四国遍路21

四国遍路の小さな体験――2巡目
(その1)

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1.春の氷雨と雪のなかを行く(2005/03/23〜03/25)
2.追いつき、追いつかれ、また出会う(03/26〜03/30)
3.ひたすら歩くが、腰を痛める(03/31〜04/03)
4.桜満開の花へんろを歩く(04/04〜04/07)


1.春の氷雨と雪のなかを行く(2005/03/23〜03/25)

(1)この春の休暇を利用して、3月23日から4月8日までの17日間のお四国巡拝2巡目の計画を立てました。ざーっとした計算では、できれば37番岩本寺まで行ければ、という心積もりでしたが、あとで述べるように、そこまでは行けませんでした。
今回はカメラを持たず、必要なら携帯で写真をとり、できれば下手なスケッチを描きながら、という柄にもない“野心”をもって出かけましたが、これまたほとんど果たすことができませんでした。
俗念をもって遍路に出かけても、思い通りにはいかない、好例というべきでしょう。

3月23日朝、自宅を出発し、正午には板東駅に着きました。
駅待合室で支度して1番札所霊山寺へ向かいます。今回は、これまた流儀に反し、納経帳を持参しませんでした。ご本尊のカラー御影が88ヵ寺すべてで入手可能とのことなので、それをいただいていくことにしました(1体200円)。

いきなり雨です。春雨なんてやさしいものではなく、氷雨そのものです。雨具上着だけ着け、しばらく歩きますが、堪らずズボンも着け、荷物にはザックカバーです。それでも寒い。

しばらく行くと、ガソリンスタンドで、スタンドのサービスマンの不審げな目も構わず、外人の若い女の子が雨具を着け直しています。手を上げて挨拶をして通り過ぎます。
2番極楽寺で参拝終わり、出かけようとしたら、その子が来ました。雨は土砂降りとなり、おまけに寒い寒い。互いにゆっくり話す雰囲気ではありません。
それでも、3番金泉寺でしばらく待っていましたが、なかなか来ない。こちらも時間が気になるから出かけてしまいました。後で分かったことですが、彼女はドイツ娘でした。それを教えてくれたのは、自転車遍路のイギリスの若者でした。

3番金泉寺から4番大日寺への道は、前回間違えて車道を行ってしまったところです。車道標識に従って歩いていたのでした。 こんなに素敵な遍路道があるのに、その時はまだ車道と遍路道の区別がよく分かっていなかったのです。
こうして、前回と同じ5番地蔵寺のそばの民宿で第1夜を過ごしました。

(2)翌24日、別格1番大山寺への分岐に来ました。前回のとき、ここで身代すべて擲って遍路に出たという人に遭遇したことを思い出しました。私ははじめての遍路2日目でしたから、遍路とはこのようなことかと、大変驚きました。

6番安楽寺宿坊に泊まったというN君と一緒に、7番十楽寺、8番熊谷寺へと歩きます。「若いN君が、どうして?」と思いますが、ほんとうに心優しい青年です。

熊谷寺の山門は私の大好きな建築物で、ここでN君には先に行ってもらい、私はスケッチを始めました。一人の男の人がやってきて、この山門をいろんなアングルから眺めています。帰りにまた、この山門を通ったら、彼はカメラマンらしく、3人でこの山門を撮影していました。

熊谷寺山門とこぶしの花


9番法輪寺門前のお店で売っている草餅が食べたくなって注文すると、焼きいもはどうですか、という。焼きいもは女の食べ物という偏見を持っているから、そんなに食べたくなさそうな顔をしていたのでしょう、そばに立っていたおじさんが、ぜひ食べてみろ、という。この辺のサツマイモは天下の絶品だという。
もうすぐ昼だし、お店の中に入り込んで、焼きいもと草餅と、おまけにうどんまで食べてしまいました。

