四国遍路の小さな体験――2巡目
(その3)
1.足摺から内子町まで(2006/02/19〜02/27)
2.内子町から伊予小松まで(02/28〜03/05)
3.伊予小松から観音寺まで(03/06〜03/10)
1.足摺から内子町まで(2006/02/19〜02/27) (1)トンネルあれこれ
2巡目のお遍路を、四万十川(中村)から再開しました。高知のホテルに前泊して少しばかり観光し、高知駅発、朝一番の特急に乗って中村駅に着き、四万十川沿いに歩き始めます。
今日は久百々までの予定ですから、距離は20キロ強しかありませんが、出発が遅いので少々気が急きます。
四万十川を渡れば、恐怖の伊豆田トンネル1610mです。入口からの距離が200m毎に両側の壁に交互に書いてあります。「大分来たな」と思って、その距離標識をみると「あと1410m」とある。なぁ〜んだ、まだ200mしか来ていない。
こんなことを繰り返しながら、ほぼトンネルの中央辺りに来たとき、待避所があって何かの制御函があり、それに落書がしてあります。
「よせばいいのに」
誰が書いたのか?おへんろの一人が書いたのか?まったく、その通りだ、という思いがなくもありません。
何をすき好んで、歩きに歩くのか?人によく聞かれますが、なかなか答えることができません。信仰が厚いわけでもなし、名所旧跡を訪ねる楽しさを求めているわけでもなし、人から見れば、まさに「よせばいいのに」ということでしょう。自分でもそう思うくらいですから。
トンネルを歩くのはどうしても好きになれません。登山道のような上り下りの激しい道でもそれなりの楽しさはありますが、トンネルだけはいけません。ただひたすら歩くだけです。早く出口に出たいと思うので、やはりペースが速くなるようです。伊豆田トンネル1610mを、今回は18分で通過しました。
でも、楽しい(かどうか、少なくとも苦しくはない)トンネルもあります。
40番観自在寺から41番龍光寺に到る56号線の内海トンネルなどそのほか、新しい車道用のトンネルができ、古いトンネルを人と自転車専用にしているところです。壁から床まで真っ白に塗ってあり、明るい感じがします。
3時半ごろ、久百々の宿に着きました。
(2)降水確率10%でも雨が降る足摺 久百々の夕暮れ
翌2月20日、大変よくしていただいた久百々の民宿を出る頃、雨です。
懐かしい大岐海岸。これも約1600mあります。その波打ち際を歩くのを楽しみにしてきたのに、今日は歩きにくいことおびただしい。引き返すこともならず、歩くうちに気がつきました。犬の足跡に従うのがいいのか、と思ったりしたのですが、一番いいのは人の踏み跡をたどることです。そうすれば、足が砂の中にめり込みません。
天気だったら、波が打ち寄せるすぐそばを歩くのが賢明ですが、雨の日はいけません。打戻りには車道にしようと決心したことです。
以布利に差し掛かるところで悩みました。へんろ道を行くべきか、車道を行くべきか。結局へんろ道に取り付きましたが、これは失敗でした。雨の日は、これまた歩き難い。帰りは天気によっては、車道にしようと決心しました。
それにしてもよく降る雨。以布利で、一旦降り止んだので雨具を脱ごうかと思いましたが、怪しげな天気なので脱ぐのを止めました。正解でした。また降り始めました。
結局、38番金剛福寺にお参りし、岬の少し先の民宿福田屋に着くまで、雨は降り続けました。
翌日も朝から雨です。昨夜の天気予報では「土佐清水地方 降水確率10%」といっていたのに、朝から雨が降る。私の住む福山地方では確率50%でも降らないことが多いのに。 慈母の岩――足摺の宿から
