四国遍路3

四国遍路の小さな体験(その3)

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11.出会い、あれこれ(2001/09/25)
12.結願へ(2001/11/29)
13.高野山詣(2002/05/11)


11.出会い、あれこれ(2001/09/25)

やっと四国遍路への時間を作ることができました。9月12日から8日間、区切打ちに出掛けました。
伊予和気駅に10:30下車し、前回最後の札所、53番円明寺からスタートです。

9月という季節はどうかな、と出掛ける前、心配でした。第2回目の区切打ちのとき、室戸付近で台風のためリタイアした経験があるので、余計に不安がありました。
でも、空は曇り、風もやや強く、ほとんど汗をかかず、はじめのうちは快適に歩くことができました。
地図では簡単な道のはずなのに、迷いに迷ってやっと196号線に出、海沿いに、私の嫌いな車の道を行きます。途中、パンなど買ったお店の女性に「このあたりはいつもこんなに風が吹くのですか」と聞くと、そうだという。「だから、このあたりを風早といいます」とのことでした。そういえば、「風早88ヶ所」というのがありました。

早くも北条に着きました。予定の旅館に入るには早すぎるので、伊予北条駅で時間をつぶそうと待合室に入ると、70代とみえる男性につかまりました。鎌大師に連れて行ってやろう、といいます。この人はこれから電車に乗る積りだろうに、それに私は明日参拝する予定だからと丁重に断りました。そのうち電車が来たのでそのおじさんはホームに出て行きました。
話し好きで世話好きな人は大変ありがたいのですが、こんなことを言うと失礼ですが、時にうるさくもあります。やれやれ、と思ってなおも待合室に座っていると、電車は出て行ったのに、何とそのおじさんはニコニコしながら帰ってくるではありませんか。電車には乗らなかったのです。

さあ、それからが大変です。120円のお接待を頂いた後、鎌大師へ行かないのなら鹿島神社に案内してやろう、と歩き始めます。遊覧船をお接待するというのです。あいにく、遊覧船の時間は過ぎていました。
次に、早坂暁氏の生家跡に案内してくれ、「花へんろ」について、ゆかりの地を歩きながらたくさんのことを聞かせてくれました。そのうち、私自身が話しに夢中になって、時間をつぶすどころか、ずいぶん時間をとらせてしまっていたことに気付き、お礼を言ってお名前を聞こうとしたのですが、どうしても教えてくれません。
次の日のことですが、鎌大師に御参りし、妙絹尼にお会いして話したときに、その男性のことを聞きましたら、このあたりで有名なおじさんだとのこと、名前は知らないが「花へんろおじさん」といえば、誰でも知っているとのことでした。

翌日も曇りで、快適に歩いていきます。
鎌大師から登り坂の路面に汚水管のマンホールの蓋に句が鋳出されています。

「腰折れといふ名もをかし春の山」花叟
下りに差し掛かると、別の句がマンホールにあります。
「涼しさや馬も海向く粟井川」子規
北条市役所には、なかなか粋な人がいるようです。

菊間町に入ると、石油地下備蓄基地の看板が見えます。大学時代の友人のひとりが勤めていたのはここだったのか、といささか感慨にふけりました。
海岸沿いの国道をどこまでも行くのはなかなか好きになれません。午後になって日差しも強くなれば尚更です。つい、自販機のあるところで休みたくなります。でも、そう度々では、と一旦立ち止まっても、この次の自販機にしようと我慢します。大西町星の浦のあたりのことです。この私の仕草を見ていたに違いありません。民家の前に立っていた中年女性から、よく冷えたウーロン茶缶とヤクルトのお接待を受けたことでした。

円明寺から数えると34.7kmの長い道のりの後、やっと54番延命寺に着き、参拝。納経所で次の札所までの丁寧な地図を貰い、助かりました。
55番南光坊と、隣の大山祇神社にも御参りし、この日はすぐそばの旅館に泊まりました。客は私一人でしたが、何もかも主人が男手ひとつで世話してくれ、大変ありがたく思いました。

