四国遍路

四国遍路の小さな体験(その1)

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1. 鈴の音に励まされて(1998/04/19)
2. 計画と実行(1998/09/23)
3.家に居て考える――スペイン巡礼のこと(1998/10/31)
4.人との出会いに元気づけられる(1999/04/11)
5.遍路の道すがら聞いた話(1999/11/16)
6.お接待のこと(2000/02/22)


1.鈴の音に励まされて(1998/04/19)

私はこの春の休暇を利用して、3月の終わりから4月の初めにかけて20年来の念願であった四国88カ寺の巡拝に行ってきましたので、そこでの小さな体験について話します。

四国88カ寺の巡拝といっても、もちろん一度にすべてを巡拝したわけではありません。1番札所の霊山寺から23番の薬王寺までの区切打ちです。
この間の距離、おおよそ180キロをすべてを歩き通したので、8日間ほどかかりました。
桜の花、桃の花の咲き乱れる野辺の道、遍路ころがしと呼ばれる急峻な山道、うっそうとした杉の巨木の連なる長い参道、そして徳島市街のメインストリート、ダンプカーの行き交う国道など、楽しくもあり苦しくもある歩き旅でした。

しかし、何よりも嬉しかったのはそれぞれの土地の人たちの暖かいもてなしの心でした。お接待として200円を下さった中年婦人、大きな伊予柑を幾つももっていけとすすめてくれた食堂の女主人、そして親切に道を教えてくれた地元の多くの人たち。
そして、同じように歩きながら追い抜かれたり追い抜いたりして、また宿で一緒になって励ましあった「歩き遍路」たち。
多くの忘れることのできない体験がありましたが、ここではその一つをお話します。

歩き始めて4日目の昼過ぎのことです。いささか疲れてきたので、遍路道の傍らに腰を下ろし、お接待で頂いた伊予柑をザックから取り出し、鮎喰川の対岸の美しい山桜を眺めながら、しばしの休息をとりました。
そして再び歩き始めたのですが、何か淋しい気がし、みると金剛杖の帽子についていた鈴がありません。直ぐ引き返し、休んでいたあたりを必死で探すのですが、見つけることができません。その時、本当にがっかりしました。
実をいうと、初日から2日目あたりまでは杖を突く度に鳴る鈴の小さな音をうるさく感じ、またいささか気恥ずかしくもあったのです。
ところが今、この鈴の音が聞こえないということが淋しくてたまらないのです。

考えてみると、ひとりで歩いていてもこの鈴の音に励まされていたのですね。
元来、金剛杖は歩き遍路を導いて下さる弘法大師といわれます。だから、ひとりで歩いていても遍路は常に「同行二人」なのです。
そのお大師さまの帽子の鈴をなくしてしまいました。私のがっかりした気持を理解していただけると思います。

私は若い頃、そして今でも時々、山に登ることを楽しみにしています。大概は友人とか家人を誘って行き、単独行の経験はあまりありません。
気の合った人たちと一緒の山行は、苦しいことはあっても楽しみなものです。しかしそこにいささかの相互依存の気持はなかったか。パーティ内に閉鎖(クローズ)しようとする気持が強く出てはいなかったか。

今回の四国遍路は唯ひとりの旅です。
見知らぬ人を頼り、お大師さまという”絶対者”を頼る(オープンな)気持が自然に生まれてくることに私自身、非常な不思議を感じた旅でした。


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2.計画と実行(1998/09/23)

9月18日から、またまた四国遍路の旅に出かけてきました。「お四国中毒」という言葉があるそうですが、全くそのとおりだと奥方に笑われながら出掛けました。

今度は、土佐の国、いわゆる「修行の道場」です。前回の最終札所23番「薬王寺」(徳島県日和佐町)から24番札所「最御崎寺」(高知県室戸岬)まで84kmを、国道55号線を延々と歩くのです。
そこからまた高知市に向かって、せめて安芸市まで約50km進みたいというのが今回の計画です。