もちろん、気象台に文句をいってはいけません。降水確率 0%でも、雨が降らないと気象台は保証している訳ではないのですから。
雨が降っていても、足摺岬の灯台をスケッチしたくて、もう一度、展望台に向かいます。展望台に登れば屋根がありません。強引に描きかけましたが、止めました。この雨ではどうしようもありません。
西回りにしようかと思いましたが、止めにして、来た道を帰ることにしました。
来た時の決心通り、へんろ道は通りません。車道を帰ります。以布利に差し掛かるとき、へんろ道ではなく車道を、という一心で、車道をどんどん歩きました。雨は依然、降り続いています。ちょとヘンだとは思いながら、道を聞く人もいません。遂に、海が見え始めました。ここで、これはおかしい、と思い地図とコンパスを出して確かめます。全く違う方向に大きな港が見えます。どうも見覚えがある。
それが土佐清水港だと、やっと気付きました。つまり、道を逆にとり、足摺半島の付け根を横断した訳です。見覚えがある港だったのは、前回、西回りで打ち戻ったからです。もう一度、半島を横断して東側の以布利まで戻らねばなりません。
今日はへんろ道は通らない、という妙な頑固さがこのような結果となったのです。大いに反省しました。
雨は上がり、太陽も出て来ました。やっと雨具を脱ぎます。大岐の海岸も車道を行きます。
それから4日間ほどは、雨は降りませんでしたが、晴れ上がりもしません。どんよりとした曇りが続き、とても寒い。フリースの上着をつけたままの厚着でも汗をかきません。歩くのに快適と言えば快適です。
ところが26日朝、42番佛木寺そばの民宿を出る前からまた大雨。歯長峠のへんろ道を越えればいいものを車道を行き、大回りしてしまいました。どうもひとつの観念にとらわれて、いけません。これも歳のせいか、悲しくなります。
降り続く雨の中、43番明石寺にお参りする頃は止み、大洲のビジネスホテルに泊まり、翌日十夜ヶ橋、内子町と懐かしい道を強風の中、一人もくもくと歩き、やっとの思いで小田町の旅館に入りました。
(3)同行の士を喜ぶ
話しは前後しますが、打戻りの大岐海岸で出会ったN氏が、今回出会った初めての歩きへんろさんでした。逆打ちの人には会いましたし、自転車へんろの若者何人かに追い越されましたが、順打ちのおへんろさんにはこれまで会うことがありませんでした。
この時期、歩きへんろは大変少ないようです。お寺でも会いませんし、宿もほとんどの場合、宿泊は一人です。日は少しづつ長くなってきているし、歩いていても汗はかかないし、歩きには最適だと思うのですが、やはり華やかさがないからでしょう。梅の花、菜の花はきれいですが、桜はまだ咲いていません。でも、20日には初音を聞きました。
今回のへんろで一番感じたことは、一人旅の寂しさ、ということです。3月上旬になって、少しづつおへんろさんも増えてくるようになりました。
そこへ、N氏との遭遇です。とても嬉しくなってしまいました。
22日、大岐海岸で出会った時聞いたところ、今夜の宿は下ノ加江の同じ民宿です。もうすでに3順目で私より先達です。その夜、長いこと私の部屋で話し込みました。
真念コースを今回は歩いてみようと思いましたが、宿の主人は「そちらは車が多い」というので、前回通り、三原経由で行きました。「いきいきみはら会」の休憩所で休んだり、工事ですっかり道の変わってしまった船ヶ峠のあたりで座っておしゃべりをしている間に、時間がなくなってきました。これでは39番延光寺に5時までに着かないことになってしまいます。
