地域計画理論80-3

地域計画理論の構築のために
――システム・パラダイムから行為者パラダイムへ――(1982)


日本列島の巨大開発、拠点開発主義が破産してすでに久しく、昭和50年代に入ると、地域主義が唱えられ、さらに“地方の時代”へと移ってきた。
今や、地域とか地方、あるいは地区、コミュニティといった言葉が大はやりである。人々の眼は地域とか地区という狭い範囲に注がれ、若者はUターンし、社会移動は激減して、日本は「静まれる社会」へ移行したといわれる。

こうした変化は計画論の立場でいえば、主たる計画対象が広域からより狭域へと移ったという以上の意味をもつ。というのは、以下に述べるように、これまでの計画理論がもはやこうした変化に対応できないことが明らかになりつつあるからである。

これまでの計画理論
これまでの計画は――地域計画、事業計画、経営計画を問わず――すべてシステム・パラダイムにもとづいている、というのが私の見方である。
たとえば、ひとつの事業を計画する場合、まずその事業目標を設定し、その目標からひき出される機能要件と制約条件をあきらかにし、それらにもとづいて評価基準を定める。次に、目標達成のための代替手段を考え出し、このなかから先ほどの評価基準に照らして最効果的・最効率的な手段を選定する。そして、これを実施に移すためのプログラムを組む、というステップをたどる。

このステップで最も重要なのは、最初の事業目標を設定する段階である。この目標いかんによって選びだされる手段が変わってくるからである。最効果的・最効率的手段というのは、目標に最もよく適合し、その限りで最もコストの低いものである。

この目標設定という作業において、システム・パラダイムはそれまでのサイエンス・パラダイム(または、アナリシス・パラダイム)を超える思想的転換を成し遂げたのであった。
それは「拡張主義」とでも呼ぶべきもので、サイエンス・パラダイムの「還元主義」と鋭く対立する。つまり、ひとつの目的は、あるシステム範囲を限定したとき定義されるものであり、これを含むより上位のシステム(inclusive system)からみれば、その部分をなすサブシステム(included system)にすぎない。とするならば、より上位のシステムへと思考を「拡張」することによって、より広範かつ高次の目標を設定する視野が開け、それにより選択される手段もより広範かつ高次のもとなる。
還元主義のように、問題を細分化し、それぞれを部分において改善・設計していっても決して全体最適化にはつながらないというのが、システム・パラダイムである。

このようにして、いったん目標が設定された後で、これをいくつかの二次目標に分割しながら手段を探求し、全体を構成する。目的あっての手段であり、細部を積み上げるのではないという意味で、これを構成的思考と呼ぶ。
構成的思考は、拡張主義から必然的にひき出されるアプローチであり、拡張主義がシステム・パラダイムの根源である。

道路建設の例
たとえば、ある都市の既成市街地で区画整理事業が計画されたとしよう。そして、そのなかで計画された主要道路が、実はその地区に隣接する大団地と駅を結ぶ通過交通を処理するためのものだと分かったとする。

住民はそのための用地を区画整理事業による減歩によってねん出するのは筋違いではないかと主張する。つまり、道路の目的が地区住民のためではなく、他地区住民の通過交通のために必要だというなら、それは当然、市が買収方式によって用地確保すべきではないか、というわけである。
しかし、道路ができればこの地区住民も使うわけで、この道路は単に通過交通のために最効果的・最効率的であればよいのではなく、この道路を含むこの地域全体の住宅や学校、公園などの都市施設との関連において、果たすべき機能を規定する必要がある。

すなわち、道路だけを考えてこの事業目標を定義するのではなく、道路を含む地域というシステムへと思考を拡張し、そのなかで道路を位置づけることが必要になる。騒音、大気汚染、振動などの交通公害への対策、交通事故などへの安全対策も議論を呼ぶだろう。
このような発想がなければ、社会紛争のタネに事欠かない時代に、事業実施は不可能であろう。そして、このような形で計画がうまく進んでいけば、それはまさにシステム・パラダイムの勝利と呼んでよいだろう。

