福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
頼春水
らい・しゅんすい
広島藩儒、頼山陽の父
頼春水 (出典1)


経 歴
生:延享3年(1746年)6月30日、安芸国竹原(現広島県竹原市)生まれ
没:文化13年(1816年)2月19日、享年71歳、比治山安養院に葬る
平賀中南に学ぶ
明和元年(1764年) 18歳 京阪に出る
大坂において趙陶斎に師事
片山北海の漢詩結社「混沌社」に入る
大坂において青山社という私塾を開き、町儒者として活躍する
安永9年(1780年) 34歳 菅茶山が大坂の春水を訪ねる
天明元年(1781年) 35歳 広島藩儒、藩の学制を程朱学によって一新
寛政12年(1800年) 54歳 江戸勤番、 昌平黌の教授を兼任
享和2年(1802年) 56歳 2度目の江戸勤番、 昌平黌の教授を兼任
松平定信に献策


生い立ちと学業、業績
 江戸時代後期の儒学者。諱は惟寛、のち惟完(ただひろ)。字は千秋(せんしゅう)・伯栗、号は春水・霞崖・拙巣・拙巣子・和亭。通称は弥太郎。はじめの名は青圭。安芸国竹原(現広島県竹原市)出身。延享3年(1746年)6月30日生まれ。
 父、亨翁
(こうおう)(又十郎)は、頼兼屋(よりかねや)という紺屋(こうや)を営む旁ら、京師の馬杉亨庵・小沢蘆庵に和歌を学んだ。母は仲子、道工氏の出身。
 はじめ平賀中南に就いて学び、大坂に出て趙陶斎に認められ、片山北海の混沌詩社において名を挙げ、懐徳堂の中井竹山兄弟と親交を結んだ。当時、大坂に尾藤二洲・古賀精里が在り、ともに程朱学を考究した。
 天明元年(1781年)、広島藩儒に登用され、江戸勤番を並行して、藩の学制を程朱学によって一新した。江戸においては白河入部直前の松平定信に献策するなど、後年の寛政の学制改革(寛政異学の禁)への布石を打った。
 晩年は広島に在り、隣国備後の
菅茶山と詩文の交わりを重ねた。文化13年(1816年)2月19日、71歳で没。城南、比治山の安養院(現広島市南区比治山町の多聞院)に葬る。
 『春水遺稿』12巻(『詩集日本漢詩』1期10、影印)、『春水遺響』(『広島県史』近世資料編6)、『春水掌録』(『随筆百花苑』4、うち『霞関掌録』は『影印日本随筆集成』7・11にも収める)、『東遊雑記』(『広島県史』近世資料6)などの著がある。
 また頼祺一編「頼春水在坂期書簡」)(『近世後期朱子学派の研究』所収)がある。

 
頼春風頼杏坪は弟、頼山陽は子である。   (出典1)〜(出典3)


誠之館所蔵品
管理 氏  名 名  称 制作/発行 日 付
03864 頼春水 書 七言二行詩「幽溪鹿過」(書幅)
07276 頼春水 書 七言二行詩「幽溪鹿過」(色紙)
t1170 頼春水 書 五言絶句「植杖」
07291 西原千代 著 『菅茶山』 白帝社 平成22年
00027 頼春風 差出 「頼春風差出書状」


出典1:『頼山陽と芸備の文化』、19頁、財団法人頼山陽記念文化財団編刊、平成7年11月3日
出典2:『国史大辞典14』、485頁、吉川弘文館刊、平成5年4月1日
出典3:『菅茶山 自然へのまなざし』、28頁、菅茶山記念館編刊、2007年10月
2005年12月2日追加●2005年12月6日更新:写真・出典●2006年6月28日更新:タイトル・所蔵品●2007年11月8日更新:経歴・本文●2008年1月9日更新:経歴・本文●2014年10月10日更新:誠之館所蔵品●2014年11月14日更新:誠之館所蔵品●2016年1月18日更新:レイアウト●2016年1月22日更新:誠之館所蔵品●2016年3月9日更新:誠之館所蔵品●