自動車が頻繁に往来する国道沿いを歩くのは、全くの話、決して好きになれません。
まず、車に十分に気をつけなければなりません。国道55号線は一応歩道がついているところが多いのですが、狭いところもあるし、歩道が右側になったり左側になったりし、その都度車道を横断します。
トンネルも実にたくさんあります。700mに達するような長いトンネルに入るときは、ちょっとした勇気を要します。途中で、卒倒したくなったりします。

国道55号線は、右側に急峻な山並み、左側は海。弓なりの白浜もありますが、多くは荒々しい磯へといきなり落ち込んでいます。
しかもその日、台風6号が九州の方に向けて去ったばかりで、ごうごうと打ち寄せる波と、そして何より弱ったのは雨です。しかも大雨です。時々降り止むかと思うと、突然、土砂降りになったりします。車には泥水を跳ね上げられるし、雨具の中、靴の中はぐしょぐしょです。
これも”修行”と心に決めて、黙々と歩き続けます。1歩が10歩、10歩が100歩、100歩が100m、100mが1kmと、1歩前へ出ないことには距離は稼げません。

2日目、19日もまた雨でした。この日の予定歩行距離は34.4km。これが雨中の、この度の私の歩行の限界でした。すっかり足を痛めてしまいました。
それでも同宿の歩き遍路に励まされて、3日目、またまた雨の中を出発しました。今度は台風8号です。
同宿のO氏には先に行ってもらいました。1時間ほど遅れて、また同じ宿に私も到着することになります。途中、「乗っていかないか」と声をかけてくれた軽4輪のおばさんの親切を断らなければ、こんな破目にならなかったかもしれないとしきりに思うことです。(このご婦人にはペットボトルに入った冷たい麦茶のお接待をいただき、生き返る思いでした。)

そして、遂に私はダウンしてしまいました。足が痛くて、今日(4日目)の予定行程、30.4kmは到底歩き通すことはできそうにありません。
それなら予定の行程を短縮して、途中止まりにすればよいように思えますが、このあたりでは途中に泊るところがありません。
おまけに台風8号による豪雨です。きびすを接して台風7号が接近しています。情けないことですが、今回はここ25番札所「津照寺」までとし、いったん引き揚げることとしました。

私は、この四国88寺巡拝に限らず、旅に出るとき、必ず綿密な行程計画を立てます。
まず、関連する旅行資料を集めます。このとき、インターネットは非常に役に立ちます。四国遍路の場合、たとえば掬水へんろ館(くしまひろし)など大変参考にさせてもらいました。
また、へんろみち保存協力会編『四国遍路ひとり歩き同行二人』(松山市ひばりケ丘5−15)という優れた案内書(詳しい地図付き)があります。
また、交通機関の時刻表、宿泊施設の案内などを調べ、1日1日の細かい行動予定を立てます。そして、その計画通り実行するように努めます。

ところがどうでしょう。今回は計画半ばでダウンしてしまいました。自分の実力に対する認識が甘かったこと、予想をはるかに越える状況の変化があったこと。
しかし、考えてみれば、そのようなことは旅に付きもので、計画通りに物事が進行するとは限らないところに旅に出る意味、新しい発見があるはずなのです。

これまで何人もの歩き遍路の人たちに出会いました。私のように、今回はここからここまで、という区切打ちの人も多くいますが、通し打ちの人もいます。つまり88寺全部を通して巡拝する人たちです。健脚の人でも40日はかかるといいます。
この人たちは、当然ながら最終日まできちんと決めた行程表にしたがって行動するのではありません。まさに、出たとこ勝負、その日その日の状況に応じて行動します。今回、3回も同じ宿に泊りあわせたO氏もその1人です。
最終目標と大まかなマイルストンはもっているでしょうが、日々の行動は実に状況適応的です。

しかし、その人たちも行程によっては、「明日(あるいは明後日)、どうしてもここまで行かなければいけない。そのためには今日中にここまで」ということを考えながら歩きます。
それは宿泊のことを考えなければならないからです。
ところが、それよりもっと柔軟に行動する人たちもいます。野宿覚悟の人たちです。テント、寝袋、そして炊事用具を持ち、体力に自身のある、主として若い人たちです。

