地域計画理論の構築のために(2)
――住民とプランナーの対抗的相互作用――(1982)
本稿と同じ表題を冠した前稿において、私は「行為者パラダイムの計画論」を提唱した。
そこでは、地域計画に参加する人は、住民であると行政者・計画者であると問わず、すべて対等でなければならないことを述べた。互いに異なる立場にあることを認め、異なる役割を演じつつ、対等に計画に参加すべきことを主張して、これを私は共同主義とよび、行為者パラダイムの根源とみなしたのであった。
本稿では、この「対等に計画に参加する」共同主義が、住民と計画者(プランナー)との間にどのような相互作用を生みだすか、その相互作用を媒介する計画書(プラン)はどのような要件をもつべきか、そして計画の過程を通じて生まれる計画参加者の自己変革について考察を加える。(注1)
計画の過程
地域計画過程における住民とプランナー(都市計画事業など公的計画の場合は、行政当局)との接触の機会は、公式・非公式にさまざまなものがある。計画書縦覧、それに対する住民の意見書提出、公聴会・説明会の開催、住民による各種委員会(たとえば、まちづくり委員会、推進協議会)や住民運動組織(たとえば、反対同盟、守る会)での話し合いなどである。
そしてほとんどの場合、計画の口火を切るのはプランナー側であり、プランそのものもプランナーによって原案が作成される。住民側が対抗的計画案を提示することもないではないが、多くはプランナー側の立てた計画案に対する推進ないし阻止という反応的な行動をとるのが住民側である。
それらの行動がいかにreactive(反応的)なものにみえようとも。そこにcreative(創造的な)行為を見出そうとするのが行為者パラダイムである。計画するという行為は、参加する一人ひとりが「自らの立場を自由に主張し、自らの役割をのびのびと演じ、それによって地域社会の変革に貢献していく(前稿)」べきものだからである。
住民とプランナーの相互作用ということも、この観点からその基本条件を探り出していかなければならない。
“計画”と計画書(プラン)
このときまず考えなければならないのは、プラン(計画書)そのものである。計画過程における住民とプランナーの相互作用は、いずれにしろプランを媒介にして行われるのであり、その作用過程で果たすプランの役割、そのためにプランのもつ(べき)機能が明らかにされなければならない。
行為者パラダイムでは、プランは計画行為のアウトプット(成果物)ではない。プランは計画参加者の相互作用を媒介するテクストにすぎず、行為の創造的成果――“作品としての計画”――は、このテクストを介して、行為者が遂行する過程そのものであり、その過程を通じて行為者もテクストもその構成を変えていく。
すなわち、計画行為の“作品”とは、計画参加者全員によって演じ創造される舞台であり、プランはそのテクスト(台本)にすぎず、しかもこの台本は演者によって変えることのできるものである。また、たとえ台本は同じであっても、演出と演者によって全く異なる舞台を作り上げることも可能である。ただ、地域計画が演劇と異なる点は、これが地域社会における実生活のなかで遂行されるということである。
一つひとつの行為とその相互作用の経験は、住民とプランナーのなかに蓄積され、自らの生活と意識、知識と思想の変革を促すのである。
このようなテクストとしてのプランのもつべき要件は、行為者パラダイムの観点からは、次のように整理することができよう。
1. 思想性(Advocacy)
2. 不確定性(Uncertainty)
3. 開放性(Openness)
これを一つづつ検討していくことにしよう。
思想性
プランは現実の問題から必然的に、いわば論理的帰結として引き出される解決策ではない。現実問題を反映してはいるが、誰が計画しても同じプランができあがるというわけではない。プランはプランナーの思想の表現であり、信念の具象化である。したがって、思想が異なり信念を異にすれば、同じ地域の、同じデータを使っても異なるプランが立案されるし、当然のことながらプランをめぐって対立が生ずる。
プランナーたる行政側の提示する地域計画案に反応する住民の行動もまたひとつの思想、信念の表現である。住民が自ら信念を棚上げしてしまっては――この状況は、プランナーにとっては計画を推し進めるのに好都合と考えられがちであるが――、これまで地域のなかに生きてきた生活者としての価値、規範、そして経験の蓄積はプラニングの過程という舞台にのぼることなく失われてしまう。プランは、プランナー側からの一方通行に終わる。
そこには、思想、信念のぶつかり合い、立場を異にする者の間の説得、反論、再反論の双方向通行に伴う緊張が消滅している。この緊張を伴う相互作用を、ここでは対抗的相互作用とよんでいるのであるが、この過程こそ創造の源泉なのである。新たな飛躍を期待できる原動力なのである。
プランはこの緊張関係を作り出す役割を果たすものとして理解しなければならないし、同時にこの過程のなかで生まれ変わるべきものとして理解しなければならない。
この緊張を伴う作用過程が、互いが互いによって創造的に高められる方向へ展開するか、たがいに敵意を激化させるだけに終わるかは、単に思想性だけによって説明することはできず、後述の不確定性、開放性との複雑なからみ合いのなかで決定される。
不確定性
住民とプランナーの間の相互作用が生ずるためには、その相互作用の媒介たるプランに未確定なところがなければならない。すべての点で確定しているプランに議論の余地はなく、関係者間のコミュニケーションは不要であり、相互作用は生じない。
プランには欠落部分がなければならない。それをここではプランの不確定性とよぶ。この不確定性を認識すればこそ、住民は行政側の提示する地域計画案に対し積極的に反応しようと動機づけられるわけであり、そこから住民の創造力を汲み上げ、プランの欠落を補っていくという形での相互作用が生まれる。はじめから確定性高く作られたプランに対しては、住民はその「ゲーム」から降りようとすることは多くの事例によって明らかである。
