偶然(1973)
大学のある丘を南へ下ったところに、九品仏浄真寺という大きなお寺がある。この寺の南端に小さな交番がある。私は毎日、大学へ通っていく途中、この交番の前で非常に奇妙な、しかし恐ろしい感慨に襲われる。それは、「昨日の都内交通事故 死亡1、負傷285」などという例の掲示である。
この数字が、私にとって不思議でならない。毎日見ていると、死亡者数は「0」の時もあり「1」のときも、また「2」のときもある。しかし、それ以上であることはほとんどない。まして、「100」とは「200」という数字は絶無である。これが、私には不思議でならない。
この広い東京都のなかで、何万何十万という車が走っているであろう。それこそ何百万人の人が道を歩いているであろう。そして、車と人、車と車の出合いは、それこそ天文学的な数に上るであろう。それでいて、死亡事故は確実に、「1」または「2」の近傍にあり、それなりに安定的である――これはポアソン分布と呼ばれる理論分布によく適合する――。
したがって、交通事故による死亡者数の予測は非常に簡単で、精度高くできる。現に、全国の年間累積死亡者数が一万人を超える日は毎年、10日と違わない。これは実に無慈悲な、恐ろしいことである。
この数が安定的である、ということが私に深い感慨を起こさせる。たまには「100」になったり、「1000」になったりする日があっても不思議ではないと思うのに――それを望んでいるわけでは決してない――、決してそんな日はないのである。私たちは「交通事故にあう」という表現で、どうにもならない偶然的な事柄を説明しようとする。
しかし、その偶然は安定的な数字として必然化されている!
これは、あたかも都市が一個の生物体の如く生き、自らの制御機能を働かせているかのようである。都市は、交通事故死亡者があるときは「1」であり、あるときは「1000」であったり大きく変動するとき、おそらく存続していけないだろう。激しく変動する要因は、それを内包するシステムにとって耐えがたいものだからである。
しかし、そのような制御機構があるとして、なぜ都市はそれをもつ必要があるのか。それが都市の存続に必要だからというのであれば、「存続」は都市の目的なのか。その制御機構はその存続のための合目的機構なのか。
そして、都市はどうやってその機構を獲得したのか。
私は、それこそ偶然に、フランスの偉大なノーベル賞受賞者で分子生物学者であるジャック・モノーの著書『偶然と必然』(邦訳 みすず書房 1972)に出くわした。生物のもつ本質的な2つの特性――複製の不変性と合目的性――、そこでの偶然のはたらき。彼の驚嘆すべき思想から、私の九品仏での毎日の経験は、実は「偶然」についてのほんの入口の感慨にすぎないのだ、ということを知るのである。
(産能大通教機関紙『能大』No.122 1973. 5月号)
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