その頃から、止んでいた雨がまた降り始めます。今日は鴨島に泊まろうと思っているので、10番切幡寺から吉野川の堤防を歩いて行きますが、その頃には、もう土砂降りです。
その途中、小さな男の子を連れた男女へんろに追いつきました。聞けば、その子は5歳とのこと、一人前に菅笠をかぶり、元気に歩いています。「お父さん、お母さんと一緒でいいね」というと、女の人が「おじいちゃん、おばあちゃんです」という。エッと、思わず菅笠の下の顔を覗き込んでしまいました。
こんな若いおばあちゃんがいるはずがない、とそのとき思いました。後で分かったことですが「おばちゃん」の聞き違いでした。この人達には、あとでまた焼山寺越えの山道で出会うことになります。
ちょうどそのとき、通りがかりの車の人から4人で草餅のお接待を受けました。今日は、"草餅の日”です。

長い長い阿波中央橋を渡り、鴨島のビジネスホテルに入りました。すき焼きでご馳走してくれました。

(3)11番藤井寺に参拝し、いよいよ焼山寺越えです。
その少し前から、雪がちらちらしてきていたと思ったら、本格的に降り出しました。完全武装で登り始めます。長戸庵(H440m)の少し手前で、前日の男の子一行に追いつきました。この子も元気に歩いています。
柳水庵(H500m)に着きました。前後して、最初の夜、同宿だった人たちも着き、みんな一休みです。私は宿を出る時お接待でいただいたおにぎりで昼食することにしました。寒さに震えながらの昼食です。
前回の巡拝のときは、ここに泊めて頂きました(今は、宿泊することはできません)。五右衛門風呂も含めて、素晴らしい一夜をすごすことができたのに比べて、今回はこの有様です。
雪はますますひどくなり、これが3月下旬の四国か、と悪態のひとつも出ようとものです。







一本杉庵(H745m)を越え、左右内の集落(H400m)へ下り、再び焼山寺(H700m)へ向けて登ります。ここの宿坊に泊まるという人も多いのですが、私はさらに鍋岩(H250m位)まで下ってまた、玉ヶ峠(H455m)を登り、本名(H85m)の旅館まで行かねばなりません。
年甲斐もなく、いささか無理な計画でした。神山温泉でゆっくりするという手もあったのに。何をそんなに急ぐと、今にして思います。
幸なことに、玉ヶ峠を越える頃には雪は止んでいましたが、この峠への登りがこんなにきつかったとは思いもしませんでした。午後5時も大分過ぎて、旅館に着きました。
計算してみましょう。この日1日の登りは通算標高差1,245m、下りは1,200m、距離25kmでした。

この旅館で、自転車へんろのイギリスの若者に出会うのです。そして、ドイツ娘の話を聞きました。彼も5番か6番札所あたりで彼女に出会ったそうです。

この3日間、遂に一日も雨具を着けない日はありませんでした。お四国2巡目はかくして、氷雨と雪で始まったのでした。

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2.追いつき、追いつかれ、また出会う(2005/03/26〜03/30)

(4)3月26日、朝6:30出発。自転車へんろ達はまだ起きてきません。旅館横の橋を渡り、遍路道に入ります。かっての記憶が鮮やかによみがえってきます。
あのときも春で、桜が満開でしたが、今はまだ蕾のまま。この鮎喰川沿いの20号線は車も多く、あまり面白い道とはいえません。長い、長いと思いながらひたすら歩いていると、突然のように13番大日寺に出ました。
人は少なく、歩きへんろは私一人です。

14番常楽寺で、思いがけもなく、例の5歳の男の子に出会います。「どうして?」と聞けば、鍋岩から13番までバスで来たとのこと。明日は北海道に帰る、といいます。北海道の人だったのか。雪の北海道を発って、南国の四国へ来て雪に会うとは、と驚いていました。

15番国分寺、16番観音寺とお参りし、お昼近くになったので、昼食を取ろうとして前回食事した食堂のあったことを思い出し、行ってみましたが、既に廃業していました。
仕方なく近くの橋の上にいた女の人に、近くに食堂はないかと聞くと、親切に教えてくれましたが、その女の人はすぐ前の商店の人らしいので、お宅で何か食べるものは売っていないかというと、赤飯とかがあるといいます。
そのうちご主人も出てきて、どうぞと言われるので、そのお店に入り込んで赤飯とカップラーメンにお湯を注いでもらって、隣の事務机の前で食事させてもらいました。ついでに、柏餅を買い、丁重に御礼を言って、お店を出ました。親切なご夫婦でした。