では、この不確定性はプランのどこに見出されるか。さらにいえば、プランナーの提示するプランにはどこに欠落したところがあるのか。
およそすべての計画とよばれるものは、何らかの選択過程を経て生み出されたものであり、そこではいくつかの特定の可能性がすでに排除されており、その排除された可能性は専門技術としてのプラニングの技術的制約に由来している――思想性にもとづくプランの相違は、ここでいう欠落ではない――。
専門技術的観点から排除された可能性――これこそがプランの内包する欠落である――をこそ、住民はトータルな生活者観点から掘り起こす必要がある。
このように、住民とプランナーはその観点を異にし、その故にこそ欠落を補い合うことができるという相互作用が生ずる。この観点の相違は、それぞれの経験(技術的訓練を含めて)の相違に由来しており、たがいに相手の経験を経験することはできないのだから、これを相互に補い合うという関係が期待できる。
したがって、この相互作用は補完的相互作用とよんでもよいが、パズル絵をはめ合わせるような補完関係ではなく、そこには否定と、さらに再構成を含むような展開の可能性が大いにあり、やはり「対抗的」とよぶのがふさわしい。
開放性
開放性とは計画参加者全員にとって開かれたプランということである。これはプランそのもののもつべき要件というよりも、計画過程の要件と考えるべきであろうが、便宜上ここで論ずることにする。
開放性とは、相互作用による要素間の依存関係が完結していない状況をいう。この要素が、かなり自由に広範囲に関係を結べる余地が残されていることを意味する。
計画参加者は、上述のように、相互に作用を及ぼし合っていくのであるが、それぞれは同時に自らの行動プログラムをもって、行動している。しかも、そのプロクラムは互いに予め調整されたものではない。そこに偶発性がある。
「何が起こるか分からない」のである。各自はその相互作用の過程で計画参加上の行動プログラムの修正、態度の決定を迫られる。その修正、態度決定は計画過程の進行のなかで明らかにされてくる性格のものであり、予定することはできない。
すなわち、プランの開放性は、相互作用から発生する偶発性を認めることにほかならず、この偶発性がまた相互作用を促進する源泉ともなる。偶発性がなくなれば、計画の過程は「儀式」となってしまう。
対抗的相互作用による自己変革
地域計画の過程における住民とプランナーの相互作用は、プランのもつ思想性の認知をバネとして、不確定性に由来する欠落を補いつつ、開放性に由来する偶発性に対処しながら展開していく。
しかもその相互作用は計画参加者間で対抗的である。住民には住民の立場があり、プランナーにはプランナーの立場があり経験がある。両者は相互に立場を交換することはできず、他者の経験を経験することはできない。
しかし、このように立場を交換することができず、他者の経験を経験することができないゆえに、相互作用が生まれ、そこに相互作用のもつ意義がある。この相互作用の過程を経て――それが対抗的であるだけに一層明確に――、他者の眼を通じてみた自分の姿を、相互作用の媒体としてのプランのなかに見出すのである。
住民にとって、プランは自己をとりまく状況を、距離を置いて(俯瞰的に)、時間をおいて(未来から)対象化させる。日常生活にとどまる限り把握することのできない観察の対象としての自己を計画参加のなかで見出すのである。
そこに、プランナーの眼を通して自らをみている住民がいる。プランという媒介を通じ他者の眼を獲得し、日常生活では経験することのできない「経験」をする。そこから新しい地平が開けてくる。住民の(集団としての)自己変革が成し遂げられる。
きわめて私的な領域における利害関心、あるいは「地域エゴ」とよばれるものから、より遠大かつ根源的は地域住民共同の目標が地平に浮かび上がってくる。(注2)
テクノクラートとしてのプランナー
では、プランナー側にとってはどうだろうか。計画過程における対抗的相互作用の一方の相手側たるプランナーにとっても事情は同じであろうか。
基本的には同じであると考えてよい。プランにおける思想性、不確定性、および開放性に十分考慮して計画をすすめていくことは、「住民無視」の計画から、「住民本位」の計画へと転換する契機をプランナーに与えてくれるだろう。
ただ、ここで一つ留意すべきことがある。それは、プランナーは住民と異なり、計画に関するテクノクラートだという点である。そして、テクノクラートが作るプランの思想性とは何か、という点が問われなければならない。
テクノクラートは自ら一つの思想をもつというより、抽象化されたより広範な――と、必ずしもいえないことも多いが――住民の思想を代表しているのではないか。住民とプランナーの対抗的相互作用とはいっても、実は特定住民対一般住民の対抗的関係なのではないか。とすれば、プランナーが計画の過程において、住民との相互作用を通じて新たな地平を望むことができるためには、その背後にいるより広範な「隠れた物言わぬ大衆」に、前述にみた地域住民の自己変革と同じ変革が成し遂げられなければならないだろう。つまり、「世の中が変わる」ことが必要である。
しかし、その変化の兆しをキャッチし、それにプラニングを先取りすることのできるのも、またテクノクラートたるプランナーであろう。そして、そのようなプランナーが数は少ないが、いま、生まれようとしている兆候が確かにある。
(注1)本稿の執筆にあたって、次の著書から多くの示唆を得た。W. イーザー著、轡田収訳『行為としての読書』岩波書店 1982。
(注2)ここでは紙幅の関係から詳述することができないが、典型的な事例としては、たとえば次のものを参照されたい。
(@)新宿地区土地区画整理の事例――桝田登『コミュニティ形成と住民心理』第一法規出版 1980
(A)静清バイパス建設の事例――(社)行政情報システム研究所『社会的紛争とアクセプタンスについての情報の蓄積とその活用に関する調査研究』同所 1982
(『研究所季報』第11号、産能大 1982. 7)
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