四国遍路の小さな体験(その2)
7. 計画と実行(その2)(2000/04/18)
8.偶然と必然(2000/11/06)
9.道しるべ(2000/12/31)
10.出会い、偶然、そして運命(2001/07/24)
7.計画と実行(その2)(2000/04/18)
3月末から4月初めにかけて、区切打ちに出掛けてきました。今回は、私としては比較的長い8日間の巡拝でした。 土佐くろしお鉄道の中村駅から出発し、足摺岬を目指します。まず、土佐清水市下ノ加江まで行き、ここから足摺岬の38番札所金剛福寺に参拝、西海岸に回って打戻り、39番延光寺を目指します。
この間、1620mの恐怖の伊豆田トンネルもありますが、大岐松原のすばらしい砂浜(これも約1600mあります)、そして足摺半島東岸の道の至る所に見られる美しい椿のトンネル、快晴にも恵まれ、これ以上はない楽しい旅でした。下ノ加江からくねくねと、なだらかに登る県道21号線を行きます。道端のミツバツツジがきれいで、遠くに満開の山桜を望みながら山道を登ると、やがて三原村に着きます。
ここまでは快晴でしたが、翌日から曇りの日が続き、少し寒いぐらいに感じるようにようになりますが、それがかえって好都合でした。というのは、これから先、いくつもの峠越えが控えているからです。39番延光寺に参拝し、次の日はいよいよ松尾峠越えです。「いよいよ」というのは、この峠が高知県と愛媛県の県境だからです。昔でいうと、土佐と伊予の国境です。
私にとって、土佐の国は長い長い道のりでした。松尾峠に立ったとき、さすがに感慨禁じ得ないものがありました。
昔はこの峠を越えたへんろが、多いときは300人、普段でも200人に上ったということです。40番観自在寺にお参りし、今回の区切打ちのうち最長の遍路道、柏峠越えにかかります。
松の並木のあの柏坂
幾度涙で越えたやら(雨情)松の並木はもうありませんでした。やっとの思いで峠を越えても、今日の予定の津島町の旅館まではまだ7kmほどもあります。旅館に着いたのは4時半を過ぎていました。距離としては30kmほどですが、高低差が約500mある山道で本当に'涙で’越えたことでした。
さて、旅館に着きますと、先代の女将と思えるおばあさんが一人で待っていてくれました。客は私一人とのことです。
その日は4月3日で、この地方では女の節句として、女の人はみんな仕事を休み、したがって旅館も民宿も早くからの予約客以外はすべて断っているということです。この日、当日とか前日に宿泊の予約を取ろうとした人たちは大変だったろうと思います。
私は幸いに広い旅館を独り占めにしてゆっくりさせてもらいました。翌日、雨の予報を気にしながら、松尾トンネル(1710m)を嫌って旧国道を通り、宇和島市へ向かいます。別格6番龍光院にお参りし、41番龍光寺、さらに42番佛木寺と巡拝しました。
最後の日、小雨のなか、またまた峠越えです。歯長峠の急登を経て、43番明石寺に参拝し、卯之町駅から列車で今治まで、そこから高速バスでしまなみ海道を走って自宅に帰り、今回の四国遍路は終わりました。さて、今回のテーマの「計画と実行」ということについてです。
このテーマは、四国遍路の小さな体験(その1)2.でもとりあげています。遍路の過程で、これまで多くの歩きへんろに出会いました。
通し打ちの人は、宿の予約も前日か当日の朝という人がほとんどです。唯一の、といっていいほどの例外は、今回の旅で追い越したり追い越されたりして終始一緒だった僧侶のK師です。60何番までか予約をして巡拝しているということでした。
そのため、何回かは宿に到着するのが夜8時過ぎになったりしたということです。しかし、今のところ計画どおりに進んでいるということでした。区切り打ちの人でも宿の予約はせいぜい前日という人が多いようです。
前回2月の区切り打ちのとき、一緒だったK氏などは、早くから予約をすることを潔しとせず、すべて当日か、予約なしで回っているということでした。それでも不安になることも多く、予約したくなるのは「自分はまだまだとらわれの気持ちが強く、お大師様の自由の域には達していないのだ」と残念がっていました。また、以前、雪蹊寺の門前で会った野宿中心のへんろは、
「さっき会った若い女へんろは、これから清滝寺の麓まで行く、言っていましたよ」と私が言うと、
「宿を予約するから、どうしてもそうなる。周りのことは何も目に入らず、ただ歩いているだけだ」
と言いました。
実はそのとき、すでに午後3時を過ぎ、彼女が歩こうとするのは、これから先13kmにも及ぶ距離でした。私はというと、出発前に日々の計画を立て、宿もすべて予約してから出掛けます。
