五島巡礼

五島列島巡礼の旅

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(写真をクリックすれば、拡大します)


 五島列島は長崎港から西へ、洋上はるか100キロ、九州最西端に浮かぶ列島です。私は、この五島に長年関心を抱いてきました。というのは、40年程前、私がまだコンサルタントとして働いていた頃、ここに数年間通い詰めた経験があるからです。
 ここに数多くのキリスト教会があるということは存じていましたが、当時はもちろん仕事で通っていたわけですから、それらの教会を訪れたりすることはほとんどありませんでした。
 しかし、それらの教会を訪れてみたいという思いは、長年消えることはありませんでした。そこに、ある旅行会社で「五島列島巡礼と小値賀諸島の文化的景観」(3泊4日の旅程)という企画のあることを知り、早速参加することにしたわけです。

 五島列島は、その名の通り、五つの大きな島、南から福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島を中心に約140の島々からなっています。また、小値賀諸島というのは、その五島列島の北に位置する小さな島々で、いずれも西海国立公園に指定されています。
 南北約100キロ、総面積で横浜市の半分くらいの狭い地域に、合計51ものカトリック教会群が現存します(現在は使われていないものも含む)。

「五島へ五島へと皆ゆきたがる/五島はやさしや土地までも/五島は極楽/行ってみりゃ地獄・・・」五島キリシタン唄の哀しい一節です。
1797年、大村領の外海から、故郷を棄て信仰の新天地を求めて海を渡りはじめ、最終的には3000人ものキリシタンが五島の津々浦々に散っていきました。
彼らを待っていたのは僻地の荒れ野と赤貧の日々、そして1868(明治元)年におきた「五島崩れ」と呼ばれる再度の迫害。それでも地を這うように土地を耕し、辛抱つよく信仰という一粒の種を播き続けました。
そして1873(明治6)年、禁教が解かれ、やがてその種は島々の津々浦々に五十もの美しい教会となって珠玉の実を結んだのです。・・・・・」(長崎県観光連盟発行パンフレット『ながさき教会めぐり』より)
 このうちのいくつかの教会とその周辺集落とは、私たちが訪れた2日後の2018年6月30日に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、世界遺産に登録が決定しました。

(1)長崎港出帆し福江港へ(06/25)
 一行は添乗員を入れて12名の小さなグループです。
 東京から長崎空港に着いた人たちと長崎港で落ち合い、港を午後2時50分出帆、ジェットフォイルという高速船で福江港へ向かいます。実に、時速80キロで進みます。かつて40年前、五島に渡るにはフェリーしかなく、5時間以上掛かったと記憶しますが、この高速船に乗れば僅かに1時間25分です。
   
長崎港フェリーターミナル

 今日はこのまま福江市街のホテルに入り、拝観・見学は明日からです。

(2)福江市街から久賀島・奈留島・若松港を経て中通島の青砂ケ浦へ(06/26)
 この朝、雨こそ降っていませんが、いつ降り出すか分からないような怪しげな天候のなか、ホテルを出発します。今日はなかなかの強行軍で、五つの島すべてを走破します。といっても、海上のことですから「海上タクシー」なるものを利用します。2〜30人は乗れる程の遊覧船です。

 午前中はバスで福江島のなかを巡ります。
 江戸時代、キリシタンたちがはじめて外海から渡ってきて、たどり着いたという六方の浜を経て、五島教会群のシンボルともいうべき堂崎天主堂を訪れました。現在は資料館として利用されています。数々の潜伏キリシタンの資料が展示され、大変興味深いものがありました。
 ここにキリシタン庭園と呼ばれる庭園があり、そのなかに「マルマン神父とペルー神父と子供たち」の像があります。その横の草むらの中に、私は不思議なものを見つけました。下右端の写真がそれです。何か分かりません。ガイドに聞こうとしましたが、忙しくしているのに悪い、と思っているうちに聞きそびれてしまいました。

       
堂崎天主堂
マルマン神父とペルー神父と子供たち
キリシタン庭園の中で

 バスの車窓から石田城址・武家屋敷通りを見ながら、鬼岳展望台へ向かいますが、この頃大変な濃霧となり、とても展望どころではない、ということでこれはスキップし、昼食場所へ向かいました。
 午後、福江港から海上タクシーで久賀島の旧五輪教会堂へ。とても辺鄙な船だまりにひっそりと建っています。(下左写真の木立のなかの白い建物、右手のレンガ色の屋根の建物は現五輪教会)五島最古の木造教会堂とのことです。国指定重要文化財です。