ちょっと馬力をかけて急ぎます。今日は、二人ともお寺のそばの同じ民宿嶋屋です。着いてから、一日平均35〜40キロを歩くというN氏に、少し速かった、と言われてしまいました。
延光寺では、二人で声をそろえて般若心経を唱えました。N氏いわく「二人で唱えると、朗々としていいですねえ。一人だとどうしてもボソボソとなっていかん」。
翌日、宿毛市街を通り、松尾峠を目指します。このあたり、わたしの大好きなところです。いくつかの小さな集落を過ぎ、木から落ちて道に転がっている文旦、伊予柑を拾って食べました。そして土佐・伊予の国境である松尾峠、そこで民宿お接待の弁当を頂きながら、私は大急ぎでスケッチしました。
松尾峠から宇和の海を望む
56号線に出、40番観自在寺にお参りし、少し先のビジネスホテルに投宿しました。 室手海岸
今晩でN氏ともお別れです。彼は朝早く出発して、私が宿泊を予定している津島町を過ぎ宇和島まで足を伸ばします。僅か3日間という短い間でしたが、楽しい思い出ができました。
翌24日からまた一人旅です。やっぱり寂しい。
内海から柳水大師―清水大師のへんろ道を行く元気なく、海岸沿いの56号線を歩きました。これはこれなりに楽しいところがありました。
41番龍光寺、42番佛木寺にお参りします。
佛木寺は、わたしの大好きなお寺。特に、あの藁葺きの鐘楼堂がいい。
佛木寺鐘楼堂
2.内子町から伊予小松まで(2006/02/28〜03/05) (1)タクシーに乗り、歩きの輪が切れる
一昨日から腰が痛くてたまりません。小田町の旅館から距離30キロ、標高差400〜500mの山越えをする元気はなく、タクシーで44番大宝寺まで行きました。これで、歩きの輪は切れてしまいました。
でも、と言い訳がましいのですが、今回は初めから60番横峰寺はスキップするつもりでしたから、いずれにしろ輪はつながりません。
(横峰寺はへんろ道が一昨年の台風で破壊されたままだというので、この歳ではとても無理ではないか、と諦めていました。いつか石鎚山と一緒に"登山”としようと思っています。)
約20キロの道程をあっという間に44番大宝寺に着きました。いささか申し訳ないような気持でお参りします。
峠御堂トンネルを越え、45番岩屋寺に向かいます。国民宿舎古岩屋荘に泊まるつもりですから、今日の行程は僅かに10キロ程度です。 大宝寺仁王門
しばらく行くと、向こうからN氏が来るではありませんか。まことに縁は異なもの、奇なものです。旧友に久し振りに会ったような懐かしさで、道端でしばらく話をしました。彼は山越えをせず、380号線―33号線―212号線と車道を経て、昨夜、国民宿舎に着いたとのことでした。
その次の日、つまりこの日、荷物を背負ったまま岩屋寺に登り、あの八丁坂を越えてきたというのです。私より若いとはいえ、その脚力に驚嘆しました。
(2)ルリイチゲを写生する
国民宿舎に着いたこの日、つまり2月28日、荷物を宿舎に預け、お参りに必要なものとスケッチの画材だけを持って、岩屋寺に向かいました。
よく整備された車道から橋の袂を直瀬川沿いのへんろ道に入ります。ほとんど人の入った形跡がありません。それはそうでしょう、へんろ道に入ってもほとんど近道にはならないからです。
でも、しばらく行くと、私の前を歩いている人がいます。おへんろさんかなと思いましたが、違いました。登山靴を履いてスパッツまでつけた登山姿の男性です。こんなところで、何を?