これまで第2回の区切り打ちの室戸岬でのリタイア以外は、すべて計画どおりに歩いてきました。問題は、どこまで計画すべきか、ということです。
そして、できるだけ計画せず、行動の自由を確保することが遍路の精神に合うのか、ということです。確かに、私たちの日常生活は'計画’に縛られ、'計画'に追いまくられ、自由のないものにみえます。
だからこそ人は遍路の旅に憧れ、その非日常のなかで自由を実現しようとするのでしょう。しかし、へんろたちが非日常への願望と雰囲気をまとって出て行く先は、四国の人たちが生活している日常の世界です。
そこで非日常と日常が出合います。旅館を経営している人にとって、それは毎日毎日の生活です。予約をしてもらいたいのは当然のことです。
札所の寺院とて同じことです。寺院でも日常の生活があり、納経所で記帳してくれる人もそれを日常としているはずです。
遍路の道すがら出会う人たち、お接待してくれる地元の人たち、すべて日常の生活のなかにあります。そこへ、私たちへんろが非日常を持ち込むのです。
ここで、私は登山のことを考えます。
登山では、よほど低山でない限り、あらかじめ綿密な山行計画を立てます。ずさんな山行計画のために遭難事故を起こすなどということは山男(女)の恥そのものです。
そればかりか、関係者の人たちに救出その他多大な迷惑をかけます。
ただし、日本のほとんどの山では山小屋の施設が完備しており、予約は原則として必要ありません。泊まることを希望する人はすべて受け入れてくれます。たとえ、雑魚寝でいったん横向きになると、再び仰向けになるのは難しいほど混んでいても、受け入れてくれます。登山の場合は、すべてが非日常の世界ですから、このような慣習になっているのだと思います。
遍路の場合は、日常のなかへへんろたちが非日常を持ち込むのです。
この場合、非日常の側が謙虚でなければならないだろう、と私は思います。
初めての区切打ちのとき、私はもちろん宿を予約して出掛けましたが、相部屋も当然のことと覚悟していました。ところが、そのようなことを求められたことは一度もありませんでした。
それからあとは、一人で部屋を占拠するのが当然のように感じるようになってしまいました。登山と比べると、なんと幸せなことだろうと思っています。昔は、電話などという通信手段がなかったので、宿の予約などしたくてもできなかったでしょう。状況は、今の登山とその点では似ています。
現代の私たちはいろいろな意味で文明の恩恵を受けているのですから、それを前提に計画できるところはちゃんと計画しようというのが私の考えです。今回の遍路で、このようなことを考えました。
どんなに計画してもすべてが計画通りにいくものではありません。それが、旅であり、登山であり、遍路というものでしょう。そこに非日常の面白さがあります。
しかし、計画を立てた上での、そうしたハプニングはすべて自己責任で処理すべきで、他に帰すことはできません。
非日常を生き抜くということは、自らの行動に徹底して責任をもつということではないでしょうか。しかし、
以上を、いわば'自力本願'の考えとするなら、徹底して人のお世話になり、迷惑をかけながらも、それに深く感謝しつつ歩む、いわば'他力本願'こそ遍路の道ではないか、とも考えたりします。 (いいかげんな言葉の使い方は、お許しください。)
正直言って、私自身、わけが分からなくなってしまいます。皆さんは、どうお考えになりますか。
8.偶然と必然(2000/11/06)
事情があって、この秋に予定していた区切打ちができなくなり、他の人の遍路記をインターネットで読んだりして、気を紛らわせています。
そして、とても素直な内容の、とても愉快な語り口の、(しかし、とても長い)ひとつの遍路記が私を夢中にさせました。
永井典子さんの『遍路きらきらひとり旅』です。永井さんは、その遍路記の終わりのほうで「愛ちゃん」との出会いについて書いています。
歩き遍路のなかで、別々に歩いているのにたびたび同じ人に出会ったりすることがよくあります。
同じ方向に向かって歩いているのだから、同じ人間の足なのだから、別れてもまた出会うのは当然だ、ともいえます。
でも、二度と会わない人もいます。また、間隔が1時間も違ったりすると、なかなか追いつけるものではありません。永井さんは愛ちゃんとしばしば出会います。
4月16日に初めて出会ってから25日、結願の日まで一緒に歩いたり同じ宿に泊まったりすることはあっても、基本的にはともにひとり旅です。
ひとりが奥の院に回り、もうひとりは次の札所に直行するなど、コースも別なのに、また出会ったりするのはなぜ?
