危険なイメージの不毛70-3

危険なイメージの不毛
――モデル、システム分析とイメージの役割――(1974)


イメージを大切にしないのは解体の思想
五月の大連休のすぐあと、次のような新聞記事が私の眼をひいた。
「東京湾岸の潮干狩り場が、工業地帯づくりのための埋め立てによって年々姿を消しているが、千葉県はこのほどその代償の意味も込めて、木更津港沖合に潮干狩り公園を埋め立て造成し、そこに橋をかけて新しい潮干狩り場を作ることになった。・・・・・総工費は約五億円・・・・」(下線は筆者。『日本経済新聞』昭和49. 5. 9)。
この記事だけでは、どのような浜辺が、どのようにして造成されるのか分からないけれども、ただ日本列島改造(あるいは、解体?)は、着々と進んでいるという実感だけは強烈である。

そこに砂があり、波があり、なにがしかの――おそらくきわめて少種類の――貝があれば、”潮干狩り“が楽しめるのだろうか。
私の潮干狩りのイメージからすれば、刈り場の砂と波と貝だけが潮干狩りではない。刈り場までの松林、その中の小径、浜辺での奇妙なさまざまな土中の生き物との出合い、対岸の風景。
採った貝よりも、いま言ったすべてが全体として、潮干狩りのイメージに結びついている。

この小文では、イメージの役割とか機能ということを、システム分析という一見奇妙な取り合わせのなかで考えてみよう、というのが趣旨なのであるが、考えれば考えるほど、最近の私たち日本人の思考法はこれでよいのかという疑問がわいてくる。

いささか旧聞に属するが、今年の初め、田中首相が東南アジアを訪問したとき、いくつかの国で大きな反日デモが起こった。タイでは、首相は異例の学生会見を行っているが、その会見の模様は、いま述べた日本人の思考法についての重大な反省材料となるように思われる。
タイ学生たちは、「日本の経済帝国主義が、日本の企業が、タイ経済を破壊しつつある」「日本は公害輸出している」として抗議したとき、首相をはじめ日本側の反論は、次のようなものだったといわれる。
「学生たちは事実を調べもしないで、感情で抗議するので話にならない」「数字に立脚した反日論になっていない」……。

つまり、どういう企業が何社入って、その売り上げがいくらで、それはタイ国経済の何%を占め、結果としてタイ企業のうち何社が影響を受け、何社が倒産したか、それを数字で示せ、ということになる。
学生たちがそのような数字をつかんでいるわけはないだろうから、おそらく答えようがなかったに違いない。しかし、学生たちはおそらく日本の食品から電気製品、自動車が国中にあふれ、タイ製品が駆逐されていく実感だけは確かなものとしてもっていたに違いない。

田中首相の思考法は、東南アジアでは通じなかった。タイ国経済を数字に解体し、数字のあれこれを集めて、それを積み上げて経済の実態として把握しようとすれば、タイ学生のもつ実感としての経済全体はつかみ切れないであろう。
日本側のタイ国経済に対するイメージの貧困といわないまでも、イメージを大切に考えない態度は、冒頭に述べた「潮干狩り公園」の発想と軌を一にする。

イメージを大切にしないのは、解体の思想である。部分を強調し、全体を見失うという日本土着(?)の思考法の、悪しき発展といったらいい過ぎだろうか。
しかも、それは定量的・論理的な(テクノロジカルな意味で)装いをもっているだけに一層危険である。それはまた、私たち日本人が西洋流のシステム思考を日本流に解体してしまった結果ではないか、とさえ思える。
そして、それは私たちがイメージを大切にすることを忘れたからではなかろうか。

イメージは人の価値体系に深く根ざす
では、イメージとはそもそも何だろうか。
企業イメージは企業そのものではないし、商品のブランドイメージは商品そのものではない。つまり、イメージは事実そのものではない。
イメージは、その人の心に映る世界の姿である。心象である。しかも、事実のあれこれの寄せ集めでなく、まさにそれ全体としての姿である。更に、その姿は職場のレクリェーション旅行で撮る記念写真のようなものではない――写真はカメラで切り取った現実の「部分」でしかない――。
むしろ、画家の描く肖像画である、といった方がよい。肖像画は単なる記念写真ではない。ゴヤ描くところの「アルバ女公爵像」は、アルバ女公爵その人ではない。ゴヤの心に映るアルバ女公爵の姿であり、アルバ女公爵を通じてみた世界の姿であろう。大胆な省略と誇張、部分間の美的な関係、作者の訴えかける強い主張。

すなわち、イメージは人の価値体系に深く関係している。そこに明らかな「意味内容」がある。論理的(あるいは、テクノロジカルな)整合性のみならず、美的整合性――こういう言葉があるかどうか知らないが――を備えたものである。

