活する。お前はこういう人間であるべきで、こういう生活をすべきだ、と俺に向かっていう権利は誰にもない。俺自身にもない。」
ここ夕張で、やりたいことを精一杯やり抜き、新しい地平が開けるだろうか。私の心の風景は一変するだろうか。
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