本とのつきあい方80-1
本とのつきあい方(1980)

本とつきあいはじめて40年になんなんとする人間なら、この主題で学生諸君に何か伝授することがあるはず、というのがおそらく編集者の意図であろう。本とのつきあいは確かに長いが、それはあくまでも私流のつきあい方であって、人に伝え授けるほどのことは何もない。
しかし、その“私流”を聞かせてくれればいい、ということだろうと推測し、あえて書かせていただく。

勉強のための本、仕事のための本という、いわば専門書のことではなくて、まさに読むこと自体が目的となれば、そのつきあい方は人それぞれの流儀でつきあっていけばよい。ちょうど、人とのつきあい方に唯一の「きまり」があるわけではないように。
ただ、その出合いを大事にすること、つきあいを長続きさせるよう努力すること、この2つのことは本の場合もやはり大切なことだろう。

たとえば、C.ブラッカー『あずさ弓』(秋山さと子訳、岩波書店)。
この本の場合は、どこかの書評でこれを知ったので、いわば人に紹介されてつきあうようになった、という次第である。
だが、なぜその書評に私が目をとめたのか? あずさ弓とは、巫女が生者死者の霊を招き寄せようとするとき、その弦をかきならす弓のことである。『あずさ弓』に私が目をとめたのは、私がそのことを知っており、そうした場面は能楽の舞台にいくつか存在し、そして私が能楽に関心をもっていたからである。
そして、この著者がケンブリッジ大、ハーバード大で日本史を教える女流史家であり、日本の民俗、民間信仰、修験道の体験的なフィールド調査にもとづくものであると聞けば、まだ見ぬ前から惚れこんでしまった女性のようなもので、一日も早く会いたいという思いにかられてしまう。

そして、読後感。
客観的描写を積み重ねていき、あえて“説明”しようとはしない著者の語り口に引き込まれながら、人間の苦しみと悲しみの長い歴史の凝縮が、トランス(霊が乗り移った状態)に現れることを了解するのである。

心より心に伝ふる花』(白水社)の著者は、先年惜しまれつつ若くして没した天才能楽師、観世寿夫の体験的能楽論である。「自己の肉体を通して『世阿弥のことば』を理解しようとし、それを心の支えとした能役者の魂」(野村万之丞評)の記録である。

このように、何でもよい、自分の関心のある領域から本の世界へ入っていくのは、まことに楽しいものである。

堀田善衛『ゴヤ』(新潮社、全4巻)との出会いは、偶然である。通勤の駅で、たまたま買った週刊誌にこれが連載されており、以後この連載が読みたいばかりに何年間もその週刊誌を購読し続けることになった。
狂気なまでの激しい人生を生きたゴヤは、晩年、80歳になろうとする頃まで「おれは学ぶぞ・・・・」と叫び続ける。そのゴヤを描く堀田自身からして、このゴヤを描きたいばかりにスペイン語を学び、スペインに何十回となく足を運び、スペインに住む。

そして、何年もかけて『ゴヤ』の連載を執筆し続ける。実に延々と描き続ける堀田に、こちらも延々とつきあい続ける。こうして単行本になってから読むよりも、週刊誌連載中のつきあいの方が、はるかに緊迫感があったことも事実である。

逆のつきあい方もある。
大仏次郎『天皇の世紀』(朝日文庫、全17巻)は、新聞連載中つきあい切れず、文庫で発刊されるようになってから、第1巻から改めて読んでいった本である。古い文書からの引用の多さと長さに、いささか辟易しながらもつきあってきて、今でも本当に良いつきあいだったと思う。

とりとめもないことを書いたが、学生諸君も自分流の本とのつきあい方を見出していくことが大切だろう。本に対して頭から拒絶することも、また逆になんとしても本を読まねばならぬという姿勢も、どちらも一種の構えであり、よいつきあい方はできない。
何よりも自分の関心領域を広げ、心を開いて自然と人生をみつめていけば、そこからおのずと本との出合いがはじまると思う。

そして本をつかまえたら、一旦つかまえたら、多少は努力しなければならない。つきあいにも努力は必要である。
(『産能大キャンパスニュース』5号 1980. 7)

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