17番井戸寺で若い女性へんろとかなり長い時間話しました。今夜は、来る途中192号線沿いで見た善根宿に泊まろうと思うといいます。
1番霊山寺で、歩きへんろは氏名・住所・年齢などをノートに記入しますが、私のすぐ前に「19歳とあったのはあなたですか」と聞くと、「19歳ならいいんだけど、それは・・・・年も前の話」と、かわされてしまいました。第一、そのようなノートのあることを誰も教えてくれなかったと残念がること、しきりです。
最近は、若い女性の歩きへんろも多いですね。

井戸寺から上鮎喰橋を渡って、徳島市街の裏街道を東進、佐古の神社のところから南進し、二軒屋のビジネスホテルに入りました。

(5)翌日、例によって、どうしても好きになれないし面白くもない国道55号線を行きます。
前に一人の歩きへんろ、後ろにも一人います。前の一人は、後でわかったことですが、二軒屋の同じホテルに泊まったK氏で、このあと薬王寺宿坊まで同じ宿に泊まることになる人です。
後ろの人は、70歳にもかかわらず12〜3キロの大きな荷物を背負い、別格もすべて巡拝しようというO氏です。聞けば、山岳部出身とのこと、さもありなんと思います。
O氏と話しながら進みます。おかげで、この嫌な55号線も退屈しません。話に夢中になって、あやうく18番恩山寺への入り口を見逃すところでした。恩山寺は、まだ彼岸桜しか咲いていませんでした。

恩山寺からはK氏と一緒に歩きます。竹薮のなかの遍路道から車道に出、19番立江寺が近くなってきたところ、「お接待処 鮒の里」とあります。行ってみよう、ということでK氏と一緒に入り込みます。新しい建物で、泊まれるように作られています。ご主人らしい人が出てきました。大工さんだそうです。
お茶やらお菓子やらみかんをご馳走になりながら、お話をお聞きしました。遍路宿にしようということで、大工さんのことですからご自分で建築されたもので、遍路についても一家言ある人とお見受けしました。
いつまでも話し込んでいるわけにもいかず、私たちはまだ先があります。お礼を言って、腰を上げました。

今日は、鶴林寺登山口の「金子や」にK氏ともども宿泊の予定です。
途中、またO氏と出会いました。O氏は別格3番慈眼寺へお参りするために、私達より更に奥に宿を取るべく進んでいきました。
「金子や」では、若いN君や最初の夜に同宿した人達と一緒になり、話に花が咲きました。話題は、どうしても雨と雪になります。この日も、夕方から雨がしとしとと降り始めていました。

(6)翌28日、朝からやっぱり雨です。K氏とともに雨具を着けて、20番鶴林寺へ向けて急坂を登ります。水呑大師で水を呑み、暑さに堪らず私は雨具を脱いでしまいますが、K氏は着けたままです。内から汗で濡れるか、外から雨で濡れるか、いずれにしても濡れることに変わりはない、と半ばやけくそです。

鶴林寺には、このときほとんど人がいませんでした。雨は降り続く。止まると寒い。みんな先を急ぎます。
那賀川の橋の手前の休憩所に立ち寄ると、皆さんお揃いです。N君、T氏、K氏と私。
またまた登りです。21番太龍寺に着いても雨はまだ止みません。みんなで寺務所の軒下で、ある人は立ったまま、ある人は座り込んで、「金子や」でいただいた握り飯を飲み込むようにして食べます。K氏に勧められて買った立江餅も食べました。

さて、ここからが問題です。
龍山荘のある通常ルートを下るか、舎心ヶ嶽のある「ふだらく峠」を越えるか。「ふだらく峠」を越えるには、もう少し登らねばならず、距離も1kmほど増えます。
通常ルートをとっても、この日の通算登り下りとも標高差900m以上です。目的地は全員、22番平等寺門前の「山茶花」です。
K氏とN君は通常ルートを取ることにし、T氏と私はふだらく峠越えをとることにしました。





舎心ヶ嶽の崖の上に鎮座まします大師像のすぐそばまで登って、T氏と写真を撮りあい、またしばらく登ってあとは持福院までジグザクの坂道を下りますが、これがすごい。この坂道はお勧めできません。これなら、舎心ヶ嶽へ行かれる方は太龍寺へ打ち戻られるのが賢明と思います。