しかし、この道路整備が逆に自動車による交通を刺激し、交通量の増大という結果をもたらし、結局は再び渋滞と公害を一層激化させないとも限らない。
そこで、そもそもなぜ道路でなければならないのか、鉄道、モノレールなどは考えられないのか、という考えが出てこよう。すなわち、上位システムへと思考を拡張していくことによって、道路そのものの存在意義が問い直されてくるのである。

システム・パラダイムの限界
このように、システム・パラダイムは問題解決の思考を一定レベルに留まらせる桎梏から私たちを解き放ち、より上位へと導き、その高みから新しい解決手段を考え出させる効果をもつ。

だが、ここで私たちはひとつの困難に突き当たる。「どこまで拡張すべきか」という問いに、システム・パラダイムは答えることができないのである。人間はすべてを知ることはできないという能力の限界と、それだけに時間を含むあらゆる資源を投入しつくすことは許されないという努力の限界とから、ケースバイケースに、落ち着くべき所に落ち着くとしかいえなのである。
還元主義には落ち着くべきところがあった。それは「アトム」とよばれる最小単位である。この「アトム」は時代とともに、科学進歩につれて変わってきたが、ともかくある時代にはその時代の限界としてのアトムが存在した。

更にもう一つの問題は、「どの方向に拡張すべきか」という問いに答えることができないということがある。ある小地域(たとえば、町丁地区)は、それを含む市のひとつのサブシステムであり、市は県の一部であり、県は集まって国を構成する。
このように考えると、ある特定の地域社会というシステムは、その位置づけのなかで規定される役割、すなわち市システムへの貢献という見地からその目標を定義すべきであるということになる。道路建設に反対したり、ごみ処理工場建設に反対している地域住民は、市民全体のためを考えない地域エゴのかたまりとみなされる。
より上位目的へとさかのぼることにより、下位目的もよりよくみえてくるというのがシステム・パラダイムなのに、ここではこれが地域は市のため、市は国のためにある、という全体主義的・集権的発想へと導くのはなぜか。これはどう考えてもおかしいが、これを押しとどめる論理をシステム・パラダイムはもたないのである。

行為者パラダイムへ
このように地域社会を計画の対象とするとき、もはやシステム・パラダイムは危機にひんしており、新しいパラダイムが求められている。それをここでは、ゴットシャークにならって「行為者パラダイム」とよぶことにしよう。(注*)

行為者パラダイムは、私たちの眼を対象(object)たるシステムから、それにかかわる主体(subject)たる私たち人間へと転回する。計画対象となっている地域とか事業よりも、問題解決を迫られている課題よりも、その計画に参加している人たち、問題解決に取り組んでいる人たち、の方にこそ本質があると考える。
したがって、私たちの関心は、目標よりも過程にある。成果よりも進め方が大切である。この行為者パラダイムに従って、「計画する」という行為を考えてみよう。

計画と組織
いま、私たちは地域社会とかコミュニティを対象に計画を考えているのであって、たとえば巨大な原子力発電所の建設計画といったことを考えているのではないことに注意しよう。
原発の建設計画は、建設目標を設定し、そのシステム構成を考え、最効果的・最効率的手段を考え、資源配分を行いつつ全体目標へと作業を統合していく、まさにシステム工学がその本領を発揮し得る分野である。

そして、それを計画し実施する組織がまた一つのシステムである。経営目標が明確であり、組織構造は機能細分化・専門化と高度な階層分化を特徴とし、これを貫いて組織としての意志が一本の糸のように貫徹することを可能にしている。このような組織(フォーマル組織)が「計画する」とき、システム・パラダイムをとるのは当然のことといえよう。

しかし、地域社会はフォーマル組織ではない。経営組織のようにはっきりした目標をもって組織されたものではないし、機能分化も判然とせず、ましてやヒエラルキー(階層)はほとんどないフラットな組織である。
何より大きな違いは、フォーマル組織では組織あっての構成員である――構成員の役割は組織目標への貢献という見地から割り付けられる――のに対し、地域社会では住民一人ひとりがまずあって、その人たちによって社会が構成されるという点である。いいかえれば、フォーマル組織では、含むシステムが含まれるサブシステムを規定するのに対し、地域社会では含むシステムが含まれるサブシステムによって規定されるのである。