3日目、昨夜来の雨の中を雨具をつけて出ます。
56番泰山寺を打ち、57番栄福寺に向かう頃には雨はやみましたが、へんろ道の草露にズボンや靴が濡れてしまいました。
58番仙遊寺へ向かいますが、これが予想もしなかった石段の連続です。仁王門のところで考えました。荷物をどうするか。結局、そこに荷物を置いて、石段を登り参拝しました。正解でした。また仁王門のところまで戻り、次の国分寺へ向かいました。

ここから下りのへんろ道を五郎兵衛坂、別名、腰折れ坂というそうです。仙遊寺の太鼓の音で漁が少なくなったと怒った五郎兵衛がお寺で悪業雑言の限りを尽くし、この坂を下って帰るときに腰を折ったことに由来するそうです。
花叟の句の「腰折れ」というのは、このことかなと思いましたが、場所が北条ではないし、私にはよくわかりません。
話しは前後しますが、子規の句は粟井川河口で休んだとき、人間でも海の方を向きたくなる、その句の意味を実感しました。

雨が降ったり止んだりの長い長い道のりをやっとの思いで出合橋を過ぎ、丹原の宿に着きました。
宿では北九州からの歩き遍路の男性2人連れと一緒になり、大層盛り上がりました。この人たちとはこれから行程も宿も4日間共にすることになります。

さて4日目(敬老の日)、雨模様の中を出発します。
2人連れは定年直後の歳のくせに大変な健脚です(私が弱いのか)。そこで先に行ってもらい、私は一人で歩きます。このスタイルはあと3日間とも同じです。
舗装道路をダラダラと登りますが、先に「四国のみち」休憩所が見えます。誰か掃除している人がいます。そこでしばらく話しをします。誰に言われるわけでもないが、時々こうしてトイレも共に掃除しているそうです。
そこからいきなり横峰寺への登山道です。石段・石畳と続く小滝のある急流を右に見、左に見ながら登ります。快適な山道ですが、いささか勾配がきつい。15丁、14丁、……と刻まれた地蔵さんに導かれて登っていきます。11時前、やっと60番札所横峰寺に着きました。雨が降っていました。さすが聞きしに勝る登り道でした。
星ノ森は見晴らしが悪く、時間のことも心配であきらめました。

下りがまたまたすごい。何人も登って来ます。来る人来る人が「まだ、ありますか」と聞く。これは私たちが登ってきた道より厳しい登りではないかと思いました。
61番香園寺に着き、参拝。すごいビルのお寺で、2階が大師堂になっています。
62番宝寿寺に参拝し、宿に入ると、期待していた通り2人連れが先に着いて、もう風呂も済ませていました。
夕食は鍋料理で、またまた大いに盛り上がります。お二人(I氏とS氏)は北九州の同じ会社の歳の近い先輩後輩とのことで、登山を趣味としてしょっちゅう同行されているそうです。道理で、と思いました。ひとつの山場であった横峰寺を打ったことを祝い合いました。もう、敬語抜きです。

翌日、朝のうち曇りでしたが、間もなく晴れ、暑くなりました。この暑さは最終日まで続きます。最後の3日間は快晴でした。
63番吉祥寺、64番前神寺を過ぎると、またまた長い国道あるいはその脇道(旧街道)を延々と進むことになります。伊曾野の田んぼの中の遍路道で「オーイ、オーイ」と呼ぶ声がします。振り向くと民家の窓から男の人が「左、左」というように指差しています。間違った道を進んでいたのでした。暑い日差しの中を、引き返す羽目にならなくて助かりました。

途中、コンビニでいなり寿司の弁当とペットボトルを買い、どこか食べる場所はないかと探しながら歩いていきますが、ずーと続いた町並みにそのような場所はなかなか見つかりません。
中萩の少し手前だったと思いますが、突然「お遍路さん、休んでいきなさい」と声を掛けられました。見ると、「ミニミニ自由文庫」と掛札があって、そのなかから若い男性がコップに入った麦茶を差し出してくれました。「ここへ座って飲んでいきなさい」。このよく冷えた麦茶の美味しかったこと。魔法瓶の中から「いくらでも飲んでください」といわれます。遠慮なく飲ませていただき、弁当もそこで食べました。

このミニミニ文庫は主として子供たちのための図書館のようなもので、この男性がやっているのではなく、彼は本を借りに来ていたのでした。土地の篤志家が自分の敷地の一部を文庫として提供し、同時に遍路たちに休憩の場を提供しているのです。そこに備えてある雑記帖には土地の子供たちに混じって、多くの遍路たちの納札とお礼の言葉が連ねてありました。