イメージがテクノロジカルな整合性をもつものであれば、ある状況の下で一定の情報を受けて起こす人間の反応あるいは行動が、人によってそうそう異なるものではあるまい。
「潮干狩り公園」に対する私の反応は、その公園の発想者の期待通りになるはずだし、タイ学生たちが田中首相との会見後、「誠意がない」「問題解決の用意さえできていない」という感想を述べるはずはない。首相は、この会見に予定の3倍の時間をかけて行っているのである。

イメージが人の価値体系・美的観念に根ざしているがゆえに、そしてイメージにもとづいて人は行動するがゆえに、行動に違いが出てくるのである。

モデル化とイメージ
一方で、問題は複雑に込み入っているがきわめて機械論的に処理し得るし、またそのように処理しなければならない分野がある。つまり、テクノロジカルな整合性をもって予測しなければならない分野がある。その典型は、1960年代の世界をにぎわした米ソ両国による宇宙開発にみられる。

宇宙開発では、少なくともその計画がスタートしてからは、イメージが大きな役割を果たしたとは思われない。人類としてはじめて宇宙を飛んだガガリーンは、「地球は青かった」というすばらしい言葉を吐いて、私たちの宇宙イメージの形成に貢献したが、ソ連当局者がそれによって宇宙開発計画を考え直したとは思われない。
人類としてはじめて月面に足跡を印したアームストロングの「人類の偉大な第一歩」は、すでにシナリオのうちだったかもしれない。

宇宙開発で大きな役割を果たしたのはシステム工学である。宇宙開発では、未知の、しかも複雑な問題に取り組むわけであるが、重要なことはテクノロジカルな予測可能性である。それがなければ宇宙飛行士は生きて地球に帰れない。
どうすれば、あるいはどうなれば、結果はどうなる、という予測可能性、そのためにシステム工学ではモデルという概念を用いる。

無重力状態は人体にどう影響するか。無重力宇宙空間に人間を投げ出して調べるわけにいかないので、そのための実験室を地上に設ける。これは物理的なモデルである。
地球軌道上の衛星ランデブーによって基地を作り、そこから月へ向かうか、月軌道上で衛星と着陸船のランデブーを行うか、その経済性は実際にやってみて決めるわけではなく、費用効果分析の経済モデルを用いて決定するのである。

こうしたモデルは論理的な構造をもっていなければならない。テクノロジカルに整合性のあるものでなければならない。モデルは、テクノロジカルな整合のオバケのようなものであるが、まさにその事実によって大きな効果を発揮するのである。
しかし反面、オバケは依然としてオバケであって、私たちはすべてをオバケに託すわけにはいかない。

モデルが人間行動の解明に、予測に、全面的な役割を果たすことはできない。テクノロジカルな側面が非常に重要な問題に対して、本質的にはテクノロジカルなものであるモデルを使って操作可能となってはいるが、イメージは何の役割も果たさないということは決してない。
モデル作成と操作の前に、イメージの形成がある、ということをこれから述べてみたい。

モデルは「全体」を表すか
一つの例を生産の計画にとってみよう。
いくつかの製品のうち、どれをどれだけ生産したら収益が最も多くなるか、という問題を解くとしよう。
第i番目の製品をxi 個生産すれば πixi の収益が発生するものとする。このとき生産者の目標は、各製品の収益の和 Σπixi を最大にすることである。しかし、ここに一つの制約がある。たとえば、各製品はそれを生産するのに一定の時間を必要とする。第i番目の製品を生産するのにti 時間を必要とするとすれば、その製品はある設備を ti xi だけ占有することになる。
ここで、全部でT時間しか使えないとすれば、全製品について ti xi を合計したものは、Tを超えることはできない。すなわち
 Σti xi≦T
である。
これは、製品構成に関するリニア・プログラミング・モデルである。このモデルを数学的に操作していけば、最適解を求めることができ、この生産者はそのように生産の計画を立てればよい。きわめてエレガントに解決し、モデルの効果は絶大である、といってよいか。

ひとつの疑問は上の制約式である。このモデルは現実をベースにして作られたものであり、設備の利用可能な総時間がT である、というのは事実であろう。しかし、時間の制約T はほんとうに超えることができないか。追加設備をするなり、他社の設備を借りたらどうか。新しく人員を採用したらどうか。

事実として時間の制約を受けてはいるが、だからそれを超えられないか、超えられるかは、「事実の問題」ではなく、「価値判断の問題」である。時間の制約を超えるための追加資金の投入が何らかの理由によって好ましくないと判断されたために、それを制約としてモデルを作り、問題を解くのである。

モデルは「現実の模型」である、といわれる。だからといって、事実の積み重ねによって、誰がやってもはめ絵パズルのように同じ模型が得られるというものではない。
それは、モデル作成者の価値判断によって――上の例では、特にモデル作成時にその制約をどう考えるかによって――非常に違ったものになってくる。
すなわち、モデルはモデル作成者が現実世界をどのようにみるか、に依存している。その人が現実世界にどのようなイメージを抱いているかによって全く異なってしまう。