さんざん道に迷ったりするのに、また出会うのはなぜ?永井さんは書いています。
予感は見事的中。
険しい方の遍路道を歩いていると、「今度こそ宿までは会うはずのない」愛ちゃんに、女体山登り口の少し手前、2つの遍路道の合流地点にある「太郎兵衛館」の前で、バッタリ会ってしまったのだ!
お互いの口からは、「どーしてぇ?」の言葉しか出ない。
愛ちゃんがたった1分でも先を歩いていたら、会えてはいない。「ここで休憩」と思っていた私とは、どんどん距離が離れ、「宿で、やっと再会」となるはずだった。
私は車道から、愛ちゃんとは別のルートの遍路道に入り、途中、山の中で10分も迷子になってウロウロした。でも、迷ってる間中、「今日は日切地蔵さまと一緒に歩いている(勝手にそう思いこんでいた)のに、なぜ迷ったりするのかなぁ、この無駄に歩いた場所に何の意味があるのかしらん」と真剣に悩んでいた。「事象」には必ず「理由」があると信じているが、「結論」がでるまではそれがわからないものだ。
でも、はっきりわかった。 「迷子」になったのは、場所ではなくて、時間に意味があったのだ。ここで愛ちゃんと再会するために「時間調整」をしていたのだ、と理解した。
それに、愛ちゃんもまた、「迷子」になっていた・・・。
ずっと先に行っていなければいけない彼女が、「足踏み」させられていたのも、やはり「私と再会するため」だったのだ、と愛ちゃんも言う。
でも、「縁」があるにも「ほど」がある。考えてみれば、すべての出会いは偶然であるとともに、そこにある必然、縁を感じざるを得ないのです。
それは、奇跡といっていいほどのものです。
日常、日々起こるすべての出会いが奇跡ともいえます。それによって自分の人生が大きく変わることもしばしばだからです。ここで、私はある話(実話です)を思い出します。
(たとえば、金子郁容『<不確実性と情報>入門』岩波書店1990を参照)
あるアメリカの田舎町の教会で、聖歌隊が7時20分に集まって練習することになっていました。それにメンバー15人全員が遅刻しました。遅刻した理由はそれぞれですが、ともかく全員が遅刻したのです。
ところが、その日の7時25分に教会のボイラーが爆発して、教会が全壊してしまいました。 聖歌隊のメンバーは全員が遅れた為に、一人の怪我人も出ないで済んだ、というお話です。
これを伝えた「ライフ」誌の記者は、これは神のご加護ではないか、書いたそうです。ある仮定をおいて計算してみると、このようなことが起こる確率は10億分の1程度になります。
そのように確率の低いことが起こる”偶然”もありうることは別に否定すべきことでもなく、それ以上のことは何も確率論は説明しません。しかし、そこにある”必然”を感じるのが人間なのでしょう。その人の生きざまが、その体験の意味を求め、それがまたその人の生きざまを変えていくのでしょう。
遍路における出会いも同じことがいえるでしょう。
9.道しるべ(2000/12/31)
クリスマスをはさんだ5日間の区切打ちに出掛けてきました。
今回はひとり旅ではなく、つれあいとの同行の歩き遍路です。彼女はバスのツアー遍路を何回か重ねて、歩き遍路を続けていた私とちょうど同じ札所、43番明石寺に到達したのです。ここから私に付き合って歩いてみようというわけです。
今回は道しるべというテーマなので、道に迷ったところをまず詳しく書いておきます。前日夜遅く卯之町の旅館に着き、いよいよ最初の日の出発です。
朝7時すぎ、宿の門を出ると一面の濃い霧で、ほとんど見通しがききません。しかも非常に寒い。
鳥坂峠に向かって国道と平行に走る旧道を行きます。通学路らしく次から次へと小学生が集団で、あるいは中学生が自転車に乗ってこちらに向かって来ます。みんな元気よく挨拶する。ほんとに気持がいい。ほとんど全校児童生徒に挨拶をしたのではないか、思うほどです。8時半頃、やっと日が差し始め、陸橋が見えたのでそこで休憩することにしました。
念のため、地図で現在位置をチェックしてみて、驚きました。目の前に「びっくり大ちょうちん」が見えるのです。地図によると、「びっくり大ちょうちん」は鳥坂トンネルの入口付近にあるはずなのです。
