決定のもろもろ
決定を分析するとは、どういうことだろうか。意思決定を分析するなどということができるのだろうか。
「分析」という以上は、ここでは合理的決定にいたる「科学的」手順を意味しているはずである。では、「合理的」とはどういうことか、「科学的」とはどういうことか。そして、合理的決定とはどのような決定をいうのか。議論は果てしなく続く。
意思決定ということをマネジメントと置き換えてみても同じことである。マネジメントの本質は、意思決定にあるといわれるからである。サイエンティフィック・マネジメントといえば、F. W. テイラーの唱えた「科学的管理法」であるが、合理的決定ということを広義に解釈すれば、その淵源はこのテイラーに行きつくだろう。
戦後は、“マネジメント・サイエンス(経営科学)”が導入され、流行した。これは、狭義には第二次大戦中の軍事作戦研究にはじまるオペレーションズ・リサーチ(OR)に端を発しているが、現在ではいろいろな「科学的」管理技法の総称として、広義に使われるようになってきている。
合理的とか科学的ということをつきつめて考えるのはまた後にして、もうひとつの「決定」について考えてみよう。
私たちは人生のなかで、毎日の生活のなかで、多くの決定を下している。昼食はカツ丼にしようか、天丼にしようか、それとももりそばで我慢しておこうか。
テレビでは今、広島―巨人戦が始まろうとしているが、締め切りの迫っているこの原稿を書かなければならぬ。試合経過が気になりながらではとても原稿は書けないだろうから、まず野球試合を観てから原稿に取り掛かろう、と決定を下す。
人生の節目ではもっと大きな決定がある。誰でも経験することといえば、進路の決定、結婚、就職というようなことであろう。とにかく、一つを選ばなければならないのである。毎日のように考えは揺れ動き、悩みに悩むに違いない。
決定の要素=目標と代替手段
つまり、決定を下すというのは、とり得る「代替手段」がいくつかあり、選択を迫られているのである。とり得る手段が一つしかなく、選択の余地がなければ決定問題は生じない。
進路の決定も、自分自身の考えはすでに決まっていて、悩みに悩んでいるのはその決定を両親にどうやって納得させるかというのであれば、その問題は「進路の決定」問題ではない。進路についての代替手段は、少なくとも自分の心のなかにはないからである。
どんな理由づけを持ち出せば両親の説得が容易になるか、そのとき持ち出すことのできる理由として何があり、何が最も強力か、という「理由づけ」の代替手段の探索・選択に悩んでいるのである。
すなわち、ここで述べたいことは、意思決定には何かやり遂げたいこと=「目標」があり、その達成のためにいくつかの「代替手段」がなければならない、ということなのである。目標が違えば、当然のことながら代替手段も違ってくる。
決定の要素=不確実性
1969年10月、フォード自動車会社はマーキュリー・シリーズのコンバーチブル・モデルの製造販売を継続すべきか否か、の問題に直面していた。このモデルはすでにライフサイクルの成熟期に入っており、マーケットシェアも下降気味で、ディーラー在庫もかなりの高水準にあった。
そこで、フォード社の製品計画グループは早急にトップの経営判断を仰ぐべく、分析資料を作成する必要に迫られていた。これは、企業にとって一つの重要かつ困難な意思決定問題である。
しかし、代替手段の面については、話は簡単である。このモデルを製品ラインから外すかどうかという二つの代替案のなかなら一つを選べばいいだけである。メシ屋の何十というメニューのなかから一つを選ぶ問題ではないし、多種多様な専門分野や職業、会社のなかから一つを選ぶ難しさがあるわけではない。
にもかかわらず、これが重要かつ困難な決定だというのはなぜか。
ひとつには、これにかかわる金額がフォードという大会社にとってすら、かなりのインパクを与え得るほどに大きいからである。しかし、そのインパクトがいかに大きかろうと、精密な計算によって利害得失が明らかになるなら、重要な決定ではあっても困難な決定ではない。
これが困難な問題である理由は――そして、多くの意思決定問題が困難である理由の最大のものは――、結果の「不確実性」にあるのである。先のことは分からない、のである。