T氏は、なかなか風流というか余裕綽々というか、道端に野蒜の群生を見つけて、やおら野蒜掘りにかかります。ちゃんとナイフを用意しており、野蒜の球根を丁寧にむき、ナイフで切り落とします。宿に着いたら、早速、お味噌を注文し、それで一杯やろうという算段です。
しばらく付き合っていましたが、なかなか腰を上げないし、時間も気になるので、T氏を置いて私一人、先を急ぎます。

22番平等寺に着いたときは、午後5時に10分前でした。参拝後、宿に入ると、K氏もN君もとっくに着いていました。
宿では、たまった洗濯物を処理し、お風呂に入り、夕食ではT氏の野蒜をいただき、女将さんからとっておきの焼酎のお接待を受け、幸せいっぱいに眠りにつきました。

(7)7時過ぎに、K氏と一緒に宿を出ます。今日は、23番薬王寺までの予定ですからゆったりです。K氏と相談の上、国道55号線ではなく、由岐経由のルートをとることにしました。距離は、3キロ程回り道になりますが、車の激しく往来する国道・トンネル道より、海岸の美しい風景を眺めながら行く方がいいだろうと意見が一致しました。
釘打橋、釘打トンネルを過ぎてしばらく行くと分岐点に差し掛かりますが、前回同様、またまた道を間違えてしまい、危うく55号線ルートに入るところでした。日和佐の町に入ってからも、またまた間違えてしまい、大分ムダ歩きをしてしまいました。

山座峠の遍路道は「へんろ道保存協力会」の前版の地図になかったものを、帰宅後、編者の宮崎建樹氏に連絡したところ、丁重なお礼状と遍路ワッペンをいただいた懐かしい道です。

大勢のへんろたちで賑わう23番薬王寺に参拝し、薬師会館に入りました。
エレベータでばったり、例の自転車へんろのイギリスの若者に出会いました。

(8)6:00から本堂で朝の勤行。6:30食事。個人は私たちともう一人の3人のみ。あとはみんなツアーの団体さん。
懐かしい麦飯定食の看板を横に見ながら、日和佐を出ようとするとき、例の“19歳"(ではない)女性が食堂の方に行くのが見えました。さては、昨晩はまたもここの善根宿に泊まったのか。もう一度話したかったのですが、彼女が食事を終えるのを待っているわけにもいかず、K氏とともに55号線を行きます。
途中、イギリス自転車へんろに追い越さました。「どこまで?」と大声をかけると、止まりもせず「室戸まで」と答えます。そのほかに、何人もの自転車へんろに追い越されました。急に自転車へんろが増えた感じです。

K氏は浄土真宗(本願寺派)某寺の総代を勤めておられます。総代としてのいろいろな苦労をお聞きします。
真宗の信者がなぜ四国遍路?と思いますが、そういう私だってK氏と同じく浄土真宗(本願寺派)の信者、と胸を張っては言えませんが、家の宗旨は一応、そういうことになっています。
どのような宗旨であろうと、お大師さまは受け入れてくださると信じてお四国廻りをしています。

K氏は、今回は牟岐駅までで区切り、一旦帰宅します。短い期間でしたが、同行できて仕合せでした。
駅前のラーメン屋で昼食を摂って別れを惜しんでいたら、K氏と一時同行していたというM氏が、偶然にも入ってきました。

昨日から少しばかり腰が痛く、それが心配で二人を置いて先にラーメン屋を出ました。
少し行ったところ、警察署前に開いていた接待所でコーヒーのお接待を受けました。

鯖大師参詣もそこそこに、海南町・海部町を過ぎる頃、疲れてしまって、このあたりで今日は歩き仕舞いにすればよかったと思いながらも、予約してある宍喰まで頑張ることにします。
やっとの思いで、道の駅宍喰温泉宿泊所に入りました。夕食は道の駅の食堂で摂ります。朝は、隣の豪華なホテルのレストランでバイキングです。これは、歩きへんろにとってとても価値あるものでした。