私の距離感からすると、そんなに来たはずはないと思いつつも、あるいはつれあいと一緒だから嬉しくて距離が稼げたのか。
ともかく、このままではトンネルに入ってしまうと、遍路道があるだろうと思う方向へ進路を変更します。しかし、どうしても分かりません。道を聞こうにも近くに人はいません。あきらめて国道に戻ります。どうしても納得いかないので、所番地を書いた表札の住宅を探します。やっとありました。なんのことはない、まだ東多田のあたりでトンネルのずうっと手前にいるのです。
その後、予定通り遍路道に入り、鳥坂峠を越え札掛大師まで杉林のなかを行きます。(トンネルの手前にも「びっくり大ちょうちん」があったのか確認はできませんでした。)
この遍路道は地図に「鳥坂トンネルのルートより1時間余計にかかる」とありますが、本当にたっぷり1時間は余計にかかったように思うほど長い道のりでした。快晴のなか、十夜ヶ橋に着き、お参りします。この橋の下にお大師さまが厚い布団やら錦やらを、おそらく5枚はあったと思いますが、かけて寝ていらっしゃいました。
そこからしばらく行き、今日の宿につきました。
つれあいもなかなか足が強く、安心しました。2日目、またもや深い霧のなかを国道56号線を行き、まもなく内子町に着き、八日市護国の町並み保存地区を見学しました。朝早くから観光客がぞろぞろと歩いています。
千人宿大師堂、楽水大師を過ぎ、突合分岐から南回りコースを小田に向け進みます。
新道を来たので道に迷いかけ、近くの人に旅館の位置を聞いていたら、突然「藤田さん」と呼ぶ声がします。RV車に乗ったひげのおじさんがこちらを呼んでいます。今日泊まる予定の旅館の主人でした。さて3日目、いよいよ今回の区切打ちの最大の山場です。
小田町日野川を過ぎ、三島神社の脇を遍路道に入り、少し行くと国道と出会いますが、ここに道案内がありました。「これ以上は、道が荒れている」というのです。地図によると、遍路道は途中で北コースの宮成方面を左に分けるようになっています。
道案内を信じ、国道を行くことにしました。まもなく真弓トンネルを過ぎ、ひたすら落合分岐へ、さらに河口を目指します。この河口が標高400、その先の遍路道入口の槙谷が標高550、さらに登って最高地点は標高770です。これが相当に苦しい急登です。
ここまでくれば、後は尾根道のはず、と思っていたらとんでもない、45番札所岩屋寺へはこの尾根からまっさかさまに標高差150mほど下がるのです。岩屋寺に着いたのが午後3時半頃、そこで参拝を済ませ、またまたすごい坂を下ります。
足元に気を取られて、圧倒的な岩壁と礫岩峰を見落とすところでした。44番太宝寺からの巡拝ルートを来れば、この坂道を登らなければならないと思うと、これまた大変かなと同情しきりです。
予定の国民宿舎に着き、3日目を終わりました。今夜はクリスマス・イブです。4日目は、朝から雨です。しかも大変寒い。
今日は太宝寺へと逆打ちになります。峠御堂トンネルの手前で遍路道に入りましたが、見事に道に迷ってしまい、標高差100m以上を引き返す羽目になりました。結局、トンネルを通り、44番太宝寺に参拝、久万の町から国道33号線を進みます。
物凄く寒い。大分前から、雨にあられが混じって強い風に乗って吹き付けてきます。時に、風の勢いに押されて前に進めないほどです。
三坂峠までの長い長いのぼりと、峠からの遍路道の急坂を転がるように下り降りました。やっとの思いで、46番浄瑠璃寺につき、参拝を終えて、すぐ近くの宿に入りました。今日5日目は、今回区切り打ちの最終日で、予定は53番円明寺で打ち終わり、すぐ近くの伊予和気駅から列車に乗って帰るつもりです。
今日も寒い。しかし、幸いに雨は降っていません。47番八坂寺、48番西林寺、49番浄土寺、50番繁多寺と、今日は大いに稼げます。