地域計画の論理――共同主義
このことから地域社会における計画のあり方が導き出される。地域住民一人ひとりがその属する社会を規定するのが地域社会であるならば、地域計画では住民一人ひとりがその主人公でなければならない。
そして住民一人ひとりは、公理的意味において対等である。地域社会がフラットな構造をもつのはこのためである。地域に居住する住民でなくても、その地域に関する計画に参加する人はすべて対等でなければならない。行政者であれ計画者(専門家としてのプランナー)であれ、すべて住民以上のものではない。

もちろん、それぞれ立場は異なり、専門知識も異なるわけで、これをすべて均質化することを説いているのではない。互いに異なる立場にあることを認め、異なる役割を演じつつ、対等に計画に参加する共同主義こそ行為者パラダイムの根源をなすものである。
それぞれが自らの立場を自由に主張し、自らの役割をのびのびと演じ、それによって地域社会の変革に貢献していく。その社会の意味ある変化にどれだけの原因となり得るか、それが自らの行動への動機づけになるのであって、強制力や功利的動機だけが住民参加を促すのではない。

このような共同参加がすすんでいって、はじめて通常の状況下では直接的目標となり得ないような、遠大かつ高次の目標が地域住民の地平に浮かび上がってくる。地域社会での生活向上と精神的共同体の創造といった目標が明瞭に認識されてくる。そこですべての参加者が道路建設について考え、自動車交通について考え、自らの生活態度の変容について考えていくようになる。

再び言うが、共同主義の下では参加者はすべて対等ということが前提である。権力や知識が偏在すれば、そこに特権が生まれる。すると、その特権をもった人たちの特定目標だけが大きくクローズアップされ、地域社会の根源的かつ遠大な目標が脇に押しやられる。

行為者パラダイムでは目標よりも過程、成果よりも進め方に関心をもつといったのは、上のような意味においてである。

実現の戦略――学習
さて、このような行為者パラダイムの計画理論はどのようなものであるべきだろうか。それは、上述の“理想的”地域社会における計画論ではなくて、現実世界から出発して、この“理想”社会実現に向けて進むための戦略でなくてはなるまい。いまここで、その戦略プログラムを提示する力は私にはないが、その必要条件と思われるものをいくつか、以下に列挙してみようと思う。

1. すべての地域社会は人間が作ってきたものだから、人間の手によって変えられるはずである。ただ、宿命的観念にとらわれ、外部からの刺激のほとんど期待できない(迷惑施設の誘致すら期待できない)地域では、何らかのトリガーとなる活動が必要である。たとえは、建設大学校のコミュニティ・プランナー育成、ICAによるLENSセミナーなどをあげることができる。

2. 情報公開が計画の前提である。人々を対等に立たせるのは情報である。特に、行政における意思決定過程の情報は、原則的に公開されなければならない。

3. 将来のテクノクラート(行政者、計画者)たるべき人たちに「よき住民」となるための学習を必須として課す。現代の高等教育がほとんど計画者の論理と生産者の必要性から行われていることは、たとえば理工系大学の学科構成とカリキュラム編成をみれば一目瞭然である。

必要なことは、何よりも学習である。地域社会の計画の過程、それに伴って生ずる紛争過程は、それが過程として大切なのであって、何が成し遂げられたかということ以上に、その過程で人々が何を学習したかが重要である。
行為者パラダイムの計画論は、また学習論である。
(注*)「行為者パラダイム(Actors Paradigm)」という言葉使いは、次の著書から示唆を得たが、その概念は同一ではない、
Shimon S. Gottschalk, Communities and Alternatives: An Exploration of the Limits of Planning, Schenkman P.C.Inc. 1975.
(『研究所季報』第10号、産能大 1982.3)

[次へ]


目次へ戻る

ホームページへ戻る