フォード社の製品計画グループは、まず今後の総売上高を予測しなければならないが、これがさまざまな経済的・社会的要因によって左右される。それは、アメリカ国内の状況に左右されるだけではない。日本という外国の経済成長率いかんが輸出ドライブとなって、フォード社の売り上げに影響しないとはいい切れない。国内競争他社の動向はもちろんのことである。
ここに大きな不確実性が存在し、予測を極めて困難なものにしている。
さらに加えて、困難な要因としてインクリメンタリティということがある。インクリメンタリティとは、競争他社を食ってあげる売上変化の割合をいう。つまり、インクリメンタリティが1ということは、(新モデル発売などで)達成された売り上げはすべて新規に獲得したものであることを意味し、インクリメンタリティが0ということは、当該車種1台1台の売り上げが自社製品を食って達成されたということを意味する。この割合をどのようにみるかということは、このコンバーチブル・モデルの売り上げ予測に影響を及ぼすと同時に、他の車種の売り上げにも影響する。
しかも、この予測は景気がどうなるかとか、マスとしての消費者がどのように行動するだろうかとかいったことと関係し、競争他社や社内競合車種のプロダクト・マネジャーなり事業部長なりの戦略にも左右される。そして、彼らがどのような戦略をとるだろうかということは彼らの胸の内にあり、それはまた当方の出方次第という面がある。
すなわち、敵対する競争の問題であり、闘争の問題である。
意思決定における最大の課題の一つは、不確実性にどう対処するかということである。
しかし、不確実性と一口にいっても、その「わからなさ」にはいろいろ程度の違いがあり、一概にはいえないし、「先のことはわからない」の一言で何もかも同じように取り扱ってよいことにはならない。
フォード社はこの特定モデルについて、継続か否かの決定を下さなければならないと同時に、継続しないならそのあとの対策として新モデル開発ないし発売に踏み切る意志を固めなければならないかもしれない。その時の売上数量の予測とかインクリメンタリティについての予測はある程度の精度で可能かもしれないが、他社がどのような対抗手段で出てくるか、出てくるとすればそれはいつか、この点で確かな情報は何もない。ある部分はかなり確信のもてるデータがあるが、他の部分は全く未知に近いということがある。
これを明確に分け、打つ手を考えていくのがビジネスというものであろう。手を打ちながら情報を集め、それによって手を変えていくというダイナミックな決定の連続が経営というものであろう。
決定の要素=評価基準
第三の要素は、決定における「評価基準」ということである。
経営における意思決定なら、経済性ないし効率性こそ評価基準ではないか、という議論があろう。その通り、経済活動を営む組織体であれば、民間企業であれ公共企業体であれ、収益であり、原価であり、利益あるいは剰余金こそ最重要基準であろう。行政体であっても効率性は最大の経営眼目であるに違いない。しかし、さらに細かく具体的にみていけば、問題はそれほど簡単ではない。
かつてアメリカ海洋大気局は、メキシコ湾沿岸地方を毎年のように襲うハリケーンに対し、何らかの制御手段が講じられないか、あるとすればそれをどのようにして実行していくかの実験プログラムを発足させた。
そのプログラムのなかで組織的な「決定分析」が行われたのであるが、そのなかに上に述べた評価基準についての興味ある事例をみることができる。
メキシコ湾上に発生したハリケーンに対して、その眼に大量のヨウ化銀を散布することによって破壊力を和らげるというアイデアの実験が、1969年8月、同じハリケーンに対して2回行われた。その結果、最大風速でそれぞれ31%、15%の風速低下が観測された。
問題は、この2回の実験結果から、今後、人口密集地域に上陸する可能性のあるハリケーンに対して、このヨウ化銀散布という行為を行うことが連邦政府に許されてよいかどうかということである。
――ちなみに、この時点ではこの種剤散布が許されるのは、人口密集地帯の50マイル以内に、種剤散布後18時間以内にハリケーンが到達する確率が10%以下の場合だけであった。この制限事項を緩和するかどうかが、このプログラムの目的であった。――