「この花を見てご覧なさい」と、小さな花を指し示します。「ルリイチゲといって、この直瀬川沿いに、今の時期にだけ咲く花です」といいます。本当にかわいらしい花です。一本に一輪づつ淡い瑠璃色の花をつけています。またの名を「ユキワリイチゲ」というそうです。
彼は、その写真を撮りに来たのだ、といいます。私も写真に撮りました。
お寺にお参りした帰りは車道を帰るつもりでしたが、思い直してまたへんろ道に戻りました。ルリイチゲを写生するためです。
もしへんろ道を通らなかったら、この人に会わなかったでしょうし、この人に会わなかったら、ルリイチゲのことなど一生知らないまま過ごしたことでしょう。
宿に帰って、フロントの女性にこの写生を見せて話をしたら、「私はこの地に住んで20年になるが、その花のことは知らない」と言いました。
(3)古い遍路宿と遍路墓、そして素晴らしい田園風景
今日から3月。三坂峠を越えて松山の46番浄瑠璃寺まで。今日をなんとか越せれば、もう腰は大丈夫のはず、とこわごわ歩き始めます。
雨は降るし、何よりも寒い。三坂峠は前回も強風と雨霰に悩まされました。「三坂峠の下りは石がゴロゴロで歩き難いから、止せ」と、一日先を行くN氏がわざわざ携帯で電話してくれたところ。確かに難路です、特に雨の降る時は。
でも、このへんろ道を下ります。
ようやく集落が見え、舗装道路となります。
すぐ右に「坂本屋」と書いた看板と説明書きがあります。かっての遍路宿を修復して保存しているのです。古い形式の建物でなかなか風格があります。確かに、このあたりまで来ると、へんろ達にとって泊まるところが欲しいと思われるところです。
遍路墓も大切に保存してあります。この地の人たちのへんろ達への思いやりが偲ばれます。
急谷の集落で、流れる川はいたるところ雄大な滝となって大量の水が流れ落ちています。急谷ではあっても思いのほか広い谷です。家々も風景に実によく溶け込んでいます。
雨でなかったら、どんなによかったろう。ここにしばらく座り込んで、胸いっぱいに空気を吸い込み、風景を眺め、スケッチしたらどんなに幸せなことだろう。
このような日本の原風景ともいえるような風景が網掛石まで続きます。雨の降らないとき、もう一度ぜひ訪れたいものと強く思いました。
(4)松山は寒かった
3月2日、雨の後は、必ずといっていいほど寒くなります。
47番八坂寺、48番西林寺、49番浄土寺、50番繁多寺、51番石手寺と巡ります。
本当に寒い。真冬並みの寒さで石手寺に向かう頃、雨交じりのみぞれが降ってきました。スケッチブックを取り出しましたが、とても手がかじかんで描くどころではありません。諦めて、宿へ急ぎました。
今夜の宿は、私学共済の保養所です。大きな温泉風呂で、久し振りにゆっくりしました。
テレビのニュースが、久万高原(大宝寺、岩屋寺のあるところ)では雪が降っていると報道していました。こうも一人旅が続くと、もう打ち止めして帰りたくなってきました。
今日は桃の節供、松山市内を北廻りで通過しました。今日も一人旅、しかも、とても寒い。
52番太山寺から53番円明寺は単純な道ですが、工事中のため、とてもわかりにくい。地元の人もわざわざ紙に書きながら説明してくれますが、なかなか分かり難い。その間も、寒くてたまらない。用を足したくても、トイレがない。野原ではないし、本当に弱りました。
でも、北条市に入る頃は大分暖かくなり、私の大好きなスポット、粟井川河口でスケッチしました。
不思議なことに、犬が川の中州を走り回っています。犬が走り回っても不思議はあるまいとお思いでしょうが、前回、5年前もここで犬が走り回っていたのです。まさか、同じ犬ではありますまい。
(5)おへんろさまざま 粟井川河口
3月4日、北条から今治までかなりの距離の間、札所がありません。でも、いろいろお参りするところはあります。まず、鎌大師。前回、妙絹尼にいろいろとお話を聞いたことを思い出します。一礼して通り過ぎます。
菊間町の遍照院。ここも一礼だけのつもりが、前回と同じように門前で店を開いている女の人からみかんとお菓子のお接待を受けました。