区切打ちでは、区切ったところから交通機関を利用していったん帰らなければなりません。そのため、陸の孤島のようなところで、やめるわけに行かないのです。

区切打ちという短期行動では、勢い計画は詳細にならざるをえないでしょう。
通し打ちという長期行動では、大まかな計画のなかで比較的日々、適応的に行動できるでしょう。
さらに、体力(実力)をもち、テント・寝袋などの重装備の人はもっと柔軟に行動できるでしょう。

以上が、計画と実行の話です。

勿論、このようなことは、帰ってきて今、考えていることであって、歩いているときは、ただひたすら歩いているだけでした。無心とは、このようなことかとも思ったときもありました。
唯、計画通りにいかなかったので、悔し紛れにうえのようなことを考えるのかもしれませんね。

四国遍路の体験として、このような俗事的なことしか報告できない私はまだまだ修行が足りないようです。


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3.家に居て考える――スペイン巡礼のこと(1998/10/31)

前回9月の四国巡拝から足を痛めて泣く泣く帰ってから、すぐかかりつけの整形外科医で受診しました。下肢が大きく腫れて痛く、さすがの私も少し心配になったのでした。
その結果、実に残念というか悔しというか、6ヶ月間は長い距離を歩くことを禁じられてしまいました。
11月には仕事をやりくりして、前回の続きに取り掛かる計画でしたのに、これでは来年の春まで待たなければなりません。

鬱々として、我が身をのろいながら、ふと本箱に目をやると、『スペイン巡礼讃歌――大地を潤す春雨のように』(春秋社、1993)が私の注意を引きました。
これは、かって、カソリック神父であり上智大学教授の門脇佳吉先生の講義を聞いたとき、会場で購入したものです。
パリーからピレネー山脈を越え、スペインのサンチャゴ・デ・コンポステーラにいたる2000キロ巡礼の道のうち、スペイン巡礼地の写真集です。
中世から続くこの道の寺院、修道院から道端のマリア像にいたるまで、また巡礼路の風景など、素晴らしい写真の数々は写真家池 利文氏の作品で、しみじみとみるものの心をうちます。 これに門脇佳吉氏がことばを添えたものです。ここにひとつ引用させていただきます。

人はつぶやく
「わたしは絵も画けないし、詩も作れない。
残念ながら芸術家ではない」

わたしは巡礼の道連れを観て思った
「彼らは誰一人芸術家ではない。
しかし、まぎれもなく、みな、神の芸術作品だ」

誰に対しても親切で、困った人を助け、苦しんでいる人を勇気づけ
どんな困難にもめげず、まっしぐらに目的地に向かって歩む

春になったら、また元気を出して出掛けようと思います。


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4.人との出会いに元気づけられる(1999/04/11)

4月1日から5日間、、第3回目の四国遍路に出掛けてきました。
実はそれより2日前の出発を予定していたのですが、前日になって風邪を引いてしまい、2日間、ひたすら寝て回復を待ちました。
そのようなわけで、今回は短い遍路の旅となりました。

スタートは、前回の終点である25番札所、津照寺(室戸市)からです。目標は28番大日寺(香美郡野市町)ですから、土佐湾の東海岸を国道55号線沿いに延々と歩くことになります。
病み上がりに加えて、前回の苦い経験(雨中歩行と体力の限界)から不安いっぱいで出発しました。1日あたりの歩行距離も20kmから、せいぜい26、27kmという計画です。

4月1日は、26番金剛頂寺。
翌日、27番神峯寺を目指します。この日、空模様を気にしながら歩いていましたが、午後になって、とうとう降ってきてしまいました。前回と同じ風景、右に断崖絶壁、左にごうごうと荒れる荒磯の間を、土砂降りになったかと思うと突然止んだり、土佐特有の雨の中を行くのです。
ぼやきも出てくるというものです。「俺はなんてついていないのだろう。土佐に対して悪いことした覚えもないのに。」

羽根の集落から、中山峠越えの遍路路にさしかかったときです。
突然、左側の民家から声をかけられました。「お遍路さん、お接待させて下さい。」みると、私と同じくらいの年配と思われる男性が上がり框に腰掛けたまま、こちらに話しかけます。