宍喰の朝日


多くのへんろ達に追いつき、追い越されました。いえ、追い越される方がはるかに多かったことを白状します。でも、再会すると嬉しいものです。話しが弾みますし、情報も交換できます。長年の知己のように感じます。

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3.ひたすら歩くが、腰を痛める(03/31〜04/03)

(9)いよいよ土佐の国に入ります。
土佐に入ると、急に歩きへんろの数が減るように感じられます。私にとっても、前回のことがあるので(室戸でダウンし、途中で帰宅)、いささか"恐怖の土佐”といった趣です。
「修行の道場」といわれるのも宜なるかな、と思います。

東洋町の手前で若い野宿へんろに追いつかれました。ほんとうに若い。聞けば、浪人中とのこと。浪人中の若者が勉強もしないで、と言ったりはしません。
今日はまだロクに朝食も摂っていないというので、自販機センターで一緒に休むことにします。彼はカップラーメンを買いましたが、お湯が出ません。怒って自販機を蹴飛ばしたりしていましたが、隣の民宿でお湯を貰ってきたら、と言ったら素直に行ってお湯を貰ってきて、美味そうに食べていました。
若い人と話するのは好きなのですが、何しろ足が速い。さっさと先に行ってしまいました。(でも、彼にも1週間後に35番清滝寺で再会します)

東洋大師は一礼だけして失礼して、しばらく行くと世間話中らしい男性2人に呼び止められ、缶コーヒーのお接待を受け、しばらく話をしました。

淀ヶ磯は、相変わらずの厳しい道。右は断崖絶壁、左は波の高い荒磯。今回は、雨が降らないだけでもありがたい。ゴロゴロ休憩所というのがあり、またしてもそこで休みたくなります。
バイクの男性としばらく話します。流木を拾いに来たそうです。「何で、ここがゴロゴロなのか?」「山から石がゴロゴロ転がり落ちるから」それだけ急峻だ、ということでしょう。石がゴロゴロ転がり落ちて危険だから、道を切り替えたそうです。お陰で、この休憩所ができた。

この道は長い。法海上人堂にお参りして、佐喜浜を過ぎ、やっとのことで尾崎の民宿に着きました。
そのすぐ後に、M氏が着きました。海部に泊まったはずだから、私より6キロも先からほとんど同じ時間に着くとはなんと健脚であることか。
私は、といえば、今にして思えば、この頃から腰に痛みがあり、何となく体が左に傾くような感じがしていました。明後日に、これが激しく出てきます。

(10)4月に入りました。
M氏と、もう一人のM氏(M2氏)と3人で一緒に宿を出ます。夫婦岩を過ぎ、椎名を過ぎ、三津漁港を過ぎ、55号線をひたすら歩きます。
M氏は平地を歩くのが早い。M2氏は山登りが得意。24番最御崎寺への登りの早いこと。70歳といえば、私とほとんど変わらないのに、どうしてこんなにスタスタと登っていけるのか。
かまわず、ゆっくり登ります。こうした昔からの遍路道の磨り減った石畳を歩くたびに、何百年にもわたって何万何十万、いや何百万というへんろ達がこの石を踏みしめて歩いたんだと思うと、心から感動を憶えます。

その前の御蔵洞で、昨日の浪人中の若者に出会いました。今回は、野宿へんろの若者(男女を問わず)と、自転車へんろが多いように感じました。遍路のあり方も遍路に出る人も変わってきているのでしょうか。

25番津照寺にお参りします。前回の、豪雨のなかの津照寺のことを思い出します。
昼食の後、今夜の宿をお願いしてある金剛頂寺の宿坊を目指して3人で歩きます。この日はまだ、M氏たちとそれほど遅れることなく歩くことができました。

金剛頂寺の宿坊は素晴らしい。部屋の窓から見える桜は、まだ一輪、二輪と咲いているだけです。今年の春は遅い。
室戸の夜の灯が見渡せます。幸せな気分で眠りにつきました。

(11)6:00朝の勤行、6:30朝食、7:00出発と、恒例のスケジュール。
朝の勤行は護摩堂で、ということなので、きっと護摩を焚くはずだから「ぜひ出よう」とM2氏が言うので、お勤めに出ましたが、護摩は焚かれませんでした。そういえば、薬王寺では朝の勤行で護摩が焚かれていました。
なんとかして、M氏達について行こうとしますが、かないません。なんとなく腰の痛みが強くなってくるようです。