ただ、先の宇宙開発や生産計画の例の場合は、テクノロジカルな面のウエートが非常に高いために、論理的構成の度合いの高いモデル化が可能であっただけである。
しかし、他の側面が絶無でないことは生産計画の例で明らかである。極言すれば、モデルはイメージのテクノロジカルな整合化を強調したものにすぎず、人間の思考、意思決定、計画におけるカギはイメージにある。

モデル作成の前提にイメージがある
定量的なモデル化という概念によって、テクノロジカルな問題の解決は大きく前進したが、テクノロジカルな側面よりも価値体系にかかわるようなもの、美的関係こそ重要な側面であるような問題に対しては、全的な姿としてのイメージの概念に立ち返らざるを得ないであろう。
システム工学なりシステム分析の適用を、社会開発型の問題に拡大しようとするとき、このイメージの概念をもう一度、カギとなる要素として考え直さざるをえないように思われる。

実際に、イメージがモデル作成に大きく影響していると思われる例を、MITにおけるメドウズ教授を中心とするグループの研究に見ることができる。
この研究結果は『成長の限界』として日本でも刊行され、大きな反響を呼んだ。メドウズ教授らはシステム・ダイナミックスという手法を用いて1900年から2100年までの世界の成長に関するシミュレーション・モデルを開発し、それによって、もしも人口、工業生産などが現在のままの形で幾何級数的に成長していくなら、全世界の資源はあと一世代で枯渇し、人類は破局に到達するであろうと予言した(D.H.メドウズ著『成長の限界』ダイヤモンド社 1972)。

これはまことにショッキングな悲観的な予言であるが、研究結果がペシミスティックであるというより前に、まずモデル作成者たちの世界イメージがペシミスティックなものであるように私には思える。
世界モデルの操作からペシミズムが生まれてくるのではなく、イメージにペシミズムがあり、そのイメージにもとづいたモデルが、それを定量的な形で示してくれたということであろう。それはモデルの前提となる事柄の随所に見受けられる。農業生産の伸び率や資源埋蔵量の過小な見積もり、汚染の進行と防止コストの過大な見積もり、等々。

基本的にはメドウズ教授らのいうところの『限界』の5項目の「基礎」と称するモデルの前提にある。その第一は、「幾何級数的成長は、人口と資本の固有の性質であり、技術のそれではない」というものである。
人口や資本が幾何級数的に成長し、技術はそのように成長しないということを自然的現象とみなす――自然的であり、かつ社会的でもある現象とみなさない――ところは、完全にペシミズムに陥っているのではなかろうか。
『限界』に反論するサセックス大学研究グループも制度的欠陥を考慮の外に置いているとして、上述の前提を批判している。

誤解のないように言っておかねばならないが、メドウズ教授らの世界モデルが無意味なものだと私はいっているのではない。このような問題のモデル化には、その作成者のイメージが色濃くその影を落とすものであるということ、ひいてはモデル操作の結論もその影響を大きく受けるものだ、といいたいのである。

システム分析とイメージの役割
これまでのところから、私たちはひとつの教訓を引き出すことができる。すなわち、モデルの背景にイメージがあり、イメージについて徹底的に考え抜き、討議を尽くして、初めてモデル化の方向を見出すことができるということ。
モデル作りにのめり込むだけでなしに、また「数字に立脚した」議論をするだけでなしに、システム分析プロセスをトータルに見直してみれば、問題の認識から情報収集、モデル作成へと移る過程で、イメージが重要な役割を果たしていることを知るのである。
むしろ、「イメージの形成・確認」というプロセスを明示的に設けるべきではないか、とさえ考えられるのである。

イメージは、人の心に映る世界の姿だ、と私はいった。しかも、事実のあれこれの寄せ集めでなく、まさにそれ全体としての姿である、といった。
イメージはどのようにして形成されるのか、それを具体的に述べることは私の手に余ることではあるけれども、イメージについて考え、語る、ということは、システム分析プロセスを部分によって全体にいたるという、およそ”システム的でない“やり方から解き放ち、その本来のやり方に立ち返らせるひとつの手立てである。

システム分析のある一つの部分的過程――たとえば、モデル作成プロセス――に執着することをやめ、あるいは分析対象そのものにのめり込むことをやめ、更にはまた、システムの使用者(分析者の顧客)のなかに組み込まれることをやめるには、分析者がそのいずれからも超えて自立的に対象のイメージについて考えをめぐらす以外に道はない。
海岸埋め立ての代償として潮干狩り場を埋め立て造成するという発想。一国の経済を数字に解体して把握し、実感としての経済を無視する態度。全体から離れて部分それ自体を精緻に定量的に仕上げ、解体のまま放置する・・・・・。
イメージを呼び起こして、システム化を考え直さなければならない。
(『マネジメント・ガイド』1974. 7月号 産能大出版部)
 

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