現在では世界各国の美味しいワインが日本にも届くようになっていますが、ブルゴーニュというワインは「テロワール」を重んじる地域でもあり、原産地を基とするフランスワイン法を最も重視する地方。私達消費者にとっても、こうした神秘性に心ときめく土地なのではないでしょうか。 「ワインの個性は土地が決定するもの。ワインは畑で生まれ、生産者はその手助けをするだけ」と言い、畑が持つ個性を最大限に表現し、現在ブルゴーニュでも別格の評価を受けるのがルロワのワイン。今までにも、ルロワについて触れてきましたが、今年に入りドメーヌ・ルロワの水平を体験、また星谷とよみ様、高島屋ルロワ担当者様と再びご一緒し、貴重なお話を聞く事が出来ましたので、少し詳しく纏めようと思います。前編はルロワの歴史を中心に。 |
まずルロワについて消費者が戸惑うのは、三種類のワインが存在する事。現在、メゾン・ルロワ、ドメーヌ・ルロワ、ドメーヌ・ドーヴネの三種類があります。写真左より |
この三者のどこが違うのかというと、ネゴシアン・ルロワは契約農家から買い付けたブドウを醸造してワインを造り、ドメーヌ・ルロワは自社畑のブドウを使うこと。そしてドメーヌ・ドーヴネは、マダム・ルロワの個人所有畑のブドウから造られるもの。以下、それぞれを簡単に説明します。 ■メゾン・ルロワ(ネゴシアン・ルロワ)
■ドメーヌ・ドーヴネ (注1 : マダムが生まれて15分後、父アンリは小さな唇をワインでしめらせたと言います。3歳の頃には試飲をしていたそうで、23歳の時にはルロワ社を任されるほど、アンリに信頼されていた。) |
1868年、ルロワ社は初代フランソワ・ルロワにより、ムルソーに近いオークセイ・デュレス村に創設され、二代目ジョセフ・ルロワにかけて、ブルゴーニュの中でも最上のワインを選んで育成するネゴシアン業を中心に営んでいました。第一次大戦から第二次大戦にかけて、非凡な商才を持っていた三代目アンリ・ルロワが事業に参画。彼はコニャック地方のブランデーをドイツに向けて輸出、さらに事業を発展させます。そしてこの頃、現当主であるラルー・ビーズ・ルロワが誕生します。(1933年生、写真左) 1942年、アンリ・ルロワはその蓄財をもとに、ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社(以下DRC)の半分の所有権を取得し、ヴィレーヌ家と共に共同経営者となります。以後、アンリは自分の持てる最良の技術、経営手腕をDRCに注ぎ、情熱的にDRCの改革を実行。フォロキセラによって荒廃したロマネ・コンティ畑の植替えを行い、見事その栄光を蘇らせます。後にアンリ・ルロワは自分の二人の娘、ポーリーヌ・ロック・ルロワとラルー・ビーズ・ルロワにDRCの持分を平等に分配します。
またこの年から、DRC社のワイン販売代理権において、イギリスとアメリカを除く全世界への権利がルロワ社のものとなり、同年、ルロワ社と高島屋商事との間で日本における代理店契約が調印されています。以後日本では、ルロワ社のワインと共にDRC社のワインも高島屋が独占的に販売するようになります。(80年代まで、ルロワを介して出荷されたDRCのボトルには、右の写真のようなLeroyの帯が貼られていました。) |
1955年以降、ラルー・ビーズがルロワのワイン事業に参画、最高品質のワインを求め各生産者を積極的に訪問するようになります。複数年契約や馴れ合いの取引を嫌う彼女は、プレミアム価格を支払ってでも、ブルゴーニュ最上のワインだけを選択し、ネゴシアン業としてのルロワに対する名声は確固たるものとなります。しかし、ルロワ社の売上において、DRCの販売権は全体の2/3を占めていたようで、ルロワにとっていかにDRCの存在が大きかったか、そしてDRCのお蔭で「ワインのルーブル」と評されたメゾン・ルロワのストックが充実したというのも事実のようです。 1980年、アンリ・ルロワは死去し、ルロワ社の事業をラルー・ビーズがすべて引き継ぐこととなりますが、アンリは生前、いつかDRCと決別することを予見していたと言います。1992年、ルロワはDRCの販売権を失うことになりますが、これはヴィレーヌ家との意見の相違、そしてラルー・ビーズがドメーヌを立ち上げたこと等、様々な確執が表面化したことに端を発します。 |
アンリ・ルロワはDRCの共同経営者になって以来、その復興に努めてきましたが、1969年頃からビジネスにおけるヴィレーヌ家との意見の相違は、年を追うごとにその溝が深まったようです(注2)。品質追求するルロワ家としては、価格が暴騰するDRCワインの品質に対し少なからず憂慮していたようで、跡を継いだラルー・ビーズ・ルロワ(以下マダム・ルロワ)にとっても、二人の経営者が共同で事業をすることの難しさを悟ったのでしょう。マダム・ルロワは、1988年に自らのドメーヌを立ち上げることになります。 ドメーヌを興す経緯については「98年10月のお題目」に書かせて頂きましたが、70年代から80年代にかけて、化学肥料や農薬の散布によってワインの味が微妙に変化しているのを感じたマダムが、畑から手当をする事が重要と考えたのが最大の理由だと思われます。そして同時期にブルゴーニュの優れた生産者達が元詰めを開始し、ワインを販売するようになったため、彼女が思うような高品質ワインの入手が困難になった事も要因の一つ。また前述の流れのように、他者の介入なしにワイン造りを行える環境が欲しかったというのも、マダムの個人所有となるドメーヌ・ドーブネを購入した事から伺えます。
ドメーヌ・ルロワにおけるあくなき品質への追求は、先代の育てあげた「ブルゴーニュの真珠」を手放す結果となりましたが、マダムがDRCを追われ自らのドメーヌを立ち上げた事は、良い事だったとする評論家も多いと聞きます。非常に気高く、自己主張の強いマダムは、他者と相容れない部分があり、えてして非難の的になることさえあるようですが、ブルゴーニュにおいて、いかに彼女の存在が偉大であるかというのは、近年のドメーヌ・ルロワへの賛辞や市場価格を見れば分かるように思います。 (注2 : 1976年に行われた「米仏テイスティング対決」の審査員として出席したヴィレーヌが、そのブラインド・テイスティングにおいて、カリフォルニアワイン圧勝という結果に関与したことを、ルロワが罵倒したこともあったとか・・・気の強いマダムらしい話。) |
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