「自分は今まで何回かお四国をめぐったが、今は足を痛めて歩くことができない。こうして立ち上がるのがやっとです。でも、こうして立ち上がることができ、生活していけるのは、お大師様のお陰です。どうかあなたもくじけずに、最後までりっぱにお勤め下さい。」

そういって、1円玉50枚を包装したものを5本差し出されたのです。ありがたくいただきました。そうして、また歩く元気もいただきました。

3日目、さわやかに晴。
宿に荷物を置き、軽装で神峯寺にお参りし、再び荷物をもって次の札所へ向かいます。
しばらく行くと、道の中央に大きな木があり、車は左右に分かれて通ります。ここから伊尾木の町に入ります。
その直ぐ後、反対側の歩道から一人の女性が急ぎ足で車道を横断し、明らかに私に向かって歩いてきます。遠目には年齢のほどは分かりませんでしたが、近づくと40代の人でした。この人が、私に向かってこう言われるのです。

「この間、ご夫婦の歩き遍路に話しかけたところ、その日、いいことがありました。それからは、歩いている人を見かけたら、話しかけるようにしています。どうか、ご無事で行かれますように。」

「ありがとうございます。あなたに今日も、いいことがありますように。」と申し上げて別れました。
先ほどの道路中央の大きな木は、梛(なぎ)の木だ、この女性が教えてくれました。

歩き遍路は、実にいろいろの人に出会います。上の二つの話はたわいないものかもしれません。人間は何か(絶対者)にすがらなければ生きていけない弱いもののようです。でもその人たちから、ひたすらに歩く私は言い知れぬ感動ともう一段の元気を与えられたことも事実です。

生きている人だけではありません。4日目、香我美町の岸本小学校前の小さな公園で一休みしましたが、そこに田舎にはどこにもあるような、慰霊碑がありました。そこに刻まれていたのは、上は勲7等陸軍上等兵から陸軍一等兵にいたる何人かの名前でした。
それだけのことですが、私はこの戦死した人たち、その家族、この慰霊碑を作ったこの土地の人たちの気持を思いやりましたが、十分には理解できないじれったさが残りました。

5日目、28番札所大日寺にお参りし、土佐山田駅まで歩いて今回の四国巡拝の旅は終わりました。

5日間は、この土佐の長い道のりにはあまりにも短すぎます。いつも思うのですが、遍路に出た最初の2、3日はその直前までやっていた仕事のこととか家庭のことを引きずっています。歩き遍路に没入していないのです。
5日間くらいでは、やっとその気になったところでおしまい、というわけです。
でも、勤めをもつ身にはそんなに長い休みは取れません。おまけに身体の不自由な母を抱えた私は家庭的にもそれほど家を空けるわけにはいきません。できるだけのことをするしかない、と覚悟を決めざるを得ません。

最後の宿の夜、テレビのスイッチを入れたら、グリーグの「ソルヴェーグの歌」をやっていました。それを聞きながら、上のようなことを思いました。


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5.遍路の道すがら聞いた話(1999/11/16)

11月初め、第4回目の四国遍路に出掛けてきました。
例によって(?)出発当日、またまた邪魔が入ってしまいました。そんなことをいってはいけません、仕事が入ったのですから、そしてこれが本業ですから。ともかく遍路行は延期せざるを得ません。

というわけで、本来は29番札所国分寺からはじめなければならないのですが、ここから32番禅師峯寺までをスキップし、33番雪蹊寺からはじめることにしました。
順繰りに日程を日延べしていく方法もありますが、私のような短期間の区切打ちでは、特にこの土佐では、行程がどうしてもうまく組めません。このスキップした区間はこの次にやらせていただくことにして、出発しました。
そのお陰というか、今回も比較的楽な行程となりました。

今回は、この道すがら出会った人たちから聞いた話しを中心に書いてみます。

初日、朝一番電車で福山の奥にある自宅を出発し、午前10時30分に33番札所雪蹊寺に到着しました。ここまでは交通機関を利用したものです。
参拝を済ませた後、早速、歩きはじめます。天気は快適、秋の素晴らしい空の下、何かしら懐かしい思いのする田園風景のなかを歩いていきます。