新居浜市から土居町に入り、別格12番延命寺にお参りしました。境内で売店を開いているご夫婦から冷たい缶ジュースのお接待を受け、しばらく話しをしました。
今回は土地の人と積極的に話しをすることを心掛けてきましたが、これで時間に代えられない多くのものを頂いたような気がします。
宿に着いたら、例の2人組は先に着いており、またまた盛り上がりました。もう10年来の知己のようなものです。

6日目、今日は三角寺を打ち、雲辺寺の登山口にある民宿岡田までの予定です。
伊予三島市に入り、寒川の街中で男性から101円のお接待を受けました。なぜ、101円?
三角時登山口で道を間違えかけ、土地の中年女性に助けられ、疎水公園でまた休み、そこで土地の男性3人と雑談。いつまでも話していては時間が過ぎるばかりなので、やっと腰を上げかけるとこれから先の道を親切に教えてくれました。
65番三角寺参拝。ダラダラと下りきったところに、「ゆらぎ休憩所」というのがあります。トイレもあります。どうも土地の建設会社が寄付したもののようです。こうした施設は大変ありがたいと思いました。

晴れてきて、暑い。しかし、意外に早く、下の方に椿堂が見えます。別格14番常福寺です。
参拝し、納経をお願いすると、お寺の若奥さんとみえるその女性は記帳した後、私が納経料を差し出すと「歩きの方からは頂きません。お接待です」といいます。ありがたくお受けしました。
荷物を詰め直していると、その女性が冷たい麦茶とお菓子をお盆に載せて「どうぞ」と持ってきてくれました。感激して、おし頂きました。

長い境目トンネルを過ぎ、やっと宿に着きました。主人に、2人連れと一緒に出たのか、と聞かれました。「1時間前についているよ」。
この2人連れとは、宿が一緒になるのは今晩が最後です。その「お別れ」と、もうひとつの山場である明日の雲辺寺への無事を祈って、またまた盛り上がりました。
しかも更に、この晩は嬉しいことが重なりました。この民宿に既に20日間ほどずーとステーしているY子嬢も一緒だったからです。Y子嬢は、ここで民宿を手伝いながら、訪れる遍路をつかまえてはアンケートをとったり、インタビューしてそれを卒業論文にまとめようとする大学生です。
S氏もY子嬢もメールアドレスを持っているということで、今後のメール交換を約束しました。

その翌日6:30出発、いよいよ雲辺寺です。空は快晴です。やはり相当な登りですが、それでも8:30には66番雲辺寺に着きました。ここからは涅槃の道場です。
下りの方が大変です。標高差約900mを下ります。前夜の宿では役所の規定により弁当を作ってもらうことができませんでした。2人連れのご好意により、パンの耳を空揚げしたような非常食を頂きました。これで助かりました。その日一日、道筋に食堂も食料品店もほとんどなく、頂いた非常食だけで通しました。お2人に心から感謝します。

あまりの暑さに67番大興寺を目の前にして木陰で休みます。そこで草刈をしている女性と、その人の子供のこと、孫のことなど話します。
まだ先があるので、やっとの思いで立ち上がり大興寺にお参りし、またまた日陰のない道を行き、68番神恵院、69番観音寺に参拝。この両寺はセットになっていて、納経所もひとつです。
しばらく歩いて、今日の宿のビジネスホテルに入りました。

8日目、今日は今回区切り打ちの最後の日です。
70番本山寺、立派なお寺です。五重塔もあり、遠くから見えます。そこから、またまた国道です。11号線で、車が大変多い。71番弥谷寺を示す双石柱があり、やっと着いたかと思うととんでもない。そこから更に山を1.2kmも登らなければなりません。
民家の間を行っても行っても着かない。やっと山門です。降りてくる人にこの上、どのくらい石段があるかと聞くと、ここはほんの序の口だといいます。例によって、荷物をそこに置き、石段を登ります。確かに、あそこは序の口でした。しかも境内の中が石段だらけです。雲辺寺よりも横峰寺よりも私にとってはつらく感じました。
72番曼荼羅寺、73番出釈迦寺、74番甲山寺と参拝します。稲穂が風に揺れ、彼岸花が咲き誇り、トンボが舞い、道々は秋の気配です。
75番善通寺に着きました。さすが弘法大師出身のお寺です。広大なものです。残念ながら戒壇めぐりは次回にまわすことにしました。
アイスクリン屋さんからアイスクリンを買い、駅までの道を聞きました。