地図によると、「中山峠道は海岸より1.2k短い」という説明に惹かれて、長い舗装道路より山道の方がいいと思って(標高差100mの登り下り)、こちらを取りましたが、このような身体状況のとき、これは失敗でした。さんざん苦労しました。
今夜予定している「浜吉屋」に着いたとき、午後3時少し前でした。聞けば、M氏らは1時間ほど前に着いて、荷物を置いて27番神峯寺へお参りに出かけたそうです。
女将さんが「どうします?5時までには十分間に合いますよ」という。空身で往復することにしました。

神峯寺まで片道3.9キロ、往復7.8キロ、標高差430mの登り下りです。
登りはそれほど苦になりませんでした。何しろ空身です。5時には十分間に合いました。
下り始めて、腰の痛みを強く感じるようになったところへ、雨が降ってきました。時とともに激しくなります。雨具は宿に置いたままです。

びしょ濡れになりながら下りますが、腰の痛みはますますひどくなり、遍路道を下るのは止めました。車道を行くほうが楽です。下ってくる車の人が見かねて、「乗っていきませんか」と親切に声をかけてくれます。これを頑なにお断りします。ほんとに、我ながら頑固で、歩きにこだわり過ぎです。
体が左側に傾いていく度合いがだんだんひどくなり、数歩歩いては金剛杖を支えに休むという状態です。下りだけで2時間近くかかり、やっとの思いで宿に着きました。

洗濯したかったのに、食事をしてすぐやすみました。これでは、明日からの予定を変更せざるを得ない、と思いました。
もうここで中断して、一旦帰宅するか。それは、いかにも残念です。
明日一日、様子を見てみよう。休息日として、この浜吉屋に連泊するか、少しでも先へ歩いてみるか。

結論は、明日はテストとして少しだけ歩いてみよう。それで、大したことがないようなら歩き続けよう。 そう決心して、約10キロ先の安芸市内に宿を予約しました。

(12)6:30 M氏たちと3人で出発。そろりそろりと行きます。もちろん、M氏たちは先へどんどん進んで行きます。
心配した腰も、どうやら大丈夫のようです。でも、大事をとってゆっくり行きます。

この調子なら時間は十分あるということで、大山岬の道の駅でスケッチします。ここで、巻きずしを昼食用として仕入れます。
防波堤を長々と歩き、途中、岩や石のゴロゴロする磯に降りて、昼食です。天気はいいし、波の音を聞きながら、食事するのは大好きです。終わって、またスケッチしました。

安芸の浜


伊尾木川の手前の休憩所でまたスケッチ、安芸川を渡って対岸の菜の花をまたスケッチ。

そういえば、今回のお遍路ではスケッチをしながら、と思って出かけてきたのに、ほとんど描いてきていません。時間にも、心にもゆとりがなかったのです。
ただ、ひたすらに前へ、前へと歩いていただけでした。歩きへんろは88ヶ寺巡拝という明確な目標があるからでしょうか、多くのへんろ達は少しでも前へ、と距離を稼ごうとします。私も例外ではありません。

でも、別の歩き方もあるのではないか、と腰を痛めたお陰で考えるようになりました。距離は少しでいい。周囲を見回し、気に入った場所があれば座り込んでスケッチし、出会った人たちに語りかけ、ゆっくり行くという遍路もあるのではないか、つくづくとそう思いました。
「何を、そんなに急ぐ?」腰を痛めなければ、このことは私の念頭に浮かんではきませんでした。
明日からの行程も大きくペースダウンするように計画を変更することにしました。

宿には、午後2時ごろに着いてしまいました。
洗濯していると、突然、空は一転かき曇り、ものすごい雷雨がやってきました。まだ歩いているへんろ達もいるだろうに、かわいそうに。
私はと言えば、今日はゆっくりと休みました。

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4.桜満開の花へんろを歩く(04/04〜04/07)

