人類が最も古くから栽培してきた植物のひとつであるブドウ。それはメソポタミアからエジプト人、フェニキア人の手を経て、ガリア(現在のマルセイユ)に伝わったとされます。紀元1世紀には、ギリシャ人、ローマ人たちによりローヌ河流域へ入り、その後ブルゴーニュやボルドー、ロワール、シャンパーニュへとブドウ栽培やワイン醸造が広められました。 ローヌ地方はフランスへのワイン伝来における各産地への玄関口であったと同時に、スペインやポルトガルへの中継点としても重要な役割を果たしており、こういった歴史背景は、遺跡群やこの土地に纏わる故事に垣間見る事が出来ます。 3回に渡ってローヌに関して特集しましたが、「太陽と歴史の産地」というタイトル通り、最後はその歴史について。ローヌの中でもワインの変遷を探る上で重要な意味を持つ、シャトーヌフ・デュ・パプを中心にまとめてみようと思います。 |
ワイン産地としてのローヌの歴史を辿っていく中で、最も興味深いのが「法王の新しい城」という意味を持つシャトーヌフ・デュ・パプ。ご承知のように、現在、南部ローヌで最も重要なアペラシオンとしても真っ先に挙げられる産地。 12世紀初頭、ローマ法王となったフランス人のクレメンス五世は、イタリア国内での教会的な派閥争いを嫌い、ローマに入ることもなく、1309年には法王庁を南仏のアヴィニョンに移してしまいます。その後アヴィニョンは、政治、経済、文化の中心として栄華を極めますが、クレメンス五世が別荘を構えたのが、アヴィニョンから北へ約20kmほど離れた小高い丘。ここに築かれた城は「法王の新しい城:シャトーヌフ・デュ・パプ」と呼ばれ、地名の起こりとなっています。 クレメンス五世は、ワインに関して造詣が深かったとされ(注1)、この一帯ではアヴィニョンの発展と共にワインの生産が盛んになりました。クレメンス五世以降、7人の法王(すべてフランス人)が生まれることになり、約1世紀の後、法王庁はローマに戻されますが、彼等がもたらしたワイン造りの文化はこの地に根付いたと言います。 (写真 : 有名なフランス民謡「アヴィニヨンの橋で : Sur le Pont d'Avignon」の舞台となっている聖ベネゼ橋。当時のアヴィニョンの賑やかな様子が歌われています。) |
その後、アヴィニョン周辺は次第に衰退し、産出されるワインは地元での貴族や商人達の消費に充てられていましたが、18世紀には、パリの裕福な層、宮廷や貴族の間で評判となり、ワインはパリを目指して輸送されるようになります。 当時の物流は水上輸送が主体で、ワインも船舶を使い輸送されていました。船はローヌ河を遡り、リヨンからソーヌ河に入り、パリへ運ばれた訳ですが(注2)、その道程の中間地域、そしてワイン売買の重要なチャンネルを持つ地域がブルゴーニュ地方でした。 18世紀の段階では、シャトーヌフ・デュ・パプに限らず、生産者がワインを自ら販売する事は稀で、多くはネゴシアンに樽ごと売られていました。当時のローヌワインは、一旦ブルゴーニュのネゴシアンに樽で買い取られ、適正な熟成を経た後、出荷されていたようです。 現在でもブルゴーニュでネゴシアン業を営む「ルロワ」「モメサン」「ビショ」「ブシャール」等の大手(注3)が、ローヌのACワインを自社のラベルで販売するケースが見られますが、18世紀から19世紀にかけて、ローヌとブルゴーニュが密接に繋がりワインを売買していた流れからくるものだと思われます。また20世紀半ばまで、ローヌワインはブルゴーニュ赤ワインの酒精強化用に使われていたとも言われます。 (注2 : フランスの内陸を流れる主要な河川は、数多くの支流や運河で繋がっており、フランス地図を見れば、ブルゴーニュ運河、ローヌ・ライン運河など、ワイン産地を結ぶ運河が確認できます。) |
1935年、フランス政府は原産地統制呼称(AOC)法を制定しました。世界的に見ると、2000年5月のお題目で紹介したポート・ワイン(ドウロ生産地域指定の規制)が世界初の原産地呼称ですが、フランスにおけるAOC法は、シャトーヌフ・デュ・パプがその発祥の地とされています。 19世紀末、フランス全土を襲ったフィロキセラ(ブドウ根あぶらむし)。皮肉なことに、この地方はフィロキセラも最初に伝来し、1863年、南部ローヌのリラックで初めて発見されました。フランス国内でも、実質的に一番被害の大きかったのはローヌ地方のようで、シャトーヌフ・デュ・パプの畑も壊滅的な状態となりました。元々農業を主とし、他に主要な産業を持たない南部ローヌは、接木によるフィロキセラ対策(ブドウ樹の植替え)を講ずる上で、十分な資産を持っておらず、またこの地区独特の大きな石による川原のような土壌(注4)は、その作業を妨げたに違いありません。 20世紀に入り、少しづつ畑の手当も進み、ワイン産業が再生してきた頃、新たな問題として「偽造ワイン」の氾濫が持ち上がりました。その頃のフランスではネゴシアンによる熟成、販売が主であり、同じ出所のワインにもムラがあったわけですが、フィロキセラの影響により、数少なくなった銘醸ワインを装ったり、生産量の減少をカバーするため、量産品種で造られた個性のないワインで水増しされたものがネゴシアンを通して流通していたと言われます。 当然の事ながら知名度の高いブルゴーニュやボルドーのワイン(注5)は、偽造ワインの標的となりましたし、シャトーヌフ・デュ・パプも例外ではありませんでした。1920年代、この状況に立ち向かったのが、旧法王庁の隣にある「シャトー・フォルティア : Chateau Fortia」のル・ロワ男爵で、こういったワインから自分達のワインを守るための規制を策定します。 従来の商慣習を覆す規定が、御座なりの商売をする人々に受け入れられるはずはなく、当のワイン生産者達にも理解を得るには、十分な時間を必要としたようです。しかしながら、1930年にはシャトーヌフ・デュ・パプ独自の規制(注6)を発効し、同様の自主規制は他のワイン産地も採択するところとなります。こうした動きから政府は原産地統制呼称法を定め、国立原産地統制呼称委員会(INAO)を発足させます。 (写真 : 生産者元詰めのシャトーヌフ・デュ・パプのボトルには、伝統的にこの紋章が刻まれます。これも偽造ワインを防ごうとした、当時の人々のアイデア。) |
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今回のお題目は、参考文献の他に、中山慶太さんの書かれた「マカロニ・アンモナイト : 天孔雀亭」を参照させて頂きました。大変楽しいエッセイなので、是非ご覧になって下さい。 |
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