福山阿部藩
藩主
誠之館
先賢
福山藩
関係者
誠之館
歴代校長
誠之館
教師
誠之館
出身者
誠之館と
交流した人々
誠之館所蔵品
関係者
誠之館同窓会
歴代役員
窪田次郎
くぼた・じろう
医師、教育啓蒙家
窪田次郎 (出典1)


経 歴
生:天保6年(1835年)4月24日、備後国安那郡粟根村(現福山市加茂町粟根)生まれ
没:明治35年(1902年)4月18日、享年68歳、粟根村窪田家墓所に葬る
嘉永元年(1848年) 13歳 備中簗瀬村「桜渓塾(さくらだに・じゅく)」の阪谷朗廬に漢学を学ぶ
嘉永5年(1852年)ごろ 18歳ごろ 江木鰐水の久敬舎へ入門
嘉永6年(1853年)2月〜
 嘉永6年(1853年)12月
18〜
19歳
備中簗瀬村の山成弘斎(山鳴好斎)に蘭医学を学ぶ
安政元年(1854年)2月〜
 安政2年(1855年)2月
19〜
20歳
大坂で緒方郁蔵(研堂)の門下となる
安政2年(1855年)2月〜
 安政5年(1858年)2月
21〜
24歳
京都で赤澤寛輔に蘭学、蘭医学を学ぶ
京都の新宮涼民について蘭医学を学ぶ
下総佐倉の佐藤泰然(さとう・たいぜん)に蘭医学を学ぶ
下総佐倉の佐藤尚中(さとう・たかなか)に蘭医学を学ぶ
安政5年(1858年)3月〜
 文久元年(1861年)6月
24〜
27歳
播磨加東郡木梨村の村上代三郎に蘭学、蘭医学を学ぶ
文久2年(1862年) 28歳 帰郷し医業を継ぐ
明治2年(1869年) 35歳 飢饉の救助活動
明治3年(1870年)3月 35歳 細川貫一郎と「奉郡令書」を藩に建言
明治3年(1870年)8月 36歳 藩立同仁館医員の要請をを辞退
明治3年(1870年)12月 36歳 「啓蒙社大意並びに規則」を起草し藩庁へ建議する
明治4年(1871年)1月 36歳 藩より啓蒙所設立の承認を得る
明治4年(1871年)2月6日 37歳 深津村啓蒙所を開所、その後つぎつぎと啓蒙所を開く
明治4年(1871年) 37歳 藩の権大属となり藩札の整理にあたる
明治4年(1871年)8月〜
 明治5年(1872年)3月
38歳 藩命で上京
明治5年(1872年) 38歳 弟堅三が没、以後医学研究に取り組む
明治5年(1872年) 38歳 議会構想
明治5年(1872年) 38歳 「細謹社」設立
明治6年(1873年) 39歳 小田県の田舎医生研究所を設立し、片山病を研究する
明治6年(1873年) 39歳 医学校兼病院創立周旋方に就任
明治6年(1873年) 39歳 バセドウ氏病本邦第一例報告
明治7年(1874年) 40歳 民選議院開設要求
明治7年(1874年) 40歳 学習結社「蛙鳴群」の結成
明治9年(1876年) 42歳 診療停止処分を受け、三村立庵に寄留
明治10年(1877年) 43歳 地租改正反対運動
明治12年(1879年) 45歳 岡山へ移住
明治16年(1883年) 49歳 片山病患者の病理解剖


生い立ち・学業、業績
「窪田次郎」   (出典2)、(出典3)、(出典9)、(出典10)

幼名は祐之進・堅之進、名は和寛、字は士介、通称は次郎、奚疑草蘆・酔茗と号した。備後国安那郡粟根村(現福山市加茂町粟根)の蘭方医である父・窪田亮貞
(くぼた・よしさだ)と母・孝の次男に生まれる。窪田家は代々庄屋を勤めていたが祖父の頃から家産が傾き、父の代から医を業とした。阪谷朗盧江木鰐水に儒・詩文を、山成弘齋(好斎)・緒方郁蔵・赤澤寛輔・新宮涼民・佐藤泰然(さとう・たいぜん)・佐藤尚中(さとう・たかなか)・村上代三郎などに蘭医学を学んだ。