   
旧五輪教会堂を望む
旧五輪教会堂内部の天井

 さらに、海上タクシーで奈留島の江上天主堂へ。
 廃校になった小学校のかたわらに木々に包まれて建っています。下左写真がそれですが、写真右側のやや下に木の枝がハート形をつくっているのを御覧いただけるでしょうか。
 天主堂の窓ガラスはステンドグラスではなく、桜の花などが手描きされおり、ところどころすでに剥げかかっています。柱などもよく見ると、木目と見えたものもすべて手描きなのです。信徒たちが自分でコツコツと描きあげたのでしょうか。

   
江上天主堂
キリシタン洞窟

 船はさらに進んで若松島へと向かいますが、その途中、若松島南端の白崎断崖にキリシタン洞窟を見ることができます(上右の写真)。明治初年の「五島崩れ」の際、船でしか行けないこの洞窟にキリシタンたちが隠れ住んでいましたが、たき火の煙から発見され、捕縛され、拷問を受けたといわれます。
 若松港からはバスで、若松大橋を渡って中通島に入り、北上して青砂ヶ浦教会に至ります。
 レンガ造りの重厚な天主堂で、内部に入ると天井は高く、ステンドグラスの窓も美しい。五島その他で数多くの教会を手がけ、名棟梁とうたわれた鉄川与助の傑作のひとつといわれ、国指定重要文化財です。

   
青砂ヶ浦教会

 今日はここまでとし、番岳南麓のホテルに入りました。部屋の窓から曽根教会堂の十字架が木々の緑の上に浮かぶように見えています。

   
曽根教会堂の十字架(ホテルの窓から)

(3)津和崎港から野崎島往復、更に冷水へ(06/27)
 3日目の今日は、朝早くホテルをバスで出発。中通島北端の津和崎漁港まで行くのですが、そこに至る県道が細く、しかもクネクネと曲がり、バスの運転手さんも神経を使うこと並大抵ではありません。やっと津和崎漁港に着き、そこから海上タクシー(今度のタクシーは、釣り船に毛の生えたようなもの)で小値賀島の野崎港に渡り、旧野首教会へ。
 野崎島にはかつて野首と野崎、船森の三つのキリシタン集落があったとのことですが、現在は無人で鹿の天国になっており、現に私たちが訪れたときにも、遠くに鹿を2頭ばかり見ることができました。
 船着場の目の前にビジターセンターがあり、いくつかの注意を受けた後、ストックを借りて約30分のアップダウンの道を教会堂目指して登っていかねばなりません。2年程前に心臓を患ったつれあいのことが心配でしたが、なんとか無事に往復することができました。降ってきて、野崎の集落跡を見学しました。

   
旧野首教会
野崎集落跡の道

 野崎港から津和崎漁港へ帰り、今日の昼食は大曽漁協女性部経営の「漁師の昼食」の予定ですが、まだ時間が早いということで、予定にはなかった江袋教会に立ち寄りました。

 「漁師の昼食」は、大きなビニールハウス風のなかに簡単なイス・テーブルが置かれ、刺身をどんぶり御飯の上にたらふく並べ、ゴマだれをかけて食べるという豪快なものです。刺身はいろんな魚を食べ放題です。
 喜んで食べていたら、大雨が降ってきました。ビニールハウスを打つ雨の音がすごい。ちょうど昼食時でよかった。食べ終わったら、雨は小降りになっていました。

 昼食後、すぐ近くの大曽教会を拝観し、青方市街を通って冷水へ。冷水教会堂拝観の後、矢堅目崎へ向かい、そこにある塩造りの現場を見学しました。「矢堅目」は奈摩湾の入口にあり、矢(守備兵)で(砦を)堅め、外敵の進入を見張る(目)という意味だそうです。

   
大曽教会堂入口から外を見る
矢堅目の奇岩

(4)頭ケ島へ、有川港から長崎港帰港(06/28)
 今日は最終日で、これから頭ヶ島に向かうのですが、その途中、中通島の中心市街地で、新上五島町役場もある青方郷を再び通って行きます。この青方は、昨日も一昨日も通りましたが、私がかつて40年前、仕事で数年間通い詰めた懐かしいところなのですが、バスの窓からはどんなに目をこらしても記憶がよみがえりません。市街の景観が大きく変わってしまったのか、私の記憶があやふやなのか、バスから私一人だけ降りるわけにもいかず、残念でした。