次が、青木地蔵。昼食を摂るべく裏に廻ると、男女2人のおへんろさんが休んでいます。聞くところによると、昨晩はここに泊まったとのことです。5人くらいは泊まれる無料の宿泊施設があります。水道もあるし、トイレもあります。
そのうち、また一人のおへんろさんが帰ってきました。下の川の水で足を冷やしていた、といいます。足を痛めてもう何日かここに泊まっているといって、部屋の中に入って横になってしまいました。
もう昼を過ぎようとするのに、誰も立ち上がろうとしません。私は早々に昼食を済ませ、3人を置いて再び歩き始めました。おへんろにはさまざまな人がいます。
おへんろといえば、次の日のことです。昨日参拝を済ませた54番延命寺、55番南光坊、今日の56番泰山寺、57番栄福寺、58番仙遊寺(この上り下りは、やはりきつい)、59番国分寺参拝後、今治湯ノ浦温泉道の駅を過ぎた高速道路沿いの道で出会った逆打ちへんろ。
横峰寺へのへんろ道の情報などいろいろ話してくれましたが、相当のベテランへんろらしく、両手に手袋つきの杖、荷物は私の半分くらいの小さいもの、それよりも驚いたのは、彼が見せてくれた地図。ほとんどの歩きへんろが持っている保存協力会の地図ではなく、1/25,000の国土地理院の地図に自分で選んだルートを書き込んだものです。
「宮崎さん(保存協力会主宰)に宮崎流の地図があるなら、自分には自分流の地図があっていい」といいます。自分だけの思わぬ発見もあるし、道筋の人たちも珍しがって歓待してくれる、と言っていました。
これはまた、後のことですが、3月7日、新居浜の宿から歩き始めてすぐ、国道11号線でキャリアを引いたおへんろに追いつきました。「今日はどこまで?」と問いかけると、「延命さま」とだけ答えます。余り話したがらないようなので、そのまま私は先を急ぎます。
延命さま?それはどこのことか?もしかして別格12番延命寺のことか?それにしては、ここから10キロ足らずしかないが・・・・・、と思いながらも、歩き続けて私も延命寺に着きました。隣の「いざり松」の前に屋根つきの休憩所があります。そこで、コンビニで買った握り飯で昼食です。
昼食を終わり、さて出かけようかとした時、そのおへんろさんが着ました。いろいろ話を聞いているうち、やはり今日はこの休憩所に泊まるのだということが分かりました。これで、お四国巡拝5順目だといいます。しかも連続ですから、春夏秋冬、季節に関係なく歩き続けていることになります。
昨日はとても寒かった、寝袋3枚重ねて寝た、と言います。「これから、だんだん暖かくなっていいですね」というと、「暖かいのはいいんだが、もうすぐ蚊が出てくる、これが一番困る」「どうするんですか、蚊取り線香をもっているんですか」「もって歩いている」と、まあ、こんな話です。
これは、前の話。足摺岬の展望台で、雨の日、私がスケッチを諦めて下に降りたら、一人の若者が携帯コンロでコーヒーを沸かして飲んでいました。この人は、軽自動車を改造してその中で寝泊りしながら、札所巡りをしているそうです。
おへんろにはそれぞれの事情があり、それぞれの考え方があるものです。
3.伊予小松から観音寺まで(2006/03/06〜03/10) (1)変わる道、変わらぬ道
60番横峰寺は後回しにしたため、と言い訳しながら伊予三芳町の旅館から61番香園寺まで、またまたタクシーを使ってしまいました。
参拝後、62番宝寿寺へ向かいます。お寺へ入ろうとした時、2人のおへんろさんが出てきて先へ向かっています。同行したいものと思い、急いで参拝、後を追いかけるが63番吉祥寺でも64番前神寺でも出会いません。横峰寺に向かったのかもしれませんね。
前神寺を出る頃、雨が降ってきました。伊曾の橋を渡る前、道を間違えかけましたが、車で通りかかった人が親切に教えてくれました。そして橋の近くへ来たとき、記憶がよみがえりました。西条農高があり、武丈公園があります。この辺は何も変わっていません。雨の中、この休憩所でおにぎりの昼食。寒い。早々に立ち上がって歩き始めます。
西条市を過ぎて新居浜市に入り、中萩の旧道へんろ道をどこまでも歩きます。前回この通りのどこかに篤志家による子供図書館があり、そこで冷たい麦茶を頂いた(前回は暑い日だった)子供図書館があるはず、と思いながら通り過ぎましたが、遂に発見できませんでした。町筋の様子は変わりませんが、こうした小さな変化はあるようです。