善通寺駅から特急南風に乗り、岡山から新幹線に乗り換え福山に帰り、今回の区切打ちは終わりました。

今回の「小さな体験」は、遍路の道々での多くの出会いを中心に書きました。このすべての出会いに、心から感謝します。
この出会いとは、人との出会いだけでなく、木々や草花、そこの風景、自然、人間の作った施設、そしてマンホールの蓋までが出会いの喜びを私に与えてくれました。

次回は、結願を目指して、いつになるか分かりませんが、お四国に出かけようと思います。


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12.結願へ(2001/11/29)

11月の3連休に休暇を2日加え、結願へ向けて出発しました。
初日(勤労感謝の日)、天気予報によれば、今日からしばらくは快晴です。前回最後の札所、75番善通寺から出発します。
76番金倉寺、77番道隆寺と参拝し、道隆寺裏門から県道33号線を行きますが、道がクランクになったりして分かり難い所があります。陸橋に腰掛けて休んでいると、後ろからきた夫婦へんろが見事に(?)道を迷っています。「こっち、こっち」とお杖で指差して教えてあげました。
また、歩きへんろ12回目(うち、逆打ち2回目)のY氏と出会い、ご自身のことが載った新聞記事とアメの接待を受けました。

11時、78番郷照寺へ入るところに餅屋さんがあり、店先で丁度おはぎを作っているのが見えました。すごい食欲に襲われましたが、まず参拝と我慢し、お参りを済ますとすぐ、石段を下りてその餅屋さんに入り、大福やらおはぎやらを頂き、満腹しました。
さて、元気を出して高照院へ向かいますが、意外に道が分かり難い。79番高照院天皇寺からの出口がまた分かり難い。やっとの思いで80番国分寺に着き、少し先の民宿に宿を取り、初日を終わりました。

2日目、快晴ですが、今日は私にとってはいささか強行軍の日程です。
「へんろころがし」はよく整備されていますが、確かにきつい坂です。夫婦へんろに追い越され、大きな荷物を背負った野宿の若者にも追い越され、十九丁分岐にやっと着きました。道標の方向が私の感覚と逆です。磁石を取り出し、チェックしますと、やはり自分の感覚が狂っていました。道標にしたがって進み、81番白峰寺につきました。そこから十九丁分岐まで打ち戻り、82番根香寺に参拝、あとは一路下りです。
このあたりを五色台というそうで、紅葉がとてもきれいです。

先ほどの野宿若者が、次の83番一宮寺まで「13.3kもあるのですよ、行き着けるでしょうか」と心細いことをいいます。まだ、昼の12時頃ですよ。
一宮寺どころか、私の予定はそこから更に5k以上もある高松市都心のビジネスホテルまでです。彼の言葉に私の方も急に心配になってつい足早になってしまいました。次の日のことですが、彼も結局、その夜は高松中央公園で夜を明かしたとのことでした。

3日目、3連休最後の日も快晴です。今日はどうしても11時までには85番八栗寺に着かねばならないのです。というのは、そこで妻と落ち合う約束になっているからです。
彼女は、バスツアーや車へんろを重ねて(一部、私と一緒に歩いた区間もありますが)、84番屋島寺まで参拝を済ませているので、ここから二人一緒に歩いて結願にしようというわけです。

朝6時、まだ暗いなかを出発します。
屋島小学校手前の公園で、ここまで打戻りになるので荷物を置いて行こうかとその準備をしていたら、すぐ後からきた歩きへんろに、「盗まれる危険がある」と注意され、仕方なく背負って登りましたが、なかなかつらいものがあります。
遂に、不喰梨の休憩所で荷物を置き、納経用具だけ持って登り、屋島寺にお参りしました。降りてきたら、もちろん荷物は無事で、それどころか私の真似してほかの荷物が2つも置いてありました。