明治以降、次郎の業績は、政治・民生・教育・医療・衛生など広範におよんでいる。これらのうち主なものを列記すれば福山藩議院と粟根村代議人制度、小田県議事所と下議員結構ノ議案、官選議院と臨時民選議員、学習結社「蛙鳴群(あめいぐん)」結成と地方官会議などの構想や建白活動。報国両替社の設立や粟根村農民費用見込み表作成などによる租税改革運動、啓蒙社の設立と啓蒙所の設置、細謹社の設立と書籍の出版活動。小田県におけるさまざまな建白と医療活動、医学講習社中解剖式創定、奉天会・癒止社の共同医学研究、コレラの予防活動、安那郡共立衛生会の結成、備中浅口郡医師会での活動、風土病「片山病」の研究・バセドウ病患者の発見や指圧術の開発、医業分業論の提唱活動などである。

晩年は岡山に住み、68才にて没す。粟根村窪田家墓所に葬る。戒名は仁護院賢雅日匠居士。

昭和29年(1954年)、旧屋敷への入口に「窪田次郎先生菩提」碑が建っていて、横面には「南無妙法蓮華経」と略歴がある。
「明治の医人 窪田次郎」  岩崎博(昭和19年卒)、園尾裕(福山城博物館)   (出典4)

経歴と活動

窪田次郎は、窪田亮貞の次男として粟根に生まれる。父亮貞は窪田家没落に際し隣の北山村柴目の河合家から養子に入り、長崎、京都に学んだ一流の蘭医で、次郎も若年にして阪谷朗盧江木鰐水を師とし、長ずるや山成弘斎に入門、蘭医を志し緒方洪庵の片腕緒方郁蔵(大坂)、赤沢寛輔(京都)、播磨の村上代三郎(洪庵の高弟)など当時盛名の蘭医のもとで修行、文久2年(1862年)帰郷し父の後を継ぎ開業する。当時27歳であった。

明治3年(1870年)啓蒙所設置の建言、明治5年(1872年)の議会構想、明治7年(1974年)民選議院開設要求、「蛙嶋群」の結成等社会思想家として活動、県令が「今より啓蒙所を直ちに小学校とみなす」とし、ここで普通学がなされることになる。明治7年(1874年)視察の文部大丞長三洲が「啓蒙所には文部省もいささか先手を打たれたる感あり」と語ったという。

しかし次第に画一的な立身出世主義をべースにした教育制度が固まるなかで「啓蒙所を廃し公立小学校の設置に変じ」た中央に、民衆の盛り上がる力で「啓蒙所」を作り普通教育をあまねく定着しようとした彼は「余が心算茫然たり」と失望を述べ、職を辞して郷里に帰る。明治5年(1872年)設立の「細謹社」は医学書籍、啓蒙書、翻訳書等近代化に緊急な書籍の出版を目指すもので、知識人の力を結集して民衆を啓蒙せんとする意向にそうものであった。