さて、いま意思決定の「評価基準」について考えているのであるが、このハリケーン制御のための種剤散布をすべきか否かの決定問題では、「評価基準」には何をとったらよいのだろうか。
まず考えられることは、ハリケーンによる財産被害額である。種剤散布によりハリケーンの風速が低下し、そのため財産被害を低くくい止めることができれば、種剤散布の効果はあったということになる。
しかし、私たち日本の台風の例でもみるように、住民にとっての最大の被害は人命の損失ではないか。とすれば、何らかの暴風制御の手段が有効かどうかは、それによってどれだけの、失われるはずの人命を救うことができるかを第一義とすべきではないか、という議論が当然のこととして起こってこよう。
評価基準として人命を持ち出すことは、後述のように、極めて困難な倫理的問題を私たちに突きつけることになるので、ここでは触れない。ともかく、このプログラムのなかでは、人命の損傷損失は暴風警報が出されたかどうか、それが適切であったかどうかに大きく依存するという理由から、分析から意識的に除外された。
ということで、人命の問題は一応考慮の外に置いておくことにする。しかしなお、社会的・法的に難しい問題があり、決定の判断基準として財産被害額だけでは不十分だということを、次に示してみよう。
経済と倫理
それは、種剤散布すれば、そのことが世に知られる事実から生じる社会的影響をどうみるか、ということである。種剤散布しても、そのハリケーンは消えてなくなるわけではない、風速は低下するかもしれないが――それがどれだけ低下するか、はたして低下するのか、それは確率的にしかいえず、しかもその根拠は僅かな数の実地実験と、一つの学説としての理論と、コンピュータによるシミュレーションしかない――、ゼロになるわけではなく、依然として強烈な暴風であり、大きな被害をもたらす可能性が残っている。
いま、ハリケーンが種剤散布されない場合の地表風は、図の w(t) の曲線のように強まっていくものと仮定する。そこで、もしハリケーンに種剤散布したとすると、このときの風の状況は w’(t) の曲線で示されるようになるものとしよう。種剤散布の効果は明らかで、雨も予想より弱まり、その結果、財産被害は減少する。
最大持続風速の時間的変化
しかし、風速はなお w’(t1) であり、種剤散布開始時の w(t0) より大きい。この状況下で、種剤散布の決定権限をもっている決定者――連邦政府当局者――は、極めて難しい選択に直面していることになる。
もし種剤散布をしない方を選ぶと、住民の財産被害は一層大きなものになる。しかし反対に、種剤散布をする方を選ぶと、住民は当局者の決定のおかげでよくなったとは思わず、――すなわち、w(t1) となるべきところを w’(t1) でくい止めたのだといっても、実際に起こっているのは w’(t1) であって、種剤散布開始時のw(t0) より大きい――、種剤散布した後、嵐は一層ひどくなったと感じ、そういう決定を下した人を非難することになるだろう。
必ず、すなわち100%確実に、図のようになることが住民にもすべて納得されていれば、こうした非難は起こらないが、それが不確実であるところにこのような問題が起こる。
学者たちや連邦政府当局者は相当に確度高く図のように推移することを確信しており、可能性としてはかなりの確からしさで何億ドルという財産被害を減少させるチャンスが訪れているのだが、にもかかわらず、被害を受ける住民は可能性としてではなく、自分が被害を受けたのであって、非難が起こるのは当然であるともいえる。
種剤散布すべきか否かの決定を下す人は、この非難に耐え、種剤散布の責任をあえてとるか、大きな財産被害が生ずる可能性をあえて容認するか、二者択一に追い込まれる。決定を下さない、という第三の道はない。決定を下さないということは、上のうち後者の道を選ぶことと同じである。
種剤散布によってくい止められる財産被害額がそれほど大きいものでないなら、決定者としてはあえて非難に身をさらそうとはしないだろうが、これが数千万ドルから数億ドルにのぼると見込まれるならば、為政者としての責任を回避することはもはや不可能、というより許されないことではなかろうか。
つまり、評価基準として財産被害額という経済的基準だけでなく、住民に対する施政責任コストという、いわば倫理的基準を考えなければならないのである。そして、この施政責任コストを見積もらなければ決定が下せないことになる。