51番石手寺に御参りし、道後温泉を横目で見ながら(ここに私学共済の宿泊所があるのにと思いながら)、松山の市街を南廻り(古三津廻り)で進むうち、またもや道を間違えてしまいました。こちらのコースを採ったのは、もしかしてつれあいがへばってきた時には三津浜駅から列車に乗って帰る、という考えがあったからです。そこで、歩きながら、つれあいに聞きます。「この先の駅でお仕舞いにして帰ろうか」と。
「予定通り、行きましょう」と、にべもない答えです。親切に言ってやっているのにと、いささかむっとして(こんなことで腹を立ててはいけませんね)、いきなり早足でずんずん行きます。案の定、道を間違えてしまって、地図上の車道に出てしまいました。いま冷静に考えてみますと、歩いていく方位が感覚と全く逆になっていたようです。
ともかく、52番太山寺、53番円明寺と参拝し、和気駅から今治、しまなみ海道を高速バスで、夜遅くなりましたが、無事帰宅しました。さて、今回のテーマの道しるべについてです。
遍路道には、ご承知のように、へんろみち保存協力会の道標や赤い矢印や遍路姿の小さいシールがあって、私たち歩きへんろの大変な助けになっています。
本当にありがたいことです。このために、保存協力会の方が、どんなに苦労されているかと思うと、あの小さなワッペン一つひとつが大いなる導きと感じられてきます。ところで、前回の区切り打ちで、足摺岬の民宿に泊まったとき、その部屋に落書帖があって、宿泊した遍路たちがいろんなことを書き残していました。
宿の待遇に対するたくさんのお礼の言葉に混じって、次のような書き込みが私の目をひきました。
「赤いシールには感謝するのだが、腹の立つことも多い。交差点などで、あるべきところになかったり、かとおもうとそこから50mもいったところに突然出てきたりする。おかげで散々迷ったりすることも少なくない。」
「その話をあるとき、若いへんろに話したら、その通りだ、自分にシールを持たせてくれれば、もっとわかり易いところに張って歩くのに、と答えた。」私は、これを読んだとき、言いようのない悲しみに襲われました。これでは、保存協力会の人たちの努力は何だったのだろうと思わずにいられません。
たとえ小さなシールであろうと、それをどこにでもペタペタ張ってよいものでは決してないでしょう。電柱であろうと、ミラーの支柱であろうと、ガードフェンスであろうと、すべて所有者がおり管理者がいるはずです。その許可を得ないで、たとえ小さなシールであろうと、勝手に張って歩いていいものではない筈です。
この位置が一番いいと思ってもそこに張るわけにはいかないことも多いと思います。分かれ道にきたとき、期待する道しるべがないとします。そのとき、私は近くにいる地元の人に尋ねます。誰もいないときは、自分の判断で進みます。しばらく進むと、見慣れた赤いシールが目に入ります。ああ、自分の判断は間違いではなかった、とそのシールは私の不安を消してくれます。大げさに言えば、そのシールを拝みたいほどです。
歩きへんろは、基本的には自分の判断で歩く方向を決めなければならない。
そのために地図があります。保存協力会の大変懇切な地図があります。この地図を頼りに行程を計画し、道々チェックしながら進みます。
決して、道標や赤いシールだけを頼りに進むわけではありません。それらは、自分の判断の正しさを確認し、迷っていないかという不安を消してくれるものです。登山の場合でしたら、地図(国土地理院の5万分の1、あるいは2万5000分の1の地図)を磁石によって方向を定め、周囲を展望し、すでに判っている2つのピークから現在位置を確認します。
山では、頂上とか尾根がわかりやすいランドマークです。里山や街中を歩くへんろの場合も、基本的には登山と同じです。私は地図のほかに磁石も必ず持参します。
また、私が頼りにするランドマークは川です。地図上の川と現実の川を照らし合わせます。道は川に沿っていることが多く、また横断するときは必ず橋を渡るようになるからです。自分は今、川の左岸にいるのか右岸にいるのか(ちなみに、川の流れる方向に向かって、つまり海の方向に向かって左側が左岸です)。
あとは学校とか役場とか比較的大きい公共施設が頼りになります。お店とかガソリンスタンドとかはなくなっていたり、新しくできたりしていて、それに頼るのは危険なことがあります。