川沿いの細い車道を車を避けながら行き、見上げると屋島の頂上の岩峰が紅葉のなかに見事に浮かび上がっています。思わずカメラを向けていますと、老婦人が二人、ちょうど通りがかりました。「写真を撮りますよ」というと一人の婦人は逃げ足になり、もうひとりの人はこちらに顔を向けました。そこを、パチリ。そして、そのご婦人から「お賽銭を上げてください」と100円のご接待を受けました。
八栗ケーブル横のへんろ道を行き、ちょうど11時に八栗寺に着きました。
つれあいも間もなくケーブルを使って着きました。ここからは二人で一緒に歩きます。86番志度寺までの道筋は平賀源内ゆかりの旧宅など、立派な家の多いところです。
87番長尾寺に参拝し、すぐ門前の旅館に宿をとりました。

4日目、いよいよ今日は結願の日です。陽気な旅館の女将さんに道を曲がる角まで見送られて、元気に出発です。
といいたいところですが、昨日・一昨日少し急ぎすぎたせいか、いささか足が痛く、つれあいについ遅れ勝ちになってしまいます。前山ダムのところで、東コースをとったのは失敗だったようです。足が痛いのに、最後は標高差100mばかりの急登と急降下を強いられました。

女体山の登りが大変です。女体という言葉とは大違いの岩場です。これには本当に参りました。ともかく頂上を経て下りに差し掛かり、ますます足が痛くなって、すっかり弱気になったところへ、大窪寺へあと1.1kの標識。見ると少し登ってまた急降下する様子です。 標識では、林道(大窪寺へ)という道もあります。ついついそちらをとってしまったのが大間違い。3kほども損してしまい、腹が立つやら、足がますます痛くなりやら、私はすっかり不機嫌になってしまいました。

お陰で、やっとの思いで結願寺、88番大窪寺に着いたというのに何の感慨も湧きません。まったく不信心の、修業の足りない凡夫そのものです。何のためにここまで1000何百キロを歩いてきたのでしょう。
ともかく、お参りを済ませ、まだ先の旅程があるので急がねばなりません。県道377線を下ります。

ところが、その途中私は、つれあいがびっくりするほどの転び方をして、右肩と顔面と左ひじを路面にしたたかに打ちつけて怪我をしてしまいました。路面に転がっていた木の枝につまずいたのです。
よりによって結願の日に、なんで私はこのような目にあうのだろう、本当にこの世にお大師さまはいらっしゃるのだろうか、私の何が悪いのだろうか、私はますます不機嫌になってしまいました。

それでも歩きながら考えました。昨夜の宿の女将さんが言っていたことを思い出したのです。
何日も連泊の末、無銭で逃げられてしまったことがあったこと、行き倒れを医者に連れて行って診療してもらって金を払っている間に先に帰られ、自分が帰ってみたら、ちゃっかり風呂に入られていたりして腹立たしかったが、次の日、大変たくさんの客さんを迎えられたことがあったこと。
「悪いことの後にはきっといいことがある」「お大師さまはちゃんと見ていらっしゃる」という言葉などを思い出して、何とか気を静めようと努力しながら歩きました。「明日はいいことがある」と。
大分遅くなりましたが、無事、10番切幡寺の麓の民宿に着きました。

5日目、いよいよ1番霊山寺へ向けて、かって3年前、初めての区切打ちに歩いた道を逆にたどります。
懐かしい道々です。8番熊谷寺の大きな惣門、そのすぐ前の食堂で昼食を取ったことなど、つれあいに説明しながら進んでいきます。
別格大山寺への入口で大きな荷物に背負い、浅黒くなった白衣を着したひげ面のベテラン(?)へんろに出会い、「全財産を家族に譲り、こうして歩き続けているのだ」と聞き、本当にびっくりしてしまったことなど思い出していました。

3番金泉寺門前の、お店のような、お店でないような(金泉寺からでると右側)なかから、男性に呼び止められ、中に入って小1時間もおしゃべりをしたでしょうか。その人が目の前で組紐を使ってトンボを作ってくれました。いろいろな話しのなか、印象的だったことをひとつだけご紹介します。