この先、国領橋の手前に確かアーケード街がありました。今でもありました。その中を歩いていきますが、こころなしかシャッターを閉めたお店が増えたように思いました。
次の日、車の多い国道11号線から分かれた遍路道には多くの見覚えがあります。土居町に入ってすぐ関川で梅の花の咲く道をスケッチしていたら、すぐ前の老人ホーム(?)から出てきた中年女性が寄って来て、「たくさん描いているんでしょう、見せてください」というので、恥ずかしながらスケッチブックのはじめのぺージから見せてあげました。
随分誉めてくれて、ご褒美に伊予柑とポケット・ティッシュを頂きました。このあたりはあまり変わっていないように思います。見覚えがありますから。
更に進んで、豊岡の津根村山神社。この神社には記憶があります。境内の上が公園になっています。そこで、幼稚園の子供たちが先生に連れられて何か勉強していました。私も休憩することにしました。 関川さきのへんろ道
見ると、随分太い桜の木が何本もあります。その中で一番貫禄のありそうな古木をスケッチする気になりました。あとで、すぐそばに石碑のあるのに気付きました。「天皇陛下御即位10周年記念」とあります。ということは、この桜の古木は少なくとも80歳以上になるといえます。それにしては、ちょっとかわいそう。
こうした道々は余り変わっていませんが、道路工事で大きく変わって、遍路道への入口を見落とすところも少なくありません。 津根村山神社の桜の古木
例えば、前に遡りますが、五十崎駅手前から内子へ入る遍路道の入口、国道56号線の工事のため入口を見落とす危険があります。
今治湯ノ浦温泉あたりも高速道路ができたため、遍路道は随分と変わり、分かり難い。
ルリイチゲのところで書いたように、岩屋寺への直瀬川沿いの遍路道の入口も分かり難い。これも工事で立派な橋ができたためでしょう。
北条市を通り抜ける道に2通りあり、地図(保存協力会編第6版)では、どちらも196号線となっていますが、196号の名称はバイパスの方に取られ、従来からの道は347号線となった、とちょうど停まっていたパトカーのお巡りさんから聞きました。
(2)懐かしい民宿岡田での再会
3月8日、宿泊した伊予三島から65番三角寺を目指します。戸川公園の休憩所で女性のおへんろ(Oさん)に出会い、一緒に登りました。やはり、同行の人がいるのは楽しい。三角寺にお参りし、私はスケッチのため、しばらく留まりますが、その女性は先に下っていきます。今夜の宿は、同じ「民宿岡田」ですから、そこでまた会えます。
三角寺から椿堂へと下っていきます。
椿堂で男性の歩きへんろに出会いました。これから3月10日、私の最後の日まで一緒することになるS氏です。この人も今夜は民宿岡田です。
首を痛めて、「痛み止め」薬を飲みながら歩いていると言いますが、なかなかどうして、足は速いものです。境目トンネルの手前で待っていてくれました。一緒にトンネルを抜けます。抜けると、「徳島県」の標識が見えます。S氏は、「ここは徳島県なんですねえ」としばし感嘆の面持ち。
「民宿岡田」に着きました。懐かしい主人の顔。5年前とちっとも変わっていません。 三角寺に一緒に登ったOさんは、すでに風呂を済ませたらしく、浴衣がけで主人が趣味の盆栽の手入れを眺めながら、話しています。
まだ明るいので、戸外に出て「民宿岡田」の外観を写生することにしました。筋向いの空家の軒先に座ってスケッチをはじめると、岡田の主人とその友達らしい人3人ばかり集まってきて、私の手元を見ながら、あれこれ誉めたり批評したり、大変です。
早々に仕上げたら、岡田の主人にその絵を取り上げられてしまいました。あとで、描き直して送ってあげる、といっても承知しません。
夕食の時見たら、早速、壁に飾ってありました。穴があったら入りたい、とはこのことです。
夕食は、S氏、三角寺から一緒だったOさん、中年女性の5人組、それに私、と久し振りにへんろ宿に泊まった気分です。いままで、ほとんどの宿での夕食も一人でしたから、こんなに大勢だと大変楽しく、ビールのほかに焼酎まで飲んでしまいました。