(13)昨日の歩きでいささか自信を取り戻しましたが、大事をとって今日は20キロ程度の計画です。
鯉などの泳ぐきれいに整備された安芸市内の川筋から55号線に入り、間もなく堤防道を進みます。これが延々と続く。
赤野休憩所でスケッチしていたら、お遍路さんが一人来てしばらく休み、また出ていきまいた。この人は、明日・明後日も一緒になるK2氏です。

赤野休憩所から


自転車へんろがどんどん行きます。風は冷たく強いが、いい天気です。
琴ヶ浜の「かっぱ市」で弁当を買い、海岸へ出て食事します。地元の人達が海を眺めながら話し込んでいる風景をよく目にしますが、その腰掛け場所を借りて食事するのも乙なものです。砂浜で子供が3人戯れています。そうです、いまは春休みなのです。
ここで、浜に引き上げてある小さな漁船をスケッチしました。「今日は20キロ」と思うと、心にゆとりが出てきました。

琴ヶ浜海岸にて


香我美の町に入り、「600m先に歌休憩所」と赤い字で書いた案内が出ていたので、ぜひともそこで休もうと思い、キョロキョロしながら歩きましたが、見落としてしまったのでしょう、いつの間にか赤岡町に入っていました。
この休憩所になぜこだわるかというと、知人の山岸さんが遍路中に知り合った地元の人の尽力によって作られた休憩所だということを聞いていたからです。見落としてしまって、残念でした。

今日も、早く宿に着き、ゆっくりしました。

(14)今日はまず、28番大日寺にお参りし、そこから昨夜同宿だったK2氏と一緒に歩きます。前回のとき、ここで区切って土佐山田駅から帰ったので、この道は初めてです。
田植えの準備のすすむ田のなかの道、田舎の小さな集落のなかの道を、K2氏と語りながら歩いていくと、大勢の空身のおへんろさんにどんどん追い越されます。歩きへんろにしては荷物を持っていないが、と思ったら、この人たちにはバスが伴走していて、へんろ達は要所要所を歩いているらしい。
途中、「遍路石饅頭」を買いましたが、結果的には、後でこれが今日の昼食になりました。

29番国分寺の枝垂桜が見事に満開です。カメラをもっている人は、例外なくカメラを向けます。
私はその大きな枝垂桜の真中に入って、本堂脇の小さい方の枝垂桜をスケッチしていたら、いつの間にか大勢の老人達に囲まれてしまいました。どこかの老人ホームの人達らしく、ヘルパーさんもいます。弁当を開いて花見が始まりました。

30番善楽寺は壮大な境内の土佐神社の脇に、付属するもののように建っています。
今日の宿舎のビジネスホテルへ向けて、昨日とうって変わって暑いなかを歩いていきます。K2氏は既に着いており、二人で近くのファミリーレストランで夕食を取りました。

(15)ホテルの朝食サービスというトーストとゆで卵を頂いて、31番竹林寺へ向かいます。
山も街路も桜が満開で、実にいい気分です。竹林寺は五台山という山の上にありますが、ここには牧野植物園もあります。またまた(というのは、前回も)この植物園の中に迷い込んでしまいました。掃除をしている男性に案内してもらって、やっと抜け出ることができました。
竹林寺は、三重塔が実に見事です。桜も満開です。

山門下で、この山門を入れて満開の桜と新緑のもみじを描いていたら、その姿をカメラマンに撮られました。
ちょっと位置を変えろ、といいます。指示に従って、石段の真中の方に出て描く(振りをしている)姿を何枚も写真に撮られました。後で送ってくれるとのことで、楽しみです。

竹林寺山門の桜ともみじ


32番禅師峰寺は、海岸のすぐそばにありながらかなりの高台なので、実に眺めがいい。浦戸大橋まで見渡せます。すぐ下は、これから歩いていく道の両側にたくさんのビニールハウスが見えます。景色のいいところに陣取って、スケッチしました。

峰寺から桂浜方面を望む


種崎からは対岸の長浜まで渡船を利用しました。渡船場前で女の人が道を丁寧に教えてくれ、そのうえ100円のお接待まで頂きました。
渡船場に着くと、今日一日だけで何回も出会った女へんろが船を待っていました。いろいろと話が弾むうちに船が着き、一緒に33番雪渓寺に参拝。私は門前の旅館に泊まりますが、彼女はバスで市内のビジネスホテルに行き、明日またここまで戻ってくるそうです。