「人と話しをしている時、自分の指をそろえてあごの下に入れてみるといい。指4本があごの骨と鎖骨の間に入るくらいならよいが、5本全部入ったり、握りこぶしが入るようならあごが上がりすぎている。つまり、頭が高くなって自慢話になっているのだから、注意しなさい。」
日頃、若い人たちと接している大学教師としては、大変参考になりました。
そうこうしているうちに、遂に、霊山寺に着きました。

ところが、大変なことが起こっていました。「お軸がない!」というつれあいの頓狂な大声に動転してしまいました。
「名前は書いてあったのか。」と私。「藤田幸子、とちゃんと書いてありましたよ」「住所は?」「住所は書いてない」「それじゃ、仕方がないじゃないか」
彼女はここまで納経帳の他に納経軸を持って、これに88ヶ寺すべての朱印と記帳を頂いて巡って来たのに、これをどこかで、切幡寺山麓から霊山寺の間のどこかで、落としたのか、置き忘れたのか、失してしまったのです。嘆き悲しむこと、見ていて本当に可哀相になってしまいました。

でも、仕方ありません。参拝を済ませ、納経所で納経帳最後のページに「願行成圓」の記帳を頂きました。これで満願です。
4年越しで1000数百キロを歩き通し、88ヶ寺参拝の円環が完結したというのに、想像していた達成感も感激もありません。愚妻の(まさに愚妻の)悲しみがひしひしと伝わるだけです。

でも、すべては終わり、板野駅までタクシーで、そこから特急うずしおに乗り、新幹線で福山まで帰ってきました。 つれあいも次第に落ち着き、電車の中で私に話し掛けてきました。

「お軸に朱印を貰おうという一心で、ここまでやってきた。それがなかったら途中でお遍路は挫折していたかもしれない。やっと88ヶ寺全部の朱印を頂いて、それでお軸の役目は終わったのでしょう。私がここまで来れたのだから。」
「もし、お軸を持って帰ることができたら、それを床の間に飾って、来る人来る人に自慢ばかりするようになったかもしれない。」
そう話して、それ以来、彼女はすっかり元のように元気になりました。(本当は、強がっているだけかもしれませんが)

いろんなことがありましたが、こうして私の、そして私たちの、四国遍路の小さな体験は多くの人たちのお陰をもって終わりました。


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13.高野山詣(2002/05/11)

昨年11月に結願し、1番霊山寺で「願行成圓」の記帳を頂いてから年を越してしまいました。やっと、機会を見つけて高野山にお参りしてきました。ただし、今度は「歩き」ではありません。
5月6日、連休最後の日に地元の旅行会社主催の日帰りバスツアーに参加。朝6:30自宅出発、帰宅は午後10:30の強行軍でした。

バスは、橋本から九度山を経て、371号線・370号線の狭い道をくねくねとどこまでも登っていきます。そうしてようやく着くと、そこは標高1000mの高原都市です。
お大師さまは、よくもまぁこんな険しい山奥に、1200年も前に、寺院創建を決心されたものです。私たちにはとても思い及びもつかない、その雄大な構想力に心を打たれます。それこそが宗教の力なのでしょうか。
そして、多くの人たちの大師信仰がこの高野山をここまで作り上げてきたのでしょう。弘法大師の偉大な力とともに、私たち凡人一人ひとりの力は小さくとも、その偉大さに変わりはないものと感じました。

5月6日は、その前日まで結縁潅頂が行われていたのでした。このツアーはそれを避けて、今日から連日出発する最初のツアーだったのです。残念でした。前日まで、多くの人のお参りがあったことでしょう。

この日は、よく晴れて気持のよい日和でした。精進料理の昼食をいただいた宿坊・宝城院の庭は大きな石楠花の花が満開でした。
奥の院に入ると、樹齢何百年の杉木立の中に芽吹いたばかりのもみじの黄緑色がきれいでした。牡丹も満開で、八重桜もまだ咲いていました。
奥の院にお参りし、案内人の説明を聞きながら、弘法大師が入定された御廟を廻りましたが、ここでも両脇の長い生垣の石楠花がきれいでした。

納経帳に朱印と記帳をいただき、私の納経帳は全ページが埋まりました。
これで私の四国遍路は終わりました。いつの日かまた、今度は通し打ちで巡拝したいものだと、ひそかに念じています。


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