道路それ自体も工事でどんどん変わっていきます。正しい道を行くのも道に迷うのも、すべて自己責任ではないでしょうか。
10.出会い、偶然、そして運命(2001/07/24)
四国遍路も昨年暮以後、中断したまま、事情があって再開できずにいます。だから、今回も遍路の報告ではありません。
他の人たちの遍路記をインターネットで拝見しながら、気を紛らわしています。多くの遍路記で何よりも印象的なのは、さまざまな出会いについて語られていることです。
それまではまったく見知らぬ歩き遍路同士の後になり先になりの同行、地元の人たちのお接待、お寺や宿、お店の人たちとの出会い、そしてお大師さまとの”出会い”を語る人もいます。こうした出会いはまったくの偶然のはずなのに、そこにある必然のようなものを感じ、ある種の運命ととる人も少なくないようです。
私自身にもそのような体験があり、そうした遍路記に大いに共感するものです。以前にも、この「小さな体験」の8.偶然と必然で、それについて書きました。以前から、私は専門分野との関連から「偶然性」ということに関心を寄せてきました。確率論などを使いながら、本心では釈然としないまま今日まで来ています。
そして、最近、木田元『偶然性と運命』岩波新書2001 を読みながら、気がついたら四国遍路での多くの出会いについて考えていました。
木田さんは述べています。
人との偶然の出逢いを「めぐり逢い」として、つまり運命的な出逢いとして意識するということは、この出逢いをきっかけにしてこれまでの過去の体験がすべて整理しなおされ、いわば再構造化されて、あたかもすべてがこの出逢いを目指して必然的に進行してきたかのように意味を与えなおされる。また、同じようなことですが、次のようにも述べています。
その(出逢った)瞬間が日常的な時間の系列を抜け出た特権的瞬間となり、将来への広大な展望が開かれると共に過去の体験の再構造化が行われる。こうして、偶然の出逢いが内面的に同化され、運命と感じられる。そして、「……いずれにしても偶然は遭遇または邂逅として定義される。偶然の<偶>は双、対、並、合の意である。<遇>と同義で、遇(ア)うことを意味している。偶数とは一と一とが遇って二となることを基礎とした数である。」という九鬼周造の言葉を引いて、偶然は独立したものの出逢いであると述べています。しかし、すべての出会いがこうした「運命的な出逢い」となるわけではない。
再び、木田さんから引用します。
<出逢い>とは、他者が激しい情動的体験によってこの自己閉鎖を打ち破り、<自己―自己>の構造を打ちこわして、ふたたび<自己―他者>の構造が、つまり<他者とともにある>本来的な存在が回復することだと考えられないだろうか。他からの問いかけに対して自分を開く、自己に閉じこもらないで他の人に向けて開く、そうして初めて他の人の経験を自分の経験として捉えなおすこともでき、自分の生きざまに重大な転機をもたらすことにもなるのでしょう。四国遍路で、なぜ多くの人たちが”出会い”について語るのでしょうか。
私の推測するところ、、ある人は遍路に出掛けるに先立って、またある人は遍路の旅すがら――意識するにしろ、しないにしろ、――既にお大師さまに心を開いているのではないでしょうか。
お大師さまに心を開くとは、世界に向けて・他の人に向けて、心を開く姿勢に通じます。同行二人といいます。生かされて生きる、といいます。自己中心ではなく、他者とともに生きる。白衣を着し金剛杖をつく歩きへんろはそういう姿勢を全身で表して歩いていることが、他の人に見えるに相違ありません。
だから、そこに多くの出会いがあり、へんろ達は偶然を必然とし、運命と感じ、それまでの自己の経験を見つめなおし、将来へ向けて新しい出発をしようと決心するのでしょう。だから、私も秋になったら、心を開いて、また遍路に出かけようと思います。
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