しかし、初めて歩く道なのに、なぜ懐かしい思いがするのだろうかと考えながら歩いていて、はたと気づきました。私の故郷に既に失われてしまったものがここには息づいて残っているのです。
私の故郷であり、長年の都会生活の後帰郷して今住んでいるところも、○○郡△△町大字××という田舎なのですが、ここにあるような澄んだ水を満々と湛えて流れる堀川、その川に差し掛けられた家々の洗い場、遮るものもなく天空に思いのたけ枝を伸ばした大木の鎮守の杜、たわわに実る柿の木の下のお地蔵さん、かっては私の故郷もこのような風景のなかにありました。

ほどなく、34番種間寺に着きました。納経所の若い僧が親切に次の札所への道を教えてくれました。
さわやかな風とその風にゆれるコスモスのなかを歩いていきます。
長い長い仁淀川大橋を渡り、間もなく今日の宿に着きました。

2日目、宿に荷物を置いて、35番清滝寺に参拝。帰りも同じ遍路道を下ります。途中、みかん畑で働いていた女の人からもぎたての温州みかんのお接待を受けました。これは、本当に美味しかった。きっと、一番美味しい実をもいで下さったのでしょう。
お接待といえば、この日、さらに下がった街中で軽四輪を止めて私が歩いてくるのを待っていたらしい老夫婦から500円ものご接待を受けました。
さらに、塚地峠をやっとの思いで越えて、暑さにふうふう言いながら下りてきて国道56号線に入ろうとするところにお好み焼屋がありましたが、そこの女将さんに呼び止められ、良く冷えたポカリスェット缶を頂きました。
ちょうど、お昼時でお腹がすいていたので、焼き蕎麦を注文したら、またまたライスをお接待されました。
この日は、この地の人たちの温かい心にうたれた日でした。

いよいよ宇佐大橋に差し掛かります。みると、前方からお遍路さんが来る。案の定、彼女だ。
というのは、この人に会うのが今日、これで4回目だからです。
最初は清滝寺への上り口の三島神社のところで追い越され、2回目は宿から荷物を持って次の札所へ出発しようと歩きはじめた高岡の街のなかで追い越され、そして3回目は塚地峠と塚地トンネル車道の分岐点にある休憩所で、今度は私が追いついて、
これで合計3回出合ったことになります。
橋のたもとでしばらく話しをします。「今日はどこまで?」と聞くと、多ノ郷まで行くという。20KMあるから6時頃には着くだろうという。全くたまげてしまいました。
その時、すでに午後1時です。しかも多ノ郷といえば、私が明日泊ろうと予定しているところです。彼女の無事を祈るしかありません。

36番青龍寺に参拝し、
さて、今日の宿に予定している国民宿舎がどこにあるのか分かりません。電話をして見ると、青龍寺の奥の院の隣りだといいます。だから、お寺で奥の院への道を聞いてきて下さいという。
その瞬間、いやな予感がしました。そしてその予感は当たりました。奥の院はそこから約700M物凄い上りのところにありました。登山でいうところの3点確保で登っていくような道です。でもそのようなところにも遍路道の案内がいたるところにありました。
その次の日のことになりますが、一晩大雨の降ったその道を滝のような谷川を横に見ながら歩いて下ることになるのです。

3日目、ここから今回の小さな体験の主題に入ります。
心配した大雨も朝にはあがり、宿を後に、もう一度宇佐大橋に向かいます。その道の右側、海岸に立派な休憩所があります。昨日、日曜日だったせいか、家族連れが大勢遊んでいたところです。
そこに私と同年輩か少し若いぐらいの夫婦がミニカートに、おそらく家財道具一切と思われる荷物を持って休んでいます。
お遍路さんと直ぐ分かりました。挨拶をし、それから話しになりました。主に男性の話しです。

昨日、野宿した。大雨で大変だった。しかし、これでお四国巡拝11回目の満願となる。
そもそものきっかけは、脳卒中で半身不随となり左足にサポーターをつけた生活だったが、ある人の勧めで四国遍路をはじめた。手足が不自由なため、歩き遍路は本当に大変だった。
それでもがんばって、この36番青龍寺にいたり、突然手足に自由が戻ってきた。あの長い青龍寺の石段をサポーターをはずして歩いて登ることができた。それでも1回目のお四国巡りは7ヵ月かかった。