 頭ヶ島は中通島の東端にあり、頭ヶ島天主堂を拝観するのが目的ですが、その前に途中にある鯛ノ浦教会堂(新旧とも)に立ち寄りました。
 さらに有川港を過ぎ、クネクネと東へと走っていきます。有川港は長崎や佐世保からのフェリー・高速船の発着するところで、この港もかつてはよく利用した懐かしいところです。
 頭ヶ島には上五島空港という、小形プロペラ機のみ発着できる小さな空港があります。今は使われていないようですが、かつて私は4〜5人乗りの小さな飛行機で大村空港から何回か利用したことがあります。
 現在、一般の車はこの空港までで、頭ヶ島天主堂へ行くには、ここでシャトルバスに乗り換える必要があります。

 頭ヶ島天主堂は、黄味がかった乳白色の石造建築であることが他と違って珍しく、それがまた窓やドームの淡い青色とマッチして、とても美しいお堂です。
 この石材は、信徒たちが対岸の島から切り出し、船で運び、一日がかりで2〜3個づつ、営々と積み上げたものだといわれます。これもまた国指定重要文化財です。

   
頭ヶ島天主堂
キリスト教徒墓地

 昼食の後、午後2時に有川港から長崎港へ向けて高速船で帰ってきました。海はかなり時化模様で、船はひどく揺れ、なかには船酔いで苦しんだ人もいました。長崎港で東京組と分かれ、私たちは長崎駅から列車で帰宅しました。

 出発日を除けば、この3日間で私たちは五島列島51教会のうち、10の教会を訪れたことになります。堂崎教会や青砂ヶ浦教会のようなかなり大きな立派な教会もありましたし、旧野首教会あるいは頭ヶ島天主堂のように離島の、またその僻地に建つ教会、旧五輪教会や江上天主堂のように素朴な木造建築の教会堂もありました。
 しかし、どの教会も、信徒たちの熱い信仰のもと、長年にわたる営為の結晶であると同時に、またそれを今に至るまで常に新鮮な花を供え、塵ひとつなく清掃し、維持されてきていることは共通しており、深い感銘を受けた旅でした。


追記―天草の崎津教会を訪ねる(09/27)
 日を改めて、今度は天草の崎津教会を訪ねました。これは、不知火海(八代海)を一周するツアーの一環として組み込まれたもので、他の訪問先については省略します。

 この崎津教会を含む集落も世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の重要な構成資産の一つです。
 天草市のホテルを出発して、「天草キリシタン博物館」を見学した後、バスで本渡の崎津集落に着きました。ぐるりと湾を隔てた左手の先に集落が見え、そのなかに崎津教会の尖塔が突き出ているのが見えます。
 ここは「海の天主堂」として有名で、「国の重要文化的景観」に選ばれているとのことですが、多くの書籍・パンフレット等で見る写真は、すべて海上から写した見事なものです。私たちは陸上からアプローチしたので、そのようなアングルで見ることができず、残念なことでした。
 この鄙びた漁師町の、日本家屋に取り囲まれてそそり立つ西洋建築の尖塔は、いかにもアンバランスというか、あるいは絶妙なミスマッチというべきか、いずれにしても非常に印象的な風景です。

 私たちは教会を訪れる前に、まず集落の右手の山麓にある崎津諏訪神社にお参りしました。ここは、潜伏キリシタンたちが仏教徒を装いつつ、ひそかに祈りを捧げていた場所とのことです。信者たちはここで「あんめんりうす(アーメン、デウス)」と唱えていたという記録が残っているとのことです。
 そこから道を下って行くと教会正面の広場に到着します。

   
崎津教会天主堂

 この教会は五島の青砂ヶ浦教会などと同じく鉄川与助の設計になるもので、中に入ると畳敷きというのが変わっています。
 この場所はかつての庄屋の跡地で、そこで踏み絵がおこなわれていた、まさにその場所に建てられたのでした。

 前回の五島列島巡礼の旅といい、今回のこの天草の旅といい、潜伏キリシタンとその子孫たちの深い信仰の跡に、私の日常では触れることのできない感慨をかき立てられる旅でした。


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