「江木塔の写真師たち」 z0690
中央区文化財調査指導員 野口孝一
江木写真店(明治24年)
 外堀通りの銀座八丁目角、静岡新聞東京支社ビルのところにかつて江木写真店がありました。六層の塔を持つ洋風の建物で、土橋から銀座へ向かうと、ひときわ目立ち銀座のひとつのランドマークになっていました。
 江木写真店は明治13年(1880年)に
江木保男、松四郎兄弟によって京橋区山城町(銀座6丁目)に開設されました。江木商店と名乗っていました。松四郎はアメリカへ、保男はオランダへ渡り、写真術、業界事情について研究をし、帰朝後、明治17年に神田区(千代田区)淡路町に改めて写真店(本店)を開設し、ついで明治24年4月、京橋区丸屋町(銀座8丁目)の牛肉店・黄川田(きかわだ)を買い取り、そこに六層の塔を持つ支店(のち江木写真店支店となる)を新築、同年暮れに開業しました。なおこの建物は彼自身の指図によるもので、建築家の設計に頼らなかったといい、大正11年の改築にあたり取り壊されました。
 江木保男、松四郎兄弟は、福山藩の儒学者
江木鰐水(えぎ・がくすい)の5・6男として生まれました。すぐ上の兄に江木高遠(えぎ・たかとう)がいます。高遠は明治2年開成学校(のちの東京大学)に入学しますが翌年皇族華頂宮(かちょうのみや)に従い渡米、明治6年に帰国するも、翌明治7年に再渡米し、コロンビア法律学校で法律学を学びました。明治9年に帰国して東京英語学校、ついで元老院、外務省に勤め、明治13年3月に外交官として三度目の渡米をしました。恐らく松四郎は、アメリカ事情に詳しい兄の高遠からの勧めもあって渡米に同行したものと思われます。なお、開店当初、六層の支店を「福山館」と称していましたが、それは郷里の福山から採ったものでしょう。
 海外の最新の知識をえて帰国した二人のうち、保男はおもに経営面を担当し、松四郎は技術面を担当しました。技師として神田の江木本店には工藤孝が、銀座支店には成田常吉
(なりた・つねきち)が入店して質のよい写真を撮っていました。保男は明治31年病のために43歳の若さで亡くなり、妻エツ子は13歳の息子定男を抱えて経営に当たりました。この時、神田本店を松四郎に譲りましたが、松四郎も翌年亡くなり、息子善一が後を継ぎました。 技師の成田常吉は、横山松三郎から写真の手ほどきを受け、明治24年に江木写真店に入店し、17年間勤務し、明治41年退店して同年日比谷公園幸門内に成田写真館を開店しました。一万円札掲載の福沢諭吉の肖像写真は江木時代の成田の撮影になるものといわれます。江木写真店と慶應義塾との関係は浅からぬものがあり、しばしば出張撮影をしており、写真帳『慶應義塾校舎一覧』を作成しています。福沢諭吉最晩年の、塾生との散歩姿を撮影した「散歩する福沢諭吉」は、恐らく成田の撮影になるものと思われます。
 二代目に当たる江木定男はやがて官吏(農商務省)の道を歩み、実務には就かなかったようで、経営は母エツ子を中心に行われました。新たに技師長に中村利一も加わり、宮家・華族・財界などを顧客とし、繁盛するようになりました。文豪夏目漱石の見合い写真を撮ったのもこのころのことです。 なお、定男の妻
ませ子は、愛媛県令をつとめた関新平の娘で、異腹の姉に美人の誉れ高い江木栄子(欣々(きんきん))がいます。栄子を生んだ母は正式の結婚でなく、栄子は里子に出され、のち新橋の芸者置屋松屋から「ぼたん」の名で出て、芸者となりましたが、法律学者江木衷と知り合い、正式に結婚しました。一方ませ子は日本画家鏑木清方(かぶらき・きよかた)の名作「築地明石町」のモデルとして広く知られています。定男との結婚の事情についてははっきりわかりませんが、定男もませ子も学生時代に文学青年・文学少女であって、ともに泉鏡花の「鏡花会」に入っていました。そして二人とも学生時代に結婚したといいます。
 ませ子は清方の妻照と女学校の同窓でもあり、作家の泉鏡花の紹介で清方のもとに絵を習いに通うようになりました。清方はかねてから美しいませ子をモデルにして絵を描きたいと願っていた思いが実現し、「築地明石町」が誕生したのです。なお、栄子とませ子は結婚後同姓を名乗りますが、江木定男と江木衷とは姻戚関係がなく、偶然の一致でした。 江木写真店には大正2年(1913年)、アメリカで写真術の修行をして帰国した五十嵐与七が入店してきました。五十嵐はのちに江木写真館の一時代を築くことになります。
出典1:「東京都中央区のホームページ」
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