私たちは、倫理は経済に置き直せるか、という問題に直面するのである。このハリケーン制御問題に関していえば、決定分析者たちはあえてその課題に挑戦しようとする。
くわしくは述べないが、財産被害の減少額増分がどのくらいならハリケーンに散布することに伴う責任をあえて引き受けてもよいと考えるか、その判断を数字によって示し、為政者に決定を迫るのである。
民間企業にとっても決してよそ事ではあり得ない。企業は経済活動をその本来活動とするといっても、そこで行われる経営意思決定は、対顧客ないし消費者、あるいは対株主、対従業員といった関係だけで律しきれるものではない。企業は経済的環境のなかで事業を営んでいるだけでなく、社会的環境のなかで活動し、生きていかなければならない。
そこに、いわゆる企業の社会的責任が生じる。良質廉価な製品やサービスを提供するということのほかに、公害など社会的環境へのマイナス影響の防止、社会的秩序・道義の遵守、社会との開放的なコミュニケーション、福祉活動・寄付などの自発的な社会貢献など、さまざまなことが企業に期待されている。企業は、これに応えていかなければならない。
そのとき、こうした「社会的責任コスト」とでも呼ぶべき要素をどのようにみたらよいか。先ほどの政府の施政責任コストと類似した問題を経営者はかかえることになる。決定分析では、これを経済評価という主評価基準に対するトレードオフ修正という形で決定過程のなかで考慮する努力をしている。
いずれにしろ、このように人間の判断というものの数量化、その困難な課題に決定分析は挑戦しようとするのである。
決定分析の適用
世に「経営の神様」といわれるような人がいる。はっきりした見通しや判断材料がないときでも、確かな決定を下す能力というものは、私たち凡人の羨望の的ですらある。それは、いわば「勘の領域」に属するといえる。
しかし、いま、大げさな言い方をすれば、この勘の領域に決定分析は挑戦しようとしているといってよい。といって、「神様」を作り上げようというのではない。そうではなく、何千何万という企業の、それこそ何万何十万という経営者・管理者にとって、経営の打率を一分でも二分でもあげていく努力を援助する役割を決定分析が果たす、と考えたいのである。
これまで述べてきた「目標と代替手段」、「不確実性」、「評価基準」といった要素に粘り強く取り組んでいくなかから道が開けてくるだろうと、私たちは考えている。
世は低成長時代といわれている。設備投資の決定一つをとりあげてみても、とにもかくにも人に遅れぬよう、人と同じようにやっていく、そうした発想で決定を下し、莫大な借入金を調達し、設備の新増設を行って、たとえそれが誤った投資決定だとしても、二年か三年たてばとにかくフル稼働にもって行くことができた、というのが高度成長のありがたいところであった。
こうしたことは現在、おそらく夢のまた夢であろう。決定を下すにあたって、考え抜くことが必要なのである。そのための一つのツールが決定分析だということができる。技法としての決定分析については、紙幅の関係で触れることはできないが、これまでに述べてきたような思考を基礎にしているから、狙いとするところは理解していただけるだろうと思う。
経営管理分野で、この決定分析の適用について熱心で、比較的長い経験をもつのは、やはり米国であり、デュポン社、ピルズベリー社、GE社などでは、その有効性を高く評価している。
特に、新市場開拓、新製品開発、あるいは設備投資の意思決定、特定事業からの撤退といった、いわば戦略的な意思決定の領域に適用されている。同時に、戦術的な決定問題でも、データが少なく主観的判断に頼って決定しなければならないような調査計画の立案などに適用されている。ゼネラル・ミルズ社、フォード社などでも使われている。
筆者の私見としては、現段階の決定分析の技術水準からいうと、工学、医学、あるいは企業のなかでは実験や研究部門、調査部門などに活用分野が広く存在しているような気がしている。
いずれにしても、今後大いに適用分野が拡大していくだろうと思われる。GE社に在籍していたロバート・ニューマンなどは、次のように極言している。
