ルロワのワインに寄り道してしまいましたが、そろそろ次の目的地、ヴージョ村へ入りましょう。 この土地はシトー派修道僧が作り上げた広大なグラン・クリュ、クロ・ド・ヴージョで有名な村。ここに関しては1999年のお題目でも纏めましたが、今一度おさらい。コート・ド・ニュイの中でも、特徴的なヴージョの歴史や問題点について触れてみます。 |
グラン・クリュ プルミエ・クリュ |
ヴージョ村 : Vougeot とは村を流れる小川「Vouge」に由来する名前。かつてのブルゴーニュ公国時代、王が頻繁にディジョンとボーヌの間を行き来していた際、ちょうど中間地点にあたるこの地に休憩所兼ホテルを建て、その周りに村落が出来たといいます。 約67haの村に特級畑"クロ・ド・ヴージョ"は50.6haあり、全作付面積の約75%。ブルゴーニュにおいてグラン・クリュ(それも単一畑)がこれだけの部分を占有するのはこの村だけ。1100年代にシトー派修道会が興した歴史ある畑であり、その広大なグラン・クリュは周りを囲む石垣(クロ)によって守られているよう。 残り11.7haが一級畑、そして村名格はわずか4.8ha。この村の村名ワインは、あるにはあるらしいが未だお目にかかったことがない。プルミエ・クリュもあまり話題には上らないけれども、"レ・プティ・ヴージョ"、"レ・クラ"、"レ・クロ・ブラン"の大きく分けて3区画があります。中でも珍しいのが、"レ・クロ・ブラン"から生まれる白ワイン。この区画はディジョンの輸出業者であるレリティエ・ギュイヨが単独所有しています。 |
修道院によって培われてきたこの畑も、1790年、革命政権に没収されるわけですが、その時に命を出したのが、当時まだ無名の将校だったナポレオン・ボナパルト。国による競売が行われ、3名ほどの所有者を経た後、1818年これを入手したのがガブリエル・ウヴラール氏。彼はナポレオンに軍事物資を調達し財を成した銀行家で、ヴージョ村の村長におさまるほどになりますが、なんといってもロマネ・コンティの畑まで買収し、当時ロマネ・コンティのワインが、クロ・ド・ヴージョにあるウヴラールの醸造所で仕込まれていたというのは興味深い。 この畑が切り売りされるきっかけとなったのは、19世紀末フランス全土を襲ったフィロキセラ。ヴージョもその被害を免れることはできず、畑の荒廃により価格が暴落した際、イギリス人やドイツ人に売却されそうになります。しかし1889年、栄えあるこのクロを守る一心でブルゴーニュのネゴシアン15名が買取った。ご存知のように均等相続制が布かれ相続税の高いフランスにおいて、転売や相続による畑の細分化は止むを得ないところで、現在のように50haの畑に80名の造り手が存在する状況となります。 |
グラン・クリュであるにも関わらず、一銘柄に80種のワインがあるという現況は、消費者にとっては迷惑な話で、「クロ・ド・ヴージョ」という名は特級の価値を持たないというイメージさえ生まれているように思います。ただし、所有者の多さだけでいえば、クロ・ド・ヴージョの斜面上部に位置するエシェゾーも同様で、約38haの畑にこちらも80名以上の所有者により細分化されています。では何故にこの畑が槍玉に挙げられるのかというと、上の地図を見れば分かるように、コート・ドールのグラン・クリュとしては唯一国道74号線に接し、例外と言えるほど斜面下部に位置するからでしょう。
2002年4月号のヴィノテーク誌では、クロ・ド・ヴージョ特集が組まれ、各生産者の所有区画が記されています。ワイン市場の成熟してきた日本においても、50haという広大な畑のどの区画を所有するかが問われ、さらに生産者の力量との兼ね合いを見極めるという作業が重視されるようになりました。こうした探求は楽しいことでもあるわけですが、やはり難解であることは間違いなく、一般の愛好家が数あるブルゴーニュワインの中からクロ・ド・ヴージョを選択することを遠ざけているように思います。 |
このシャトーから数十メートル下ったところに、もう一つの小さな城があります。これが1890年に建設されたシャトー・ド・ラ・トゥールの醸造所で、クロの内側でワイン造りが行える唯一の生産者。多くの造り手がいるクロ・ド・ヴージョで1/10以上の畑(5.5ha)をシャトーの周りに所有します。 この他、ドメーヌ・ベルターニャ、ドメーヌ・ミッシェル・エ・クリスチャン・クレルジュ等があるものの、この村に本拠を置く生産者は多くありません。クロ・ド・ヴージョという歴史ある畑が、現在不遇をかこっているもう一つの要因として、この地に籍をおく造り手があまり芳しい評価を受けておらず、クロ・ド・ヴージョのスペシャリストともいうべき、指標となる造り手が存在しないという点があるように思われます。 下記に挙げる生産者の手によるものは、秀逸なワインも数多くあるわけですが、他村の優れたグラン・クリュを所有する彼等にとって、クロ・ド・ヴージョはドメーヌのフラッグシップとなるケースは少なく、どうもこの畑は地味な印象を持たれているような気がします。 |
シャトー・ドゥ・クロ・ヴージョ : もともとはシトー派の修道僧が接客用に建てた迎賓館 |
【ヴージョを産するネゴシアンと他村の著名な生産者】 ルイ・ジャド、フェヴレイ、ジョセフ・ドルーアン ドメーヌ・ルロワ、ドメーヌ・ジョルジュ・ルーミエ、ドメーヌ・ロベール・アルヌー、ドメーヌ・ジャン・グリヴォー、ドメーヌ・ミッシェル・グロ、ドメーヌ・アンヌ・グロ、ドメーヌ・グロ・フレール・エ・スール、ドメーヌ・メオ・カミュゼ、ドメーヌ・ルネ・アンジェル、ドメーヌ・モンジャール・ミュニュレ、ドメーヌ・ダニエル・リオン |
ブルゴーニュについて最良の教科書であるマット・クレイマー氏の「ブルゴーニュワインが分かる」には、こんな記述が見られます。 「クロ・ド・ヴージョの畑は、今日の愛好家にいわせれば、ブルゴーニュ的ではなくボルドー的なものを念頭に作り上げたものだ(中略)クロ・ド・ヴージョの素晴らしさはシトー会の修道士らが熟練の極みともいえるブレンド技術をもって管理してきたことにある。」 彼によると、この畑の特異性は細かなクリマの違いを描くものではなく、修道士たちが管理していた時代には、50haという畑のそれぞれの区画、様々な性質のワインをブレンドし最上のワインを造り上げたということ。こうした話を聞くと、明らかに立地の劣る区画まで一つのクロとして包括された畑が、何故に当時からロマネ・コンティやシャンベルタンとともに名畑として広く知れ渡っていたかという点が理解できるように思います。 現在では多くの生産者により分割所有されているため、こうしたブレンドワインは体験できませんが、もしも「特有の個性=ブレンドの妙」であったならば"本来のグラン・クリュ"としての意味を持つクロ・ド・ヴージョを味わってみたいと思うのが、ワイン好きの性。修道士達が知覚していたという「教皇の畑」「王の畑」「修道士の畑」それぞれのブレンド。利酒騎士団という素晴らしい組織がここにあるのですから、そんな歴史を再現する一本を造って欲しいと思うのはただの夢想家でしょうか? この歴史あるクロの内にシャトーが存在することさえ、単なる偶然ではないような気がするのですが。 |
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