医療活動

彼が当時トップクラスの蘭医であったことは経歴の示す通りだが、江戸時代を「民衆の衛生が最も抑圧された時代」と捉え、その批判の上に立って「新しい国家はまず国民の健康及び衛生を実現することから始めなければならない」、「人問万事ことごとく皆衛生の外に出でず」と述べるように、独特の衛生第一主義が彼の思想の根幹にあった。医療衛生における彼の活動は極めて多彩、精力的である。明治6年(1873年)備中、備後17郡の医師に呼びかけ「田舎医術調所」設置を提案し学術を交易し「知識聯絡の線路」を立てようとしたが、まさにそれが今日の医師会、医学会の設立趣旨そのものであることに驚く。明治7年(1874年)「医制」が制定されるが医師養成の学校は地方になく、公立医学教育機関の設置が緊急課題となる。しかし窪田が現場で期待するのは新しい医師の養成より、まず地方開業医師を再教育し既成の医療現場を改善することで、その為に医学研究会(田舎医生研業所)の設置を待望した。残念ながら「漫りに時運に先立つを以て」周辺開業医の積極的な共嶋者が得られず事は成らないが、この時の交友が明治10年(1877年)以降に始まる医会活動に役立っている。明治6年(1873年)末医学校兼病院設立を目指し寺地強平を議長として開催される小田県「医業取立臨時議会」には医学校兼病院創立周旋方に就任、在野医師に有利な医学研究施設を作ろうとするが、明治7,8年(1874、5年)、次第に医療行政が県の強いリーダーシップで固まりつつある時代、窪田の意見もスムースに通らなくなるとともに反権力的姿勢を強めついに創立周旋方も辞任する。明治9年(1876年)、旧小田県備後6郡の広島県編入に伴い、既に医学校設立を準備していた県から意見を求められるが、応じようとしない。こうした非協力的姿勢のためか「診療停止」処分となり、笠岡の三村立庵に寄留して医療に携わるという波乱である。その後も窪田は医会衛生会の結成、医学上の研究に奔走。明治6年(1873年)バセドウ氏病本邦第一例報告。またコレラの予防活動に挺身する開業医として県の対応指針の不条理に激しく抗議している。明治16年(1883年)片山病と疑われた和田コトノに対する初めての病理解剖も、共立衛生会で杉原靖斎ら多くの医師が診察し関係医師の投票で病名を決める手順を経て死後の解剖がなされる。連帯と合議によって地方医業のレベルを高めようとした彼らしい手法である。没後医師達は丁重に葬っており、著者の一人園尾が苦労して発見した和田コトノの墓は神辺町道上の和田家墓地、両親の横にひっそりと夏草の中にあった。

明治12年(1879年)彼は岡山に移住する。そして「毎月21日は帰郷、墓参、医会に出席は死に至るまで乱さず」という生活でほとんど政治批判はせず、医者として意欲的に過ごし、明治35年(1902年)、68歳で没する。子息、定によれば、「己修処世」の訓言を残し
菅茶山の芍薬の詩を微吟しつつ去ったという。

むすび

明治初期、福山地方の医療近代化に貢献した代表的な医人の一人は寺地強平であり、一人は窪田次郎ではないかと思う。寺地強平は文化6年(1809年)から明治8年(1875年)、窪田次郎は天保6年(1835年)から明治35年(1902年)であるから、窪田は寺地より26歳若く、没年も27年遅れる。寺地は誠之館の初代洋学寮教授となり、福山藩医学校兼病院には院長として表舞台で活躍し多くの弟子を育てる。これに反し窪田次郎は、官に頼らず在野、粟根村開業医であることを終生の誇りとした医人で対照的であるが、変革の時代のリーダーとして二人の業績に優劣は付け難い。

二人の違いを端的に示すのは福山藩病院兼医学校設立に際する出処進退のドラマではなかろうか。福山藩の病院建設に際し寺地は、洋医として著名な窪田を教授に抜擢任命するが、彼はこれを辞退する。江木鰐水は窪田の宿所を訪い翻意を促すが決意は変わらず、虚名を以て大任につくことを恥じ、かつての没落窮乏の生家や、勉学を助けてくれた近隣の人々への報恩、父母への孝養により一生を終えたいと言いきる。貴官、高禄を食むより「只栗根村医師」として尽力したい、粟根村近隣9ヶ村に医者は彼一人であり、福山の病院は遠く、「辺境之窮民」の病苦を救うのが自分の任務であるとも言う。彼の目指すのは近代的な医師を養成する寺地の医学校ではなく、管内医師再教育のための「小医校」の設置で、その拒絶が彼のポリシーの根幹に関わるものであったことは明白である。