壁一面に、ここに泊まってお世話になった人たちが送ってきた写真が年度別に貼り付けてあります。「お陰様で、無事結願しました」という手紙を添えたものもあります。
5年前の私の写真もありました。これは、前回一緒したS氏(今回とは別のS氏)が送ってきたものです。S氏とI氏の顔、そのときこの民宿に長期ステーして手伝いながらおへんろアンケートをとっていたY子嬢。
私の知り合いで、「藤田マジック」にかかってしまったといってお遍路に出たYさんの顔もあります。
懐かしい顔でいっぱいです。満ち足りた気持で寝につきました。明日は雲辺寺です。
(3)雲辺寺に登る
お接待のおにぎりをもらって、Oさんと一緒に出発します。5人組はすでに出発しています。S氏はまだ出てきません。
登山口でOさんに先に行ってくれといわれ、登っていくうちに5人組に追いつきました。またしばらく登ると、今度はS氏に追いつかれました。
雲辺寺でスケッチするために、S氏には先に行ってもらいました。今夜は宿も違うし、もう会うこともないだろう、と思うと残念です。お互いに住所の入った納め札を交換し、再会を期しました。
長い下り道で、休憩を兼ねてもう寺には誰もいないはず、と道の真中にどかっと腰を下ろして、へんろ道の写生をはじめたら、どうしてどうして、太ったおへんろさんが下りて来ます。「三角寺でも描いていたでしょう」という。地元の人らしく、いろんなことを教えてくれました。 雲辺寺にて
67番大興寺にお参りし、すぐそばの民宿に投宿しようとしましたが、まだ時間が早く玄関が開いていません。仕方なく、スケッチブックと鉛筆だけ取り出し、お寺に引き返して、境内の大きなクスの木を写生して、帰ったら、もう玄関は開いていました。 雲辺寺下りのへんろ道
このクスの木は、「香川の保存木」と石碑にありました。
(4)区切打ち最後の日 大興寺のクスの木
3月10日、今日が今回の区切打ちの最後の日です。最後もやっぱり雨になりました。
観音寺の市街に入って、道がよく分かりません。たまたま通りかかった年配の女性に聞きました。「私もそちらへ行くから、ご一緒しましょう」というが、自転車を引いています。
「それじゃ、悪い、どうぞ自転車に乗って先に行ってください」というと、雨の日に自転車に乗るのは息子から止められている、という。
息子には、もう自転車に乗るな、といわれているんだが、荷物のあるときなど便利だから、と今でも乗っている。息子は気に入らないらしいが、私が家事をしてあげているから、私に頭が上がらない。「いい歳になって、いつまでも結婚しない」とぶつぶつ言うと、「いつまでも家事ができて、お陰で長生きできるだろう」と憎まれ口を利く、という。
そうこうしているうちに、お寺の門前につきました。「足の遅い私に付き合ってくれて、ありがとう」と言われ、恐縮してしまいました。「いえ、いえ、こちらこそ案内して頂いてありがとう」といって別れました。その女性は、その門前の家の1軒に入っていきました。
68番神恵院、69番観音寺に参拝し、納経所に入ると、びっくり。そこに、S氏がいました。会うのが当たり前、といえばそれまでですが、30分も時間が違ったら出会うことはなかったでしょう。大げさでなく再会を喜び、二人でお寺の裏にある琴弾公園を見下ろす展望台に登りました。
あいにくの雨と靄のため展望はあまりよくありませんでしたが、「天保通宝」の銭形ははっきりと見えました。
下って、S氏は本山寺へ向けて、私は観音寺駅へ向けて、別れました。S氏の結願まで、首の痛みがひどくなりませんように。
駅舎の軒先で雨具を仕舞い、トイレで着替えをし、弁当とビールを買って、特急「しおかぜ」に乗って岡山経由で帰宅しました。
20日間、約470キロの旅でした。雨と寒さ、それに一人旅の寂しさが印象に残ります。でも、いろんな出会いがありました。
この続きは、昨年春、しばらくの間同行した三島のK氏がぜひとも一緒しようといっているので、二人で相談して決めようと思っています。
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