それ以来、お四国巡りは36番から初めて、36番で結願するようにしている。昨日、11回の結願となった。これから高野山へ向かう。

そういうこともあるのか、私は素直な気持で聞いたことでした。
科学を生業とする者の端くれにいる私としては、奇蹟なるものはにわかに信ずることはできませんが、しかしこの人の話を否定する何ものも私はもっていないことを痛感します。

4日目、多ノ郷の宿を出発し、別格5番大善寺にお参りし、長い恐怖の角谷トンネルを過ぎ、いよいよ焼坂峠に差し掛かります。
この峠は物凄い山道で鎖を伝わって登のだ、とあの女遍路の人が話していたところです(彼女は2回目の歩きとのことでした)。しかし、この峠がいやだったら、車道の焼坂トンネル、約1Kを歩かねばなりません。
私にとっては、鎖よりトンネルの方が怖い。そこで峠道の方を選びました。登りもそれほどでもなく、下りは実に快適に秋の日差しを浴びながら落ち葉のなかを歩き、今回の終点JR久礼駅に着きました。

さて、昨日の宿の女将さんに聞いた話です。

あるとき、70歳の退職した校長先生が歩き遍路で来て、今日お客さん(私)が泊る部屋に案内した。
お茶をもって部屋の前まで来ると、中から話し声がする。確か1人のはずなのに、後から誰か入ってきたのかと思ったが、でも何か妙なので思い切って声をかけて入った。
みると、その人が位牌を前に話しかけているのです。聞けば、それは奥さんの位牌だという。

生前、2人でお四国巡りをしようと話し合っていたのに、思いもかけず先立たれてしまった。
だから、こうして位牌を妻と思い、一緒に巡拝し、日々その日のことを話し合っているのだ、と。

それを聞いて、宿の女将さんはその人にこう話した。
「折角だけれど、それでは奥さんが可哀そうではないか。いつまでも夫によって現世に引きづられ、行くところにも行けないじゃないですか。もうそんなことはお辞めになったらどうですか。」

その人は翌朝、「一晩寝ないで考えた。あなたのいう通りだ。」そういって旅立っていった。

そして、後から手紙が来た。
「妻を亡くしてから、毎日泣いてばかり暮らしていたが、最近はよく笑えるようになりました」と。

女将さんいわく。「人生、笑いが一番です。」
実に豪放な女性であることは、玄関の戸を開けて、ごめん下さいと入った瞬間に分かります。

「四国遍路小さな体験」第5話は、これでおしまいです。

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6.お接待のこと(2000/02/22)

2月11日から、また短い区切打ちに出掛けてきました。
今回は、前回やり残した土佐山田駅から29番札所国分寺、30番善楽寺、31番竹林寺、32番禅師峯寺を経て33番雪蹊寺までの参拝を済ませた後、列車で土佐久礼駅まで行き、後は足摺岬へ向けて行けるところまで行くという計画です。
写真は、禅師峯寺本堂脇の石仏群です。

初日、2月11日は昨日までのものすごい寒気が、うそのような暖かい一日でした。冬にしては珍しい暖かい日差しが区切打ち最終日の前日まで続くという幸運に恵まれました。

今回は、四国遍路たちが受けるお接待について、私の経験をもとに書いてみます。

(1)29番国分寺参拝の後、岡豊橋を過ぎたところから南側ルートを川の右岸を行く予定が何を間違ったか、北側ルートの国道に入ってしまいました。
間違いに気づかないまま、小蓮に差し掛かったところで左側に、ずいぶん大きな石屋さんがあるものだなと思いながら歩いていると、女の人が小走りに走り出てきて呼び止められました。

「お茶を飲んでいきませんか」と手を引かんばかりに建物の中に招じ入れられました。みると、金色に輝く高さ1.5Mほどの仏像( 恥ずかしながら、私はいまだに仏像の区別がつかないのです)が鎮座ましまし、傍らが接待所になっています。今しも、お接待を受けた尼僧が入れ違いに出発されようとしていました。
「南無大師遍照金剛」と書かれた小さなお札を入れたお茶(この札はお茶の中で溶けます)とおせんべいのお接待を受けました。 この女の人としばらく話しをします。