誠之館所蔵品
管理 氏 名 名  称 制作/発行 日 付
03064
有元正雄  著
頼祺一
甲斐英男
青野春水
『明治期地方啓蒙思想家の研究
−窪田次郎の思想と行動−』
昭和56年
03141 広島県立歴史博物館 編 『医師・窪田次郎の自由民権運動』 広島県立歴史博物館友の会 平成9年
05549 杉本武信 著 『自治のすヽめ』 杉本武信 平成14年
06828 杉本武信 著 『窪田次郎が遺した日本の宿題』 ザメディアジョン 平成24年
07200/
07254  
杉本武信 原作
青木萌 シナリオ
ひろゆうこ 作画
『まんが「福山を知ローゼ」第3集
まんが物語 窪田次郎 医師で偉大な啓蒙思想家』
福山市/
学研マーケティング
平成27年


探しています
氏 名 名  称 制作/発行 日 付 コメント
窪田次郎 著 『前川林蔵療養書類』 明治11年 森田佐平・小見山昌哉共著
窪田次郎 著 『造化機論』


出典1:『医師・窪田次郎の自由民権運動』、広島県立歴史博物館編、広島県立歴史博物館友の会刊、平成9年4月24日
出典2:『福山の古写真集』、156頁、福山城博物館友の会編刊、2000年10月1日
出典3:『近世後期の福山藩の学問と文芸』、80頁、福山城博物館編刊、1996年4月6日
出典4:『広島県医師協だより(315号)』、広島県医師会編刊、昭和55年
出典5:『文化財ふくやま(第30号)』、59頁、「堀無彊と江木鰐水」、園尾裕、福山市文化財協会編刊
出典6:『広島県の医師群像−明治時代−』、39頁、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和61年1月1日
出典7:『福山の今昔』、177頁、濱本鶴賓著、立石岩三郎刊、大正6年4月26日
出典8:『郷学福山啓蒙所の一考察』、久木幸男・山田大平著
出典9:『廣島県醫人傅(第1集)』、28頁、「窪田次郎」、江川義雄編刊、昭和61年4月19日
出典10:『福山いしぶみ散歩』、96頁、佐野恒男著、福山文化財協会刊、1993年5月12日
関連資料1:『備後春秋(第64号)』、63頁、「明治の開業医窪田次郎」、岩崎博・園尾裕、備後春秋編集部編刊、平成9年7月1日
関連資料2:『広島県の医学歴史散歩』、64頁、「窪田次郎の生家跡」、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和57年8月1日
関連資料3:『芸備両国医師群像』、30頁、「窪田次郎」、阪田泰正著、安芸津記念病院郷土史料室刊、昭和58年1月1日
関連資料4:『自治のすヽめ』、289頁、杉本武信著刊、2002年10月1日
2005年1月24日更新●2005年2月14日更新:経歴●2005年4月13日更新:出典●2005年12月7日更新:経歴・本文●2005年12月8日更新:所蔵する関連資料●2006年3月3日更新:所蔵品●2006年4月28日更新:タイトル・所蔵品●2006年12月19日更新:所蔵品●2007年9月20日更新:関連情報・参考資料●2007年9月26日更新:経歴・出典●2008年1月8日更新:本文・関連情報削除●2009年7月15日更新:経歴・誠之館所蔵品●2009年9月17日更新:経歴・誠之館所蔵品・出典●2009年9月30日更新:関連資料●2009年10月1日更新:関連資料●2009年10月19日更新:出典・関連資料●2009年12月21日更新:誠之館所蔵品・関連資料●2010年2月16日更新:著書・訳書●2010年4月1日更新:探しています・出典●2011年9月5日更新:経歴●2011年9月6日更新:分類(福山藩関係者、誠之館と交流した人々・緑→紫)●2011年9月14日更新:経歴●2011年9月30日更新:経歴・本文●2011年10月4日更新:経歴●2012年2月2日更新:本文・出典●2014年4月19日更新:誠之館所蔵品●2014年6月30日更新:誠之館所蔵品●