いまから10年を経ずして、管理者にとって、決定分析、コンピュータ、そのプログラム・ライブラリが、今日の技術者にとっての微積分学、計算尺、数表のように、当たり前の用具となる日が来るだろう。ローマ時代の技術者は、確かにこうしたものは何一つ持っていなかったが、それでも橋を架けることはできた。しかし、彼らが今日、橋梁工事で現代の技術者と競争しようとしても、それは無理な相談である。まして宇宙科学などでは足元にも及ばない。
今日のマネジメントは、ローマ時代のエンジニアリングの段階にあるといってよい。それはまさしく、技術者が設計に当たって熱交換の専門家を使うように、管理者が決定分析スペシャリストを使うようになるだろうことは目に見えている。
時代はそれほど楽観的ではあるまいが、そうした方向に向かいつつあることは事実であろう。しかし、マネジメントはエンジニアリングとは違うことを忘れてはならない。だから、私はニューマンには必ずしも賛成はできない面がある。それを次に考えてみよう。
合理的決定の可能性と限界
話は、冒頭にかえる。科学的とか合理的とか、あるいは合理的決定とはどういうことか、という問題である。
いままで述べてきたことから、読者にもおおよそ私の言わんとするところをご理解いただけたと思うが、なお、A.ラパポートに従って整理してみよう。
1.合理的な分析は現実主義的である。つまり、それは検証可能な事実に着目する。事実と希望とを取り違えるような誤りに対しては警戒を怠らない。(以下、略)
2.合理的分析は演繹的である。それは計算や数学的推論をはじめ、利用可能なあらゆる論理的推理の技法を駆使する。
3.合理的分析は予測的であり、したがって生産的である。(以下、略)
4.合理的分析は、感情とか、通例、感情に混入している希望的観測とかによって曇らされることがない。また、権威への畏怖や迷信や独断や神経症的恐怖などによって歪められることもない。したがって、合理的分析は自由で何ものをも恐れない考え方を生みだす。
5.合理的分析は、覚めた精神の証左である。(中略)
要するに、合理的分析は問題解決という営みの一環として行われるのであり、したがって成熟した思考の骨組みをつくるものである。
決定分析のめざすところは、まさにラパポートのいう合理的分析そのものである。だがしかし、以上5項目は合理的分析のめざすところであると同時に、その限界でもある。
ラパポートが、合理的分析の誤った単純化であるとして怒りを込めてとりあげている実話を引用させてもらうなら、私たちは次のような問題を「合理的」に分析しようとは決して思わない。
第二次大戦中、南太平洋にある空軍基地で、飛行士が各自に割り当てられた30回の出撃作戦の任務を果たした後で、生き残れる確率は25%だと算出された。若者たちは死の宣告を下されたにも等しい生活をしていたのである。
そのとき、事態を改善する方法が発見された。もし爆撃機がその荷重、すなわち1機当たりの爆弾の量を増やすならば、半数の飛行機で同じだけの作戦任務を達成することができると算定された。飛行機の荷重を増やす唯一の方法は、積み込むガソリンの量を減らすことだった。もし飛行機が帰還を考えないで作戦任務につくならば、これが可能となる。いいかえれば、もし飛行士が4回に1回生き残る確率を受け入れる代わりに、確実に自分の命を捨てることに同意すれば、彼らの四分の三ではなく、半分だけが死ねばよいことになる。
この新しい手続きによれば、飛行士は50%の成功の確率をもったくじを引くことになるわけだ。もしもボールが二つ入っている箱から白いボールを取り出せば本国へ帰される、もしも黒いボールを取り出せば帰還なき作戦任務につかなければならない。この取り決めができれば、各飛行士は以前の2倍の確率で生き残ることができるようになる。
読者のご想像の通り、この分析結果は実施されはしなかった。
参考引用文献
(1) R. V. ブラウン、A. S. カール、C. ピーターソン共著、藤田恒夫監訳『決定分析――入門から適用まで』産能大出版部 1977.
(2) A. ラパポート著、坂本義和ほか訳『戦略と良心 上』岩波書店 1972.
(『マネジメント・ガイド』1977. 6月号 産能大出版部)
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