今日も早く着いたので、夕食までの時間を利用してお寺に出かけ、スケッチしてきました。
その間に、宿の女将さんが親切に洗濯と洗濯物の乾燥をしておいてくれました。ありがたいことです。

雪渓寺にて


明日はゆっくりです。計画を変更して、清滝寺で今回は打ち止めとし、土佐市から帰宅することにしました。
腰を痛めて、1日行程を縮めたこと、4月9日・10日と高松で予定されている高校同期会に出席するためです。

(16)今日は清滝寺までの往復を入れても20キロ足らずなのだから、そんなに早く出なくてもいいと思うのに、歩きへんろの習性が身についてしまったのか、7:00には宿を出ました。
雨です。ひどい降りではないのですが、34番種間寺まで止むことはありませんでした。

種間寺本堂の軒先に陣取って、目の前の子育観音とその横の桜を写生します。この桜はまだニ三分咲きです。
写生していると、いろんな人が来ます。昨日の女へんろも来ました。前に同宿だった人、私が追い越した人、若いへんろも来ます。私は今日が区切りの最後ですから、この人たちともう会うことはないでしょう。

種間寺の子育観音と桜


平凡な田舎道を行き、仁淀川の土手に小さな祠があるのを見つけて、そこへ登っていきました。新川大師堂とあります。
はるか向こうに大きな橋が見えます。仁淀大橋に違いないと思い、近くに座っていた若い女性に尋ねると、やはりそうでした。
大師堂の軒先を借りて、少し早いですが、昼食にしました。非常用にと思って持っていたお菓子やら何やら全部食べて整理しました。

土手をそのまま行き、長い長い仁淀大橋を渡りましたが、その後の道がよく分かりません。このあたり、前回歩いたときの記憶のあるところとまったく記憶のないところがあります。人間の記憶など、あてになりませんね。
地元の人に道を聞きながら、予定の旅館「喜久屋」に着き、荷物を置いて、親切な女将さんが懇切丁寧に書いてくれた地図を頼りに、片道約3.3キロの道を35番清滝寺へと向かいます。
写真は、遍路道入口です。
前日も同宿だった人たちが次から次へと降りてきます。この人たちは、今日中に36番青龍寺まで行く積りの人たちです。

知人の山岸さんの勧めもあって、境内の真ん中に鎮座する薬師如来の胎内巡りをしてきました。
前日、雪渓寺で一緒だった女性に、どうですか、と勧めたら、もう済ませました、とのことでした。もう一人、別の女へんろにも勧めたら、「私は怖い」といって乗り気でありません。ご利益がありますよ、といって遠くから見ていたら、やっぱり入っていきました。

お寺で掃除をしていた男性をつかまえて、本堂の横の小さな滝が清滝か、と尋ねると、「いや、そうではない。この少し上に、お大師さまが杖で突いたら出てきた立派な滝があったが、昭和20何年かの南海地震で潰れてしまった」といいます。

(17)4月8日、親切な女将さんにバスの停留所まで送ってもらって、そして次に来るときの高知駅からの来方を地図に書いてもらって、バスに乗りました。

バスを待っている間の話をひとつ。
前に、妻が88ヶ寺すべての御朱印をいただいたお軸を1番霊山寺へのお礼参りの途中、落としてしまったと言う話を女将さんにしました。
女将さんは即座に、「それは、お大師さまの思し召しだ」という。「それであなた方に降りかかったかもしれない災難をお大師さまがわが身に取り上げってくださったのだ。」しばし、私も声がありませんでしたが、そこまで言い切れる彼女の信念というか信心というか、深く感じ入るものがありました。

高知駅から特急南風、宇多津で快速サンポートに乗り換え、高松に着きました。

おまけとして、高松城鞘橋と丸亀のホテルから見た瀬戸大橋の、下手なスケッチを載せておきますので、ご笑覧ください。

高松城鞘橋


夕方の丸亀湾


多くの人に助けられた2巡目四国遍路でした。この続きは、おそらく今秋になるだろうと思います。

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