秋重対馬守の墓

堀川百首に「宿もせに朝毎稲を干すよりはでを結びて懸くべける」「隆源」としかれば元ハデの干場を
意をとり地名を羽出庭と称せり
                        (芸藩通史)
羽出庭
 羽出庭は刈り穂を懸け乾かす場、農民の稲穂を懸け
 乾かす木をハデと呼ぶ
成広谷(羽出庭地内)
 毛利元就が陣屋を構えし地なりという。
 元就が出陣の祝辞に近隣の村名に因んで陣は鶴翼羽出庭
 兵は大力谷楯は板木村といいしと今に門出屋敷と呼ぶ所
 あり
拍子ヶ原
 羽出庭(成広谷入口浜東坂の上地帯)
 毛利元就が出陣のとき此の原にて軍勢を揃え拍子をとり
 し場なりという。
大将軍社(成広谷地内)
 毛利家の尊崇篤く家老秋重対馬守として宮を譲らしめ毎年
 の祭日には元就直参し高鉢山拍子ヶ原より拍子をとり
 つつ行列を整て来りて盛に祭典を行いたりという
秋重対馬守の墓は現在も兒玉家の墓の近くに在る。
秋重屋敷は現在の兒玉(秋本)である。兒玉家の伯父(福一)が
隠居をしてすぐ近くに出たが事情あって帰ってきたその時秋本を
名乗ったため秋重の名がなくなった。
しかし、分家は重広、清重、重光、重本と重の名を分けた秋は
分けなかったという伝れがある。