この石材店の社長は僧でもある。裏に無料宿泊の施設があり、シャワーもある。食事は近所の食堂でとってもらう。

接待を受けた人の名簿があります。この建物自体が新しく、まだ2年くらいしか経っていませんが、それ以来、ここを訪れた人の名前があります。
試しに、わたしは何番目でしょうかと聞くと、ずーと数えてくれて、あなたは252番目の接待者だという。なかには、この2年ほどの間に、2回も名前を記帳している人がいます。この人たちは親子で、体が不自由だった父親とその娘さんだということです。巡拝の過程で父親の身体もよくなったということでした。

(2)次は、土佐久礼から、うぐいすの鳴く黒竹の大坂道を通り、七子峠を越えて影野に入ったところです。
「雪椿」という名のバス停があり、素敵な地名だと思いながら通り過ぎます。

念のためにと思い、地図を取り出し調べていると、自転車で通りかかった女の人が少し行き過ぎたところで止まり、何やら持ち物を探っています。
どうしたのかな、と思いながらも、さて出発と立ち上がったところを「お遍路さん、お接待させて下さい」とこの女性が、実に1000円札と大きなポンカンとリンゴを差し出されたのです。
正直言ってびっくりしてしまいました。こんなに高額のお接待を受けたのは初めてだからです。丁重にお礼を言い、納札を差し出しますと、「あら、私も藤田といいます」といわれるのです。「この辺には藤田という家が4軒程ある」といわれ、お互いにこの符合の一致を喜び合いました。

そして、「雪椿」の由来が分かりました。お雪椿という樹齢350年になる大きな椿の木があるのです。
昔、お雪という娘さんが若い僧に惚れてしまい、娘の父親はこの僧を還俗させ娘と結婚させましたが、この夫婦には子がありませんでした。お雪さんは椿を植え、大事に育てました。それがこのお雪椿で、今でも見事な花を咲かせるそうです。
雪椿という名とその由来、そしてお接待と、この影野という土地は私にとって忘れ難いところとなりました。

37番札所岩本寺にお参りし、その夜は宿坊に泊めていただきました。
次の日、ここから浮津をめざし、約31KMを行かねばなりません。いつものことですが、車の多い国道を歩くのはどうしても好きになれません。ここは国道56号線です。少しでも脇道らしきものがあればそちらに回り、遍路道と地図にあれば必ずそちらを通るようにします。
というわけで片坂の遍路道を通り、下りていったところで車道を来たひとりのお遍路さんに会いました。一緒に行くことにします。

歩くスピードや休みのとり方は人それぞれで、合う人というのは滅多にありませんが、この人(K氏)とはそれがぴったり合うのです。というわけで楽しい伴が出来、この退屈な国道歩きも何とか乗り切れました。

(3)井の岬を横断し、伊田郷に入ったときのことです。私たちの歩く前方の、歩道から外れた車道の縁で一人の老婦人が立って、一所懸命自分の持ち物の中を探っています。
「このおばあさん、車が来るのに危ないなァ」と思いながら近づいていくと、何枚かの100円玉や50円玉、たくさんの10円玉、それに5円玉、1円玉にいたるまで、両手にいっぱいにして差し出されるのです。「受け取って下さい」と。
私は昨日にも増して、そしてK氏もまた、びっくりしてしばらくは言葉が出ませんでした。この老婦人は、おそらく有り金すべてを私たちにお接待として差し出されたのだろうと思います。

さて、へんろに対するお接待とはなんだろうか。こうしたお接待を受けながら、私はお接待する側の人たちの心を本当には理解できていないのではないかと恐れます。

特に、上にあげた最後のお年寄りのような行為が私にできるだろうか考えるとき、とてもこの人には敵わないと思わざるを得ません。たとえどれだけの金額であろうと、有り金すべてを人に差し出すということはなかなか出来ることではないでしょう。

そうした貴重な体験をしながら、最後は、強風に菅笠も脱いで寒気の中を歩く破目になりながらも何とか中村駅に着いて、今